二章 (2)
王都のそばには、カルンという川が流れている。かつては大河と呼ばれ、このサーキス王国の沃土は遥か昔、その大河の底にあった。平野部には大河の名残である川岸が、崖として川の上流と下流に向かって走っているが、それは現在の川岸から平均で五十キーブも離れた場所のことである。かつての河幅がそれほどのものだという証拠だ。
ワスマイルという男は、カルン川から王都に向かって引かれた水路の途上にある水車小屋にいるという話だった。
城門の外は、芽吹いた緑が鮮やかであり、また畑には豊かな土が実りを期待させるかのように黒くふくよかである。
馬上から、ルセカーの視線は水路を追って道を探した。それらしい道は一本しかなかったのですぐにそれと判る。
時間には余裕がありそうだったので急ぐことはしなかったが、まもなくめざす水車小屋は見えた。逆に早く来すぎたかと心配した。
小屋の外見を一望して、ひと気は感じられなかった。
水車は、刈り入れた穀物を製粉するための動力として使われる。周囲の畑が土ばかりで黒ければ、水車にも当分出番はないということだ。
小屋の脇に馬を繋いで周囲を歩く。
周りに転がる桶や脱穀のための農具は砂埃を被っていて、ひと気のなさは確かだ。
唯一、黒い畑の地平線でぽつんと、農夫が鍬を振るっているのが見える。
ルセカーは小屋の戸を慎重に押した。薄板の戸はがたがたと、今にも蝶番が外れそうな音をたてて開く。
はっ、とルセカーは息を呑んだ。中で溜まっていた空気が、外気と混じって血の臭いを運んだのだ。
次の瞬間、ルセカーは脳裏に何かを閃かせて後ろへ転がった。
直後、元いた場所に、突き出した剣ごと天井の梁から男が飛び下りてきた。野性じみた五感か、あるいは六感か。辛くもルセカーは剣の餌食になることを免れた。
だが、危機はまだ過ぎ去ってはいない。
でんぐり反ったせいで逆さに被ってしまった愛用のずたぼろマントを背中の方へ跳ねのけると、すかさず剣を抜く。
こういう事態のための帯剣か……!
ルセカーは自分の油断に舌打ちした。生命の危険がない訳ではない事を予測するべきだった。王都の中の危険のない暮らしは、そういったものへの心構えを緩めさせてしまっていたらしい。
「誰だ、おまえ!」
ルセカーが素早く誰何する。問答無用で斬り殺されてはたまらない。
男の身形は傭兵か何かだ。少なくとも人を殺害することに躊躇のない種類である事は容易く識れる。だが、そういった人間とて無差別に人を殺すわけではない。利がなければ不要にそれは行なわない。そして利とは、大抵が金で量られるものだ。それが得られる為の条件がそろった上でなくば、無理を押してまで相手はこちらを殺そうとはしないだろう。
「おまえこそ誰だ、小僧」
男の問いに、ルセカーはしばし沈黙して考えた。少なくとも、男は相手を選んで殺してくれるらしい。
「ルセカー、使いで来た」
「誰の使いだ」
「その前にそっちも名乗れよ」
今度は男が沈黙した。その間、互いの挙動を封じ合うように眼を逸らさない。
「俺はある人物に宛てた手紙を預かってきた。だから、あんたの名前を知りたい」
ルセカーは悩んだ上で藪をつついた。出てきたのは……。
男が動いた。剣を横に滑らせてルセカーの胴を狙う。心臓を掴まれたかの様にルセカーの呼吸が止まった。生死を分ける刹那、殺意の剣を掻い潜る。次の瞬きでルセカーの剣は男の懐に飛び込んでその胸を貫いていた。
詰まった気肺を解きほどき、呼吸を再開する。息が荒い。
人を殺したのは初めてだ。だが罪の意識は湧いてこなかった。やらなければ自分が殺されていたと、自己正当化することもしなかった。自分の身体能力ならば、男の胸を貫く事が可能だろうという閃きがあった。それが男に死をもたらすという結果までは考えなかった。実行することに躊躇はなかったが、夢中であればこそだ。その結果に罪悪を感じてはいないものの、先に罪悪を想像していたら、ルセカーは死んでいたかもしれない。
「いやあ、お見事だ坊主」
心臓が跳ね上がった。無防備な背中を晒していることに、これほどの恐怖を覚えたことはない。生死のやり取りにおいて、それがどれほど危険かをたったいま知ったからだ。
ルセカーは振り向きざまに剣を叩きつけた。それが、何気なくかざされた棒切れに、いとも容易く遮られてしまったことにルセカーは声もなく驚いた。
「落ち着けよ」
低い声の髭面が、刃を受けとめた棒切れ、鍬を手にして見下ろしていた。
「俺はワスマイル、ワーズ・ワスマイルだ」
「あ……」
途端に、膝の力が抜けた。がっくりと腰が地に落ちる。
「急ですまんが場所を変えるぞ」
ワーズ・ワスマイルはルセカーの腕を引っ張り上げた。
王都の門を、再びくぐるのには緊張した。普通にしろ、と言うワーズの声も耳には入らなかった。
二人はお互い別々に、他人の振りをして官吏のあらためを受けて門を通り抜けた。
ルセカーは過度に緊張していたが、もともと農作業にでる農民や、ほんのわずかな時間外に出る人間を細かく取り調べたりはしないものだ。農夫姿のワーズにしても、つい今しがた出掛けた少年にしても、ほとんど素通りだ。馬の手綱を引いて、ルセカーは門をくぐった。唯一の手続きが、外出の割り符である。王都から一日出る者に対しては割り符が与えられる。再び王都に入る際、その割り符を提示すればすんなりと門を通れる様になっている。出し抜く側には出し抜きやすいが、官吏も住人の往来にはある程度の寛容さを持たせている。それでなくとも、遠来する貿易商を含めた旅行者は数が多いのだ。相応の妥協であった。
「おまえ、命懸けのやり合いは初めてか」
ワーズは丸いテーブルの正面に座る少年に訊ねた。
ルセカーは木の器を握り締めてうつむいていた。器の中には聞いたことのない酒が満たされている。
ワーズは彼を酒場に連れてきた。野良仕事帰り目当ての安酒場だ。店のなかは目当てどおりに農夫らしき男たちが埋めている。ワーズもその一人として溶け込めているのだろう。だとすればルセカーは少し目立ったが、何も知らない人間が想像力を働かせれば、家を飛び出して騎士をめざした少年が、現実に打ち破られて農夫の父の元へ返ってきた図、とでも見えるかもしれない。
「そう暗くなるな。殺らなければ殺られていた」
夢破れたわけではない少年を、ワーズは慰めた。
「べつに、落ち込んでいるわけじゃない。疲れただけだ」
「ならば、俺が敵か味方かも判らないうちに気を抜いて座り込むんじゃあない」
急に厳しく叱責するような口調でワーズは言った。低く押し殺した声がルセカーを圧倒した。
「あの時、俺がワスマイルの名を騙る偽物だったら、情けなく腰を抜かしたお前は、あっさり殺されただろう」
憮然としてルセカーは器の酒を呷る。勢い良く流れ込んだ液体が喉を灼く。途端にルセカーは咳き込んだ。味は分からない。たぶん不味いのだろう。酒精も飲み手に容赦がない。
「がぶ飲みはしない方がいいぞ? 安酒なくせに、酒精だけはきついからな」
ワーズは態度をがらりと変えて、楽しそうに忠告した。ルセカーの眼がいっそう不機嫌になったので、彼は本題に進むことにした。
「まず、お前さんを危険な目に遭わせたことについては、伯爵の分も合わせて謝っておく。あの男が水車小屋に居座っちまってなあ。俺が留守の間に、知らずにやってきた連絡役がやられちまった」
連絡役とは、小屋で最初にルセカーが見た男の死体のことだろう。
ではこの男は? ワーズ・ワスマイルという男は何者なのだろう。伯爵との関係は?
ルセカーは疑問を抱かずにはいられなかった。伯爵という身分の人間が関わるには、少々胡散臭い人物に見える、この男は。本物の農夫では、まかり間違ってもないはずだ。伯爵は裏でこんな人間と通じて、いったい何をやっているのだ。
「……あんた、何者だ?」
ルセカーは従者の分を忘れて訊いていた。もともと、従者の身をわきまえていた訳でもない。
「ふふん、気になるか?」
ルセカーが頷くのを見てしたり顔でにやける。
「ひみつだ、少年。従者は従者らしく伯爵の手紙を渡してくれればいいんだ」
ルセカーはしかめ面して懐から伯爵の封書を引っ張りだした。ワーズが手を伸ばすと、封書をぴっと引っ込める。
「教えないと渡さない」
今度はワーズが眉間にしわを寄せる番だ。
「おまえな、伯爵に怒られるぞ」
「恐くない」
「クビになって追い出されるぞ」
「……この際、別にいい。旅は慣れてる」
「じゃあ奥の手だ。ここの飲み代は払ってやらん」
ぐっとルセカーは言葉に詰まった。なんで分かったんだろうか、今のルセカーは文無しだ。給金はここにきて未だ貰っていない。安酒の飲み代だって払えるものか。
「まあ、伯爵に怒られるどころか、ここで首根っ子押さえられてタダ働きだな」
カマは掛けてみるものだと、ワーズは勝ち誇った。その笑みが悔しくてルセカーは自棄になった。
「かまうもんか。旅の途中で代金代わりに働いてたこともある」
「まあムキになるな。おいおい教えてやらん事もない」
なんだか分が悪くてルセカーは勝負を投げた。
ワーズに手紙を渡して杯を乾すと席を立つ。
「待て待て。返事が要るかもしれんだろうが」
ワーズは開封して紙面に目を通しながら、ルセカーの肩を押さえて座らせた。仕方なく、浮かせた腰をもう一度落ち着ける。
しばらく黙って紙面の文字を追っていたワーズが口を開いた。
「お前、ルセカーという名前なのか」
「なんで……」
「ここに書いてある」
「見せろ」 ルセカーが横合いに飛び付いて手紙をひったくった。
「見たってお前……」
「馬鹿にするな、字くらい読める。ちょっとだけど……」
王都にくるまでは読めなかった文字だが、シースが仕事の一環として読み書きの手解きを始めてからは、とっかかりが出来たくらいには文字を覚えていた。だから名前くらいは読めるが、文章の読解はちょっとした暗号の解読作業に近かった。かつては未知の記号だったのだから、大した進歩ではあるが。
「………る……セカー、ほんとだ、書いてある」
「ほれ、もういいだろが」
再びワーズが手紙をひったくる。胸の内で彼は安堵の吐息をついた。おいそれと見せてよい中身ではない。
「ちょっとお前の剣を見せてみろ」
「今度は何だよ。剣の事も書いてあるのか」
「いいから見せろ」
ルセカーは訳が分からず渋々差し出す。その剣が目に入った途端、ワーズは顔色を変えた。手にとって確かめ、ますます深刻な顔になる。
「おまえ、この剣をどこで手に入れた」
感情を押し殺した声だったが、その眼がルセカーは気にくわなかった。この剣が盗品だと疑っているのだ。あの宮廷騎士ガブレイが疑ったように。
ワーズ自身は義を持つ人間だった。だが、どうしてもその疑念は隠しきれなかった。彼の眼はルセカーという少年を、盗みを働くような人間でないと判断している。しかし、剣の本来の持ち主をワーズは知っていた。だからだ、ワーズの沸き上る疑念は。
『彼』が死ぬはずが無い。ならばこの剣は盗品なのか? しかし『彼』は盗まれるような失敗はしない。では、やはり『彼』は死んだのか? お前はなぜあいつと同じ名前を持っている? ユグラントの騎士ルセカーと同じ名を。
「オレは盗んでなんかいない」
「そんなこたあ分かってる」
「分かってないじゃないか。あんた、疑ってる」
指摘されてワーズは認めた。そんなつもりはなかった。確たる証拠もなしに疑ってしまっていたことにワーズは気づいた。この目の前の少年は、自分が抱いている疑惑を嫌悪し、そして疑われることに哀しみを抱いているのだ。
ワーズは自分の眼にも自信があったが、少年にも等しく、或いはそれ以上に人を見抜く力が備わっているのを悟り、ワーズは口を一度噤んでうつむくと謝罪の言葉を振り絞った。
「……そうだ、疑っている。すまん」
その声はひどく辛そうで、ルセカーはそれ以上強く言えなかった。
「俺はその剣の持ち主を知っている。そしてそいつは剣をみすみす盗まれるような奴じゃない。まして、死ぬような奴じゃない。なのに何故、お前はあいつの剣を持っている? 教えてくれルセカー! 俺の友と同じ名を持つ少年……あいつは、どうした?」
ワーズは真剣だった。茶化すような口振りも、おどけた表情もない。目の前の男は、かつて少年が出逢ったルセカーという青年のことを本気で案じているのだ。
「それは……」
それは、一年前の雨の日だった……。




