幕間:氷の公爵の電撃結婚
契約書にサインしてから三日後、ケルディア王国の社交界は、一つのニュースに震撼していた。
それは、マルティン伯爵家の令嬢、イザベラが主催する午後のサロンから始まった。
「皆さま、お聞きになりました?」
イザベラは、扇を優雅にひらめかせながら、集まった令嬢たちに向かって声をひそめた。しかし、その瞳には隠しきれない興奮の色が宿っている。
「ロックウェル公爵閣下が、ご結婚なさったそうですのよ」
「まあ!」
「本当ですの?」
令嬢たちから、一斉に驚きの声が上がった。
「ええ、確かな筋からの情報ですわ。それも、電撃的にですのよ」
「お相手は、どちらの……?」
フォンテーヌ男爵家のセシリアが、身を乗り出して尋ねた。
「それが……」
イザベラは、わざとらしく間を置いてから、爆弾を投下した。
「グレイ子爵家の令嬢ですって」
サロンが、一瞬、静まり返った。
「グレイ子爵家……って、あの?」
「没落寸前の……?」
「まさか、あのリリアーナ・グレイのことではありませんわよね?」
ペリグリン子爵家のアデライドが、信じられないといった表情で呟いた。
「残念ながら、その『まさか』ですのよ」
イザベラの声には、明らかな嫉妬と怒りが込められていた。
「あの、借金まみれで有名な没落令嬢が、どうして公爵閣下と……!」
サロンは、再び騒然となった。
ロックウェル公爵家といえば、王国屈指の名門。その当主の結婚となれば、本来なら王室との政略結婚か、せめて侯爵家以上の令嬢との縁組が当然とされていた。
実際、これまでにも数多くの縁談が持ち込まれていたのだ。イザベラ自身も、密かにその座を狙っていた一人だった。
「きっと何かの間違いですわ」
セシリアが、必死に否定しようとした。
「そうよ。あんな貧乏令嬢が、公爵閣下と釣り合うはずがありませんもの」
「でも、正式に王家に報告されたそうですのよ」
イザベラは、冷酷な事実を突きつけた。
「しかも、結婚式も既に執り行われたとか」
その言葉に、令嬢たちの顔が一斉に青ざめた。
一方、王宮では、第二王子エリアス・フォン・ケルディアが、この知らせを聞いて大爆笑していた。
「何ですって? アシュトンが結婚?」
「はい、殿下。昨日、正式に王家に報告がございまして……」
報告に来た侍従の言葉を聞いて、エリアスは椅子から転げ落ちそうになった。
「ははははは! これは傑作だ! あの石像のような男が、ついに恋に落ちたのか!」
エリアスは、涙を流しながら笑い続けた。
「それも相手は……グレイ子爵家の令嬢だと? あの可憐な……」
ふと、先日のティーパーティーでの光景が蘇る。庭園で一人たたずんでいたリリアーナの姿。そして、その後に姿を消したアシュトン。
「なるほど、あの時から既に……!」
エリアスは、手を打って喜んだ。
「いやあ、アシュトンめ、なかなかやるじゃないか。まさか、あんな情熱的な一面があるとは」
彼は、すぐにでもアシュトンの元に駆けつけて、詳しい話を聞きたい衝動に駆られた。
その頃、ロックウェル公爵邸では、アシュトンが侍従長のセバスチャンと、結婚の手続きについて話し合っていた。
「手続きは、すべて終わらせてある」
アシュトンは、事務的に告げた。
「王家への報告、婚姻届の提出、それに必要最低限の式典も」
「しかし、旦那様」
セバスチャンは、困惑を隠しきれない表情で続けた。
「式典と申しましても、あのような簡素なもので本当によろしかったのでしょうか……」
結婚式は、確かに行われた。だが、それは「式典」と呼ぶにはあまりにも質素なものだった。王宮の小さな礼拝堂で、立会人はセバスチャンと数名の使用人のみ。招待客は一人もいない。
「旦那様ほどのお方の結婚式となれば、普通なら王族や有力貴族を招いた盛大な祝宴が……」
「これで十分だ」
アシュトンは、そっけなく答えた。
「大仰な式など、必要ない。形式的なものは、最低限で構わん」
セバスチャンは、まだ納得がいかないようだった。
「ですが、世間体というものが……。既に、様々な憶測が飛び交っているようで」
「構わん」
アシュトンの答えは、相変わらず素っ気なかった。
だが、その「簡素すぎる結婚式」こそが、社交界に新たな憶測の嵐を巻き起こしていた。
「急な結婚ということは、もしかして……」
「いえいえ、そんなはしたない話ではなくて、きっと燃えるような真実の愛が……」
「でも、あまりにも身分が不釣り合いですわ」
「政略結婚にしては、相手の家に何の利益もないし……」
噂は噂を呼び、王都中の社交サロンで、この話題が議論され続けた。
そして、最初の公式な場での顔合わせが、王宮での謁見の場だった。
新婚夫婦として王に拝謁する、正式な儀式。
だが、リリアーナがそばにいるため、アシュトンの【幸運の呪い】は無効化されている。
結果として、アシュトンの振る舞いは、微妙にぎこちないものとなった。
王への挨拶の際、わずかに言葉に詰まり、リリアーナを紹介する時も、普段の流暢さを欠いていた。そして何より、新妻への態度が、恋愛結婚にしては妙によそよそしく見えた。
「……なんとも、変わった夫婦ですな」
列席していた財務大臣が、隣の文部大臣に小声で呟いた。
「ええ。もう少し、新婚らしい甘い雰囲気があっても良いように思いますが」
「公爵閣下も、以前とはお変わりになられたような……」
その評判は、瞬く間に社交界に広まった。
「なんだか、とても冷たい夫婦関係ですって」
「ロマンスを期待していたのに、がっかりですわ」
「やはり、何らかの政略的な意味があるのでしょうか」
リリアーナは、そうした噂を耳にするたびに、胸が痛んだ。
(やはり、わたくしでは役不足だったのね……)
彼女は、自分の演技が不十分だったのだと自分を責めた。もっと完璧な公爵夫人を演じなければならないのに、その期待に応えられていない。
だが、当のアシュトンは、まったく違う反応を示していた。
「変わっている、だと?」
セバスチャンからの報告を聞いたアシュトンは、むしろ嬉しそうに笑った。
「そうか、そうか。初めて『変わっている』と言われたな」
これまでなら、【幸運の呪い】によって、どんな失敗も「さすが公爵閣下」「なんて素晴らしい」と好意的に解釈されていた。それが今回は、正直に「変わっている」と評価された。
アシュトンにとって、それは大きな進歩だった。
「ようやく、普通の人間らしい評価を受けることができた」
セバスチャンは、主君の反応に困惑していた。普通なら、評判を気にするものだろう。それなのに、なぜこんなにも満足そうなのか。
その夜、イザベラ・マルティンは、自室で鏡台を前に座り、歯ぎしりしていた。
「悔しい……悔しいわ!」
彼女は、これまで密かにアシュトンへの憧れを抱いていた。いつか、自分がロックウェル公爵夫人の座に就くのだと、夢見ていたのだ。
「あんな貧乏令嬢に、どうして……!」
鏡に映る自分の顔は、嫉妬で醜く歪んでいた。
セシリアもアデライドも、同様の衝撃を受けていた。あの時、見下していた令嬢が、今や自分たちよりもはるかに高い地位に就いている。その現実を受け入れることができなかった。
こうして、ロックウェル公爵の電撃結婚は、様々な波紋を呼びながら、社交界の新たな話題として定着していった。
しかし、この時点では、誰も知らなかった。
この奇妙な夫婦の間に、やがて本物の愛情が芽生えることになるとは。
そして、その愛情こそが、二人の運命を大きく変えることになるとは。
物語は、まだ始まったばかりだった。