チャプター6 インプリンティング≪刻印≫(1/2)
夕陽が傾き始め、夕焼け色に変わる≪学園≫各棟。陰は藍から黒へ。旧時代の教育施設では、今の時分を『ホウカゴ』と呼んだはずだ。
医務室から水鈴が顔を出す。医務担当のソフムと口論をした直後の姿。
歩きながら、下を向いて医務室のベッドの上で乱れた制服を正す。
首元に、漂白された白いシルクスカーフを巻き直す。
水鈴は憔悴したようすとともに、殺気立った異様さを振りまいている。
それがソフムの冷酷さや自身の運命に対する怒りからのものであったのなら、水鈴を見かけた誰もが、このまま怒りを持ち帰るのだろうと考えるほどの、異様さだった。
威勢に反し、貧血からだろう目を回し、おぼつかない足元で窓際に沿って歩く水鈴。
しばらく進んだところで柱の一本へともたれかかり、そのままビニル床の上へと崩れ落ちる。
「あれ、まだ眠たいのかな……」
水鈴の意識はもうろうとしており、目の焦点が合わない。
もはや、身体が思い通りに動かせないこと以前に、水鈴は自身の健康状態が危篤へと猛進していることにすら気づかなかった。
やがて、ワックスが反射する廊下の先に、不思議な光の点があらわれる。
味気ない灰色の景色の中で、ひときわ目立つ真っ白い特異点のようなものに、水鈴は釘付けとなる。
――もう見込みがついた。どうせソフムだ。
うっとうしさに眉をひそめる水鈴。
廊下の先の点は水鈴のほうへ接近してくる。
5分と経たない間に、点が小さな子どもの姿となり、モップのように……やはりソフムの1体だった。
「おや、こんなところに落としもの」
眼鏡をかけたあどけない顔に、ソフムは悠然とした笑みを浮かべる。
「何とも人相、いえ顔色が悪そうですねぇ。医務室まで肩を貸しましょうか?」
ソフムが指で自身の貧相な肩をさしている。卒然、白衣の片方がずり落ちる。
「さっきその医務室から出てきたとこです……」
「なはっ、もう処置済みでそれでしたか。これは失礼」
睨みつける水鈴の態度から何かを察し、ソフムは白衣を正すと水鈴の手を強引に引き寄せた。
「な、何するんですかっ」
「その状態で帰宅することは難しいでしょう? かといってホウカゴの廊下にいては、他のソフムに『政府』報告されます。君にとっては望ましくない。こっちに来て!」
緊張感を与えない、あくまでも先導する余裕を思わせる抑揚でソフムが言う。
水鈴が油断した表情になる。そのままソフムに身体を起こされ、肩を貸されながら医務室と反対方向を目指した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
≪学園≫はムダに広い。
ソフムと水鈴のどこか青春めいた逃避行は、目的地まで徒歩30分以上を要するため、その実巡回バスに乗って移動することになった。
夕焼け運行の車内はビビッドな二色に分かたれ、水鈴は濃い陰の中でみじかい眠りにつく。
水鈴はソフムに揺り起こされる。
運転手のソフムに一瞥し、バスを降りると目の前には一軒のプレハブがあった。
それは倉庫と呼ぶには小さく、物置と呼ぶにはやや大きい建物だ。
水鈴の脳裏によくない予感が走り、面持ちが暗くなる。
「せ、先生?」
「ご心配なさらずに。ここは情報科の講義室兼実習室、兼職員室兼給湯……まあ、私の私室です」
ソフムが建物に水鈴を上がらせる。
玄関から見える範囲では、簡易的なコンピュータ設備のある居間に、質素なキッチン、トイレという内装。
「普段は私が、ここで≪学園≫のイントラネットや、≪農労マニュアル≫サーバの保守関係を担当しています。っと言っても、ソフムの交換は愛玩用に比べてゆるやかなので、そうそういそがしくなることはありません。……一部のじぇねを除いてはね」
「他の学生はいないんですか?」
玄関の上がり框にて、いまだに靴を脱げず悪戦苦闘する水鈴が背中で訊ねる。
「ええ。だって、情報科なんて学科はありませんからね」
即座に回答したソフム。水鈴は意味を理解できず、黙りこんでしまう。
「私も、そしてじぇねこや他のソフムたちも、大半は異なる都市から≪農労マニュアル≫を転用してきたものです。だから、中にはまだ≪学園≫の教育体制が不充分にもかかわらず、稼働しているソフムがいる」
「じゃあ、先生も?」
水鈴が首から上だけで振り返ると、待っていたようにソフムは首肯する。
再び口をつぐむ水鈴。
ようやく靴を脱ぎ終え、ソフムの前に立つと、自身より二回りも小柄な白衣の子どもをじろりと睨み見下ろした。
「……≪農労マニュアル≫って、ソフムや工場で働く≪スキン≫に使われる≪人命データ≫ですよね?」
「≪人命データ≫とは違います。単にデータ、です」
「それは≪統制器≫による更新も、新しい≪スキン≫に入れることもできない、一回きりの……」
「そうですね……」
「なんでっ、そんな落ち着いてるんですか! 先生は死んじゃったら終わりなのに!」
水鈴が声を荒らげる。プレハブじゅうに反響し、空気が震える。
言葉が水鈴たちをおおった。
もうやめてぇ! と言うように、突如として水鈴の腹の音が鳴る。
「――なはっ、かわいらしい! 腹が減っては何とやら。少し、待っていてくださいな」
ソフムはきな臭い玄関から逃げ、台所へ。
ダボダボの白衣を紐で二の腕まで縛り上げると、そのまま炊事らしきものをし始める。
一方、神経質になっている水鈴は、釈然としない顔で居間の床に腰を下ろす。
居間には業務用のコンピュータ設備の他に、むき出しのハンガーラックと、パレットの上に敷かれたマットレスの寝床のみがある。
寝床のそばには数冊の、大きさが不揃いな本が積み上げて置かれている。
水鈴は興味を示すが、手を伸ばすことはしない。
じゅわじゅわ、しゃあしゃあ、ぱちぱちと段階的な環境音を聞きながら、水鈴は少し意識を飛ばしていた。
ソフムの風に起こされる。
水鈴が目を見開いたところには、少し茶色の利いたコロッケと思しき料理の皿が供えられていた。
「召し上がれ、透見川 水鈴くん?」
「水鈴でいいです。また、コロッケ……」
「最近、ソフムたちの間でブームになっていまして。これは昨日の私のお手製ですよ」
「水鈴、食べたくないです。吐いちゃうから……」
「おっと。揚げ直したものはお気に召さなかったですか?」
ソフムは、水鈴が料理を拒む意味を推して知ることができなかった。
水鈴は事情を話すべきか逡巡する。やはり、今は、身近な親切を無下にすることのほうが心苦しいと判断した。
ソフムへと医務室での一件、叱責を受けたことまで手短に説明する。
「……っ、なはっ、そういうことですか。これは医務室のソフムが手を焼くのも理解できます」
水鈴の話に耳を傾けていたソフムだが、笑いを抑え切れず言葉の端々に溢れさせる。
「そうですね。懸命に生きているところに、早く死ねよと言われれば誰であろうと頭にきます。それが、君の意志を捻じ曲げる要因であるというのなら、私は理解できる。……しかし、今のやり方では、君の本懐は果たせないように思います」
「また知ったようなこと……」
「そうですね。おっしゃる通り、私は水鈴くんのことを何も知らない。君が考える望みも、君の行動から憶測することが精いっぱいです。そんな私でも、わかることが一つ。水鈴くんは、われわれ≪ソフム≫の死について思いを馳せることができる。そうであれば、自分自身の命については、もっともっと考えてあげられると! 今の|≪スキン≫を、強引な方法の代償にしなくて済むように……」
「もう、やめてください……」
ソフムの問いかけに、水鈴は付き合うことを拒絶した。
ソフムは悪戯っぽい笑顔になる。「冷めてしまいますね」と言い、皿からコロッケを一つ鷲掴みにし、口へと運ぶ。
水鈴がふと断面を見ると、コロッケの中身はジャガイモと賽の目切りになったニンジン、インゲンで、具材に肉の一片すらも入っていなかった。
「私も、同類を食べることはニガテで。≪スキン≫失格ですよね。……これは、裏の畑で育てているものです。野菜はお好きですか?」
改めて、ソフムが水鈴にコロッケを差し出す。
水鈴は口をへの字に閉じ、食べたがらない。
「なはっ、一つ、水鈴くんのことがわかりました。フレッシュミートが大好きで、野菜はニガテ。ちなみに私はどちらもニガテです。好きなものは、本を読むことで……」
「水鈴、本は読みません。字ぃよむのニガテなので」
ふてぶてしい態度で断りを入れる水鈴。
手の届く場所にあった、ソフムの私物と思われる積み上がった書籍の塔をしずかに崩す。
書籍のタイトルが、つぎつぎ水鈴の目に入る。
『明日からできる! テレパス話法』
『スパイス農家大全』
『消化器から見る進化学』
『プレゼン力が上がるたった13の方法・2038年決定版』
『賀宝 夏子フォトエッセイ うしろあるき』
それらの、字面を読み上げるだけで誰でもそこに一貫性はないと確かめることができる。
「本の中身は虚と実の世界。そこに私と本しかなく、何を信じて何を疑うか、私の意志こそが正しい解釈となる。時には善良すぎて受け入れられないこともある。また時には、社会正義に反してでもつらぬき通さねばならない信念の礎となって、私を奮い立たせる。……読書はいいものですよ」
「なんで、先生はそんなに本を読むのが好きなんですか?」
「おっと。今のが理由のつもりでしたけれど……しかし、そうですね。こればかりは弁のみで理解できることでもないでしょう。ほんの、君が帰る頃合いまでの間です、いっしょに本を読みましょう!」
結論として、今すぐに水鈴と読書をしたいソフムの押し売りにより、水鈴は動機も興味もない書籍へと向かうことになった。




