木曜日~金曜日
一度上げて、気まぐれに消したものですがなんとなくもう一度上げました。
後味の良いバッドエンド、なんてものを目指していたらしいです。
Now
生きてることに、意味があると思えなかった。
呼吸し、食べ物を喰らい、眠る。生きるという名目の上無意識に行う動作を、自分の意思で止めることは難しい。必死で絶えようとしても、いつか限界がやってくる。その限界、つまり死をようやく間近に捕らえるようになって来た頃、唐突な恐怖感が身を苛むのだ。
死にたくない、まだ生きていたい。自ら、死地にまで赴いたというのに。目の前に現れた死には恐れを抱き、必死になって肺を膨らませ、噛み砕き嚥下し、泥のように眠る。酸欠で狭まった視界が広がり、光が眩しくて涙が出たこともある。舌に感じる味と、喉元を過ぎて胃に到達する実感がたまらなく嬉しかった。毛布の中で目を閉じて、次第に暖かくなる感覚が優しくて安心した。
全部、生きているから味わえる幸せ。けれど、生きているから味わえる痛みも、確かにあって。
その二つを両端に置いた天秤は、いつまで経っても動きを止めてくれない。ずっと、ふらふら、ふらふらと揺れ動く。どちらが重いか、多いのか。辛いことがあって、嬉しいこともあって。どこまでも、まるでシーソーのように。何度も何度もその傾きを変えていく。
正しい比重を教えてくれない天秤に、意味があると思えなくて。
誰か、誰か、誰か、教えて下さい。
――は、生き続けるべきなのですか?
・一話 木曜日
「痛いって思いながら死ぬのと、悲しいって思いながら死ぬのって、どっちが苦しいのかな?」
そんな意味も価値もない質問をした彼女が、殺された。
首を胸を腕を手を腹を腰を腿を膝を脛を足を指を細切れに分けられて、新井山結那は物言わぬ静かな塊と変化を遂げた。実に見事な変態である。本来の意味の方の。
異体、じゃなくて遺体は町の公園の植木の中に捨てられていた。
ご丁寧にゴミ袋に詰め、中には悪趣味な冗談か、せめてもの情けか、それとも狂人なりの本気なのか、防腐剤と防臭剤がいくつも一緒に詰められていた。防虫剤も入っている辺りはさすがに何かの冗談だと思いたい。捨てられている場所が物静かな虫のパラダイスだったからその配慮はきっと功をそうしてくれていただろう。出来立てホヤホヤで発見されたから大して効果はなかっただろうけど。
遺体発見から葬儀までの流れは驚くほど早く済んだ。凶悪犯罪の重要な証拠として彼女の各部位は解剖に回されたが、そもそも既に解剖後と言える形だったわけだし、大した時間もかからず終わった。詳しい解剖の過程とか知らないけど。たぶんそうなんじゃないかな。
誰にも見せられないぐらい恥ずかしいお子さんになってしまった、凄惨な肉の固まりと成れ果てた彼女は、ゴミ袋とは違う清潔で綺麗な袋に入れられ、葬儀とは名ばかりの簡素な儀式の末、この世から姿を消した。遺骨を骨壺に詰める際も、細かく分けられていたのですぐ済んだ。生前は健康体だったことを証明した骨は焼かれた後もしっかり形を残し、箸で掴みやすかった。家庭の事情により箸の扱いに慣れてない僕でも難なくこなせた辺り、またまた犯人さんの配慮を伺える。
……さっきから冗談を言い過ぎだね。いい加減自粛しろよ、僕。
葬儀の全てを終える頃には日が落ち、辺りは真っ暗になっていた。光害や排気ガスとはほとんど無縁の田舎だから、夜空には星々が光り輝いているのがよく見える。彼女も、あの星のどれか一つになったのだろうかと、無意味に感傷に浸りながら星々を観賞する。
なんとも味気なく、呆気なく、新井山結那という一人のどこにでも在り得る少女はこの世から形を失った。
「私が犯人なんです」
葬儀も終わり、式場を出る際に渡された清めの塩を体に和えてみようか迷っていると、急に僕の前に現れた女の子がそう言った。
「私が新井山結那さんを殺しました」
自分の行いを悔いるように、胸に当てられた手が強く彼女の服を握り締める。
「ごめんなさい。謝って許されるようなことじゃないけど、本当に、ごめんなさい」
「……はぁ、うん、そう」
目を瞑り、深呼吸をする。そしてこれから口にしていく言葉を再度頭の中に思い描く。正しいように、間違わないように。
これから始まる茶番が、正しく幕を下ろせるように。
「えっと、とりあえず。ダウト」
「は?」
沈鬱な表情が消えて、口があんぐりと呆気にとられた表情へと変わる。
「何が目的だかさっぱりわからないけど、君じゃない。君なんかじゃできないよ」
「……何を根拠に断言してるんですか。私とあなたは初対面でしょう」
「まぁ、確かに」
僕と君は、ね。間違いなく初対面だ。君みたいな勘違いのプロ、一度見たら忘れられないよ。
「けどわかるんだよ。君は違う。ありえない。じゃあ仮に、君が犯人だとしよう。それで動機は? 何を理由に結那をバラバラにしたんだ?」
「羨ましかったんです。美人で、かっこよくて。それが嫉ましくて殺しました」
「はいまたダウト」
言い切る。言い切れてしまう。嘘にも程があるというか、あまりにも嘘過ぎて嘘にさえなっていない。
自分に利点もない、そして誰も救われない嘘なんて吐くべきじゃない。ただの言葉の浪費だ。と、偉そうに思ってはみるけど、現在進行形で嘘を吐いてるのは僕も同じなんだよね。
「もう一度言うけど、君は犯人じゃない。わかった? 何が目的だか知らないけど、質の悪い冗談はやめてよね」
「冗談じゃありません、本当なんですっ。私が殺したんですよ! どうしてそんな飄々としてるの、頭おかしいんじゃないですか!?」
おっと? 人殺し(自称)に頭おかしいって言われちゃったよ。心外過ぎる。
あながち間違ってないから何も言わないけど。
「うーん、一応これでも傷心の身なんだけどなぁ」
「冗談を言ってるって思われても仕方ないかもしれません。けど本当なんです。信じてください」
なんだろう、この状況は。全ての事情を把握している人間が見たら滑稽の極みだろう。くだらなくて、馬鹿らしい。
我ながら、面倒なことを引き受けたものだ。過去の僕自身が今この場で「ごめんごめん」とか誤ってきたら思わず殺してしまいそうだ。人が人を殺すのが殺人なら。自分で自分を殺すのもある意味殺人なのかなぁ。どうでもいいか、そんなこと。
「話は終わりかな? じゃあね。他に用件があるなら、また会おう」
発言が事実だろうと虚偽だろうと、狂人の弁以外の何物でもない。関わらないのが最善だ。
少なくとも、人前では。
去りぎわに葬式で配られてた清めの塩を撒くあたり、僕もらしくなってきたな、とは思う。
今更だけどさ。
・金曜日 朝
新井山結那と出会ったのは今から半年前。高校二年生になってすぐのことだった。そしてそれは、僕らの交際期間とも一致する。
僕たちはあまりにも、あまりにも不自然なくらいの意気投合っぷりで、愛を語らう恋仲となった。関係は円満。少なくとも僕たちは、喧嘩もなく、何不自由なく何不自然なく恋人としての日々を謳歌してきた。楽しければ共に笑い、辛ければ共に苦しみ、悲しければ共に涙を浮かべることもあった。手を触れ合わせることにさえ、羞恥心を無意味に見出すような初々しさを兼ね備えてさえいた。
どこにでもいる、普通の人間らしく。普通に恋人として過ごせてきた。
……まぁ、どんな関係でも。終わる時は終わる。あっさりさっくりと。例え自分の所為であろうとなかろうと。終わる時は味気なく呆気なく終わる。泡沫の夢とはよく言ったものだ。パチンと弾けて、跡形もなくなって、終わる。
そんなことはわかっていたし、覚悟もしていた。そもそも僕としてはそんな覚悟をする時点でとんでもない矛盾を孕んでいるわけだけど。
とにかく。どんなに覚悟していようと、人の死ってのは堪える。こんな僕でも、だ。
死。
人生の終わり。終点。失われるということ。亡くなるということは、つまり、無くなるということで。
その喪失感に耐えられる人間は、早々いない。
「いないんだけど、なぁ……」
まるでさっきまで頭の中で考えてた持論を行動で全否定するように、僕は結那が焼かれ骨と灰になった翌日から、特に何事もなく登校を始めていた。
「ま、今更だし、ねぇ」
僕の中での魔法の言葉を口にして、学校が指定した革靴の踵を鳴らし続ける。人気のない田んぼ道。舗装もされていない土がむき出しの道を数十分歩き続けると、ようやく灰色のアスファルトに覆われた道へと変わる。そこまで来ると僕以外にも登校途中の生徒がチラホラ見え始める。
通学路を歩いている間はさほど気にはならなかったが、校門を抜け、下駄箱で外靴から上履きに履き変える時には、僕を取り巻く視線に違和感を覚えるようになった。
見られてる、とは思っていたけど。
結那が殺された事件、つまり殺人事件。それは異例で、異常。生まれてから死ぬまで関わることもなく暮らしていく場合の方が確率が高いぐらいの、非日常。
その非日常を経て尚、平然と今までの生活を送ろうとする僕を、世間は異端だと思う。それが普通。
……ま、異端扱いなんて今更にも程がある。何も問題はない。訝しげな視線を難なく乗り越え、教室へ着く。
僕と、結那が一緒に通った教室。
「おはよう」
いつものように何気ない朝の挨拶を口にする。けれど皆、そのいつもの行動故の異質に気付き、目を見張る。
「お、おはよう」
何人かは引きつりながらも笑顔で挨拶を返してきたけど、大半は顔をしかめ、訝しげに僕を見る。
「うん、おはよう」
今更。と口にせず心で唱えて僕は自分の席に着いた。一瞬、ここで違和感を感じてしまう。鞄を置き、席に座ると彼女が僕の前に、は現れない。当たり前だ。昨日はいったい何をしてきた。彼女を、燃やしたんだろう。残った骨を一箇所にまとめて、彼女を伝統ある日本の形式に則って葬ったというのに。
「今更」
今度は心で唱えるだけでなく、しっかりと口にした。そうでもしないと、胸の内に沸いた空虚感に溺れそうだった。
僕に向けられていた視線は先生が教室に入ってきたことで外された。教壇の前に立ち、一度周囲を見回してから話を始める。近づいてきた試験のこと。放課後図書委員は委員会議があるため残ること。日直である遠野が今日は病欠だから誰か代わりを頼むとのこと。
先日、この学校の、このクラスの生徒が殺されたこと。
「……ほんと、今更」
前を向くのが嫌で僕は窓から外を見た。皆が僕を見ているのを視界に収めたくないとか、そんな理由じゃなくて。僕の前に空席と、その机の上にある一輪の花を見るのが何となく、気が進まなかった。
*
まぁ、とは言ってもさすがに授業中ずっと外を見てたら怒られるよね。丸めた教科書で叩かれた頭を擦りながら反省する。一時間もすれば慣れるのか、そもそも僕の精神がおかしいのか、前の空席も気にならなくなった僕は平然と授業を受け続けた。真っ白なノートに次々と黒板の文字を書き写していく。
黙々と、ただ黙々と。こういう、無心で行える作業は大好きだ。もちろん内容を考えて覚えるように努力しないと勉強として意味ないんだけど。
考えるのは、ひどく疲れる。思考し、自分自身で判断を繰り返すのは苦手なんだ。物言わぬ貝になりない、とまではさすがに言い切るつもりもないけど。何かを考え、判断し、行動する。その一連の流れを行わなければならないのは、とにかくひどく億劫だった。全自動僕とか誰かが作ってくれないかな。自分で作ろうともせず、他力本願の時点で僕の駄目さ加減が目に見えてわかる。
授業も進み、終わりが近づいてくる。そのせいか段々と弛緩してくる教室の雰囲気に先生は特に気にすることなく淡々とチョークを踊らせ黒板に文字を作る。
二回のノックの後、ガラリと教室の扉が開いた。突然のことに弛緩していた教室の雰囲気は一瞬引き締まる。扉の前には別の先生が立っていた。チョークから手を離し先生が事情を聞きに教室から出ていく。
僕も立ち上がる。クラスメイトからどうした、と聞かれるが「ちょっとね」とごまかして教室を出た。そして先生に近づく。廊下は授業中だから当たり前だけど静かで、先生の話もこの距離ならば容易に耳に入る。
「僕ですよ」
だから先行して、自分から名乗り出た。
「新井山結那の死体を見つけたのは僕です」
*
学校の談話室にて行われた警察の尋問は思いのほか早く終わった。わざわざ学校までお越しいただけなくてもこちらから伺いましたのに、なんて言ってみようかと考えたけど、やめておいた。あからさまに喧嘩を売るのはまだ後の楽しみにとっておこう。
警察からは発見に至るまでの経緯、遺体の状況、僕自身のアリバイ、その他色々なことを聞かれては、次々と冷静に答えを返していった。
あまりにも淡々と答えるし、最初にした証言との差異もないからと、僕はすぐに解放された。それでも今から教室に戻って授業を受ける、という気持ちになるほど時間は余ってなかった。
それならばと、僕は屋上へ足を向けた。屋上へ続く扉を開けると、強い風が吹き抜けた。何も考えずにただ呆けて歩いていた僕はバランスを崩して危うく転びかける。後頭部を使った床への熱烈なベーゼを始点とした、階段への七転八倒もこのふやけた脳みそには調度良い刺激を与えてくれるかもしれないけど、代償が取り返しつかないものなのでやめておこう。目に見えぬ風ごときに負けるほど柔な生き方はしてません。他の目に見えないものには、いくつも負け越してるけどさ。
気を取り直して屋上に出る。太陽が分厚い雲に覆われたかと思えば、その隙間から熱い光線を容赦なく浴びせてくる。こういう天気も『曇り』の内にはいるのだろうか。後で調べてみよう。
……なんてどうでもいい、意味のないことばかり考えた。
「やっぱり、ね」
自分でもわかっていたことだけど、こうして形として突きつけられると正直、落ち着かなくなる。
「疑われても仕方ない、よなぁ」
僕は、新井山結那を殺した犯人として疑われてる。
そもそも、発見した状況からして胡散臭いのだから仕方ない。
結那とは夕方頃には別れた。結那の兄である結磨さんの誕生日だったからだ。家族ぐるみで仲の良い家庭では、その日ささやかながらも立派な誕生日パーティーが開かれる予定になっていた。そのために、僕たちはデートを早めに切り上げ、見ていた映画の感想を言い合う暇もなく別れた。
それから数時間後、結那の母親から、いつのまにか家を出ていた娘を探して欲しいと頼まれ、そうして彼女がバラバラになって公園の植木の中に捨てられているのを発見した。なんだこの過程は。必要な工程をざっくり削り取ってるみたいだ。疑われるのも無理はない。怪しすぎる。現状証拠だけで候補者に挙がるのも無理はない。
それに、殺害の動機なんて後付し放題だ。痴情のもつれ。偏愛した感情。いくらでもこの世界には愛する恋人を殺してしまう理由に溢れかえっている。今挙げた理由は何一つ、僕には当てはまらないけど、そんなものありえないと理解しているのは僕だけなのだから否定したって無意味だ。
今のこの状況は、僕としては望むべきものなんだけど。過程が僕の望んでいたものとは違うから、素直に喜べない。
呆けた顔を青空にさらしながら、僕は淡々と時間が流れているのを感じていた。魚みたいな形をした白い雲が、青い空の中を泳ぐ。あれだけ大きいと魚というより、鯨といった方が無難かもしれない。空という海を悠々と泳ぐ鯨。あれも捕まえたら捕鯨になるのかな。そんな害にも益にもならない、くだらないことを考え続けた。
座ったアスファルトからチャイムの音が響いてきた。授業の終了を知らせるためのチャイムだから、屋上の給水塔の近くにあるスピーカーからは音は発せられない。それでも校舎内を反響して屋上にいてもしっかりと聞こえてくる。その音を皮切りに校舎がにぎやかになっていくのがわかる。僕は立ち上がり、屋上の縁まで歩く。肩の高さまであるフェンスに手を置いて、大きく広がる校庭を見下ろした。
この学校の校庭は広い。田舎だから土地がけっこう余っているせいだ。町には名産もなく、もろ手を振って売れる農産物もない。過疎化は進む一方で、通学路の辺りにも空き地や、誰も住まずに寂れていく平屋の数も増えた。最近では広く開けた安い土地があるということで、農場などの畜産関係の建物が増えてきている。人口は増えずに、牛や豚の数だけは増えていく。まぁ別に、この町に愛着があるから寂れていく町並みを見るのが悲しい、なんてセンチメンタルに浸るつもりもない。
もっと単純に、人気がこれ以上少なくなることに一抹の不安を覚えるだけ。人の目があるということが、どれだけの防犯になるか。他者の視点が、僕らのような人間に対してどれだけの抑止力となるか。
人気がないと聞いて、心躍るのは変人の証。一概には言えないかもしれないけど。
僕はフェンスから手を離し、校舎の中に入った。
休み時間だから廊下にも生徒の数が多い。明るく談笑する男女のグループが僕の横を歩いていく。誰も彼も笑ってる。楽しそうに。いや、実際楽しいのだろう。気の合う仲間と笑いあい、ふざけあう。嫌なことも辛いことも人並みにあるけど、充実した日々を過ごしていく。実に結構だ。幸せな人を見るのは好きだから。泣いてる姿や怒ってる姿を見るよりも、笑顔を見るほうが良いに決まってる。よほど心が歪んでなければ。
でも今は、見るのも聞くのも嫌だった。
今この瞬間、世界が終末を迎えるのもそれはそれで有りだと思った。
どうせ、本当にそんな展開になったら泣き叫んで命乞いするくせに。
あー、意味がない。
*
早退の届けはあっさりと受理された。今の僕は、傍から見たら愛する彼女を無残に殺された悲劇の主人公なのだろう。帰り際に担任から必要以上に心配された。心遣いは嬉しいけど、とてもうっとうしかった。もちろん顔には出さず、徹頭徹尾作り笑いを浮かべてたけど。荷物を取りに教室に寄った時も、友達から気遣われた。そして再度作り笑いを丁寧に創作する。今日だけで作り笑いがどんどんうまくなっていく気がする。悪いことじゃないからいいけど。
平日、しかも午前中の学校外というのは、学生にとっては異空間と呼んでも差し支えないし、語弊もない。普段は教室にこもって座額に勤しんでいる時間なんだから。
人気のない町を踵を鳴らしながら歩く。誰一人町を歩いてない、なんてことは流石にないけど、町の過疎化も手伝ってとにかく静かだ。畑作業に精を出すお婆さんのカモフラージュっぷりも素晴らしい。居るのが当たり前すぎて、逆に視界に入らないんだよな。ある時気づかずに真横を歩いていて「あんれぇーどうしたねぇー」なんて大声で尋ねられたのには心底驚いた。どうして田舎のお婆さん方はあんなにも声が大きいのだろうか。これも偏見、かもしれないけど。結構な割合で多いよね、声が大きい人。まぁ、どうでもいいか。
日の位置は真上に近く、燦々とした太陽光線が僕をじりじりと焼く。弱火でじっくり炙られながら、僕はロクに塗装もされていない田んぼ道をのうのうと歩いた。時折吹く風が心地良い。涼しくて流れるような風は木々を揺らし、木の葉の擦れる音と、僕の靴が地面を叩き小石を蹴飛ばす音や地面の砂を削る音が耳に入る。僕はその音を聞きながら、家路を歩いた。
僕の家は学校からは遠く、また近い位置にある。本当なら歩いて15分もかからない。畑や農場のせいで家々の幅が広い田舎は、どうしても目的地までの移動時間が多くなってしまう。学校から自宅までの直線距離を測ると近いけど。実際に歩いて行くとなると遠回りの繰り返しで、時間がかかってしまうのだ。周囲の視線とかそういった配慮をしないで畑や草を食む牛たちの横を通り抜けたりもしたけど、それを毎日続けられるほど厚顔じゃない。週に五回程度だ。ツッコミは受け付けない。
ショートカットをいくつか挟みつつ、自宅へと至る。築30年のボロアパートの階段は、足を踏み出すたびにギシギシと音を立てて軋む。そのうち踏み抜けるだろうという未来予想が頭を過ぎるが、大家さんが修理に踏み出さない限り、その未来回避は不可能だ。もちろん、自主的に直そうという意志はこれっぽっちもない。人生をもうこれでもかっというほど踏み外してるわけだし、今更だよねぇ。
鍵をポケットから取り出て差し込み、回す。が、感触が違う。
「……はぁ」
一瞬で理解し、ため息を吐いてしまう。
鍵を開けるアクションをこなすことなく、僕はドアを開けた。
「おじさん、社会人であるあなたが平日の真昼間から甥の家に転がり込んでぐうたらしてていいの?」
「学生であるおまえが平日の真昼間から帰宅してるのも、おかしな話だけどな」
おじさんは居間で横になっていた。卓の上にはコップに入った麦茶とお茶菓子が並んでいる。冷蔵庫までしっかり開けられてるってことですねやめてくれ。
「何度も言うけど、ここ僕の家だよね。無断でどっかり居座るのはどうなの?」
「身元保証人なんだから、いいんじゃないか?」
「身元保証人にそこまで効力はないから。あとそのお茶菓子、お隣さんからのおすそ分けで、好物だから大切に残してたんだけど」
「ああ、うまかった」
「わー。話聞いてたとは思えないほど、清々しく会話になってなーい」
靴を脱いで家に上がる。
……この、玄関に乱雑に脱ぎ捨てられてるのはおじさんの靴だよね。外に向けて盛大に蹴り上げてやろうか。
「で、どうして帰ってきたんだ? 学校は?」
大きなおじさんの体がぬるりと起き上がる。大柄な肉体だ、無駄に。中身は僕より小さいけど。精神年齢的な意味で。
僕はキッチンへと足を向け、戸棚から古臭いヤカンを取り出す。そのヤカンの蓋を開き中に水を入れ火にかける。一応、お客さんなんだし、お茶ぐらいは出すべきだろう。本当はお茶漬けを精度の増した作り笑顔を浮かべたまま顔面に叩き付けたいぐらいなんだけど。
「早退してきた。もう、ほんと気分悪くて」
「笑顔で言うなよ」
失敗した。顔に出す感情が真逆だった。笑顔が作り安すぎて、他の表情が中々出来ない。
「ちゃんと許可はもらってきたよ。今の僕は、学校では悲劇のヒーローだからね」
「だから笑顔で言うなっての」
着替えるのも面倒なので、僕は制服のまま居間に自分の座布団を敷いて腰を落とす。皺になったらなったで、まぁ、いいや。今更周囲の見た目を気にしても手遅れだ。皺だらけの人生なんだし、名は体を表すって言葉の正当性を見せびらかすのも悪くはない。意味はないけど。
「それで、おじさんだって用があって来たんじゃないの?」
「おお、そうだったそうだった」
パンっとおじさんが手を叩き鳴らした。
「おまえ、何か隠してないか?」
ヤカンから甲高い音がして、お湯が沸いたことを知らせてくる。ひどくやかましいので、僕は慌てて立ち上がり火を消しに行く。そしてヤカンの中に入っている煮えたぎった熱湯を茶葉の入った急須に入れてお茶の出来上がり。茶葉たちも今まで乾燥していたのに、急に有無を言わさず潤いを与えられて驚いてるだろうか。喜んでくれるといいなぁ。意味ない思考パート……いくつ目だっけ。それもどうでもいいや。
……だいぶ思考が落ち着いてきた、かな。
もう少し手間隙をかければそれなりにおいしくなるのだろうけど、そんな暇もないし、何よりやる気がない。お盆を戸棚から引き出し、その上に乗せた湯飲みにお茶を注ぐ。
「隠してるって、何を?」
「何かだ。おまえは警察にも、身内でもある俺にも何か隠しているだろう」
「刑事でもあり、唯一の身内でもあるおじさんに隠していることなんて一つもないよ」
「嘘くせぇ」
僕の返答をあっさり一蹴して、おじさんはお茶を一口で飲み干した。せっかく淹れたんだから、もう少し味わう素振りぐらい見せて欲しい。というか、熱くないのかな。
「まぁ。別におまえ自身から聞かなくても、おまえが隠してることなんてすぐにでもわかることなんだろうけどな」
「だったら僕から聞かなくてもいいじゃない」
「おまえの自主性を信じたんだ」
そいつは信頼に応えられずに申し訳ない。いやまぁ、そんなことは今更だから気にしても仕方ないけど。
「嘘なんて吐いてないよ。何一つ。僕は本当のことしか言ってない」
「俺の目を見て言えるか」
「僕にはそんなこと、屁でもないよ。余裕です」
要求通り、彼の眼を見てあげる。数秒間男同士で熱く見つめ合うシーンが続きますが、今しばらくこのままでお待ちください。誰に対しての警告だ。僕か。
「……それもそうだな」
わかりやすく嘆息して、おじさんは湯飲みを傾けた。僕も一口、お茶を飲む。味がすこぶる薄かった。思うに、こんなにも味が薄いのは茶葉をまったく替えたりしないからなんだろうな。めんどくさいから替えないけど。おじさん、味なんて気にしてないだろうし。たぶん湯飲みに水を入れて出したとしても何ら気にせず飲み干すだろうね。で、しっかり飲んだ後に水じゃねぇかと怒るわけだ。
わー、理不尽。
「ん」
お茶をもう一杯いただけませ『ん』でしょうか? という言葉を著しく省略して、おじさんが湯飲みを僕に突き出す。人にものを頼むときの礼儀とかがすっぽり抜けているけど、あえて不満を口にせずにそのまま二杯目の準備をする。
「ああそれと、聞きたいことがあったんだよ」
おじさんが僕の携帯を開き、勝手に操作しながら僕に言う。
「事件当日、新井山結那をおまえが事故現場の公園まで呼び出すメールが送られてるんだが、これはいったいどういうことだ?」
お湯を少し、零した。
「……さぁ、どういうことなんだろうね。ほら、お茶できたよ」
今はとにかく、はぐらかすしかなかった。
いやぁ、下手に口にするとボロボロ零れ落ちちゃうものだらけなので。いつも笑顔を工作してるから、口角が緩んでるんだよ。真顔に戻りたくても表情筋が言うことを聞かないんだ。僕の体なのに。
今すぐ死ねって念じて死ぬような体だったらもっと話は楽なのに。人間の体は不便だよなぁ。
・金曜日 夕
計五杯目のお茶を飲み干した後、ようやくおじさんは重い腰を上げて帰っていった。昼休みに出てきたということなので、このままだと昼食まで僕の家で取っていきそうだった。さすがにそれは勘弁して欲しいので、出て行けと全力で懇願させていただいた。
「鍵変えようかなぁ」
洗い終わった湯飲みに付いた水気を布巾でふき取りながら、一人愚痴る。ああも頻繁に出入りされたらプライバシーもなにもあったもんじゃない。
簡単な昼食を済ませて、僕は布団の上で横になる。食べてすぐ寝ると牛になるっていうけど、どうして牛なんだろうかと、益体の無いことを考える。太る様を表すなら豚の方がいいのではなかろうか。いや、この考えも偏見に満ちてるよ。豚に失礼だ。ごめん豚。
「……思考がまとまらないな」
どうも最近考え事が多すぎて、思考に波に粗が立つ。やりたいこともやらなきゃいけないこともハッキリしているのに、いざ実行に移そうとするとひどく萎えてしまう。……それも当然か。なにせ、生きる意味を失ったのだから。
……いやいや、端からそんなもんなかっただろうに。
コンコンと、玄関の方から小さくドアを叩く音がする。インターホンは壊れていて鳴らない。聞き取ろうとしなければ聞き取れないほど小さいその音を発する元へ歩いていく。
「はーい、どちら様ですかー」
「あの、私、です」
声だけで誰かをすぐに判断し、一切の迷いも躊躇もなく僕はドアを開けた。
馬鹿げた勘違いをした、ある意味では一番の被害者を出迎える。
「いらっしゃい、渡来雫さん」
*
今度は茶葉を替えてお茶を振舞う。いや別に、おじさんが家にいるのが嫌でさっさと帰らないかなぁそもそもどうしておじさんにお茶を振舞ってるんだろうかめんどくせぇ、とか考えて出涸らしを使ったわけではないんですよ。と今更心の中で言い訳を並べる。
「ど、どうも」
「いえいえどういたしまして」
そうそう、こうだよね。普通お茶でもなんでも用意してもらった時点で、形だけでも感謝するぐらいの礼儀とか誠意を見せるべきだよね。なんて今更考えるけど、実際おじさんが目の前にいたら何も言えないんだろうな。いやほんと、あの人冗談通じないから困る。
「あ、あの。どうして、私の名前を」
「渡来雫。僕の一つ下の16歳で同じ学校に通っている、肩まで伸びた黒髪とキリっとした目じりが特徴の女の子。正確は明るく朗らかで、いつも周りには友達が何人かいて人気者。という情報を結那から聞いてたんだ」
結那という音の響きで、渡会さんの体がびくりと動く。なんともわかりやすく、その音の響きに恐怖している。
「ど、どういう関係なのかは、聞きました……?」
「聞いてないよ。どんな子で、どんな見た目でどんな性格かぐらいしか結那からは聞いてない」
さて今の言葉の中に含まれた意味に果たしてこの子は気づくでしょうか。
「そ、そうですか」
はい気づきませんでした、と。渡来さんの表情はあからさまに安堵の色を見せている。
「渡来さん、って呼んでもいいよね」
「あ、はい」
「僕のことは、好きに呼んでくれてもいいよ。あだ名でも、本名でも」
「それじゃあ、ミケさんって呼ばせてもらいます」
……即決であだ名を選びやがった。さすがは結那の関係者。こっちの方が聞き慣れてるってこともあるんだろうけどね。
渡来さんは落ち着きなく視線がそわそわ動く。
「何か気になるものでもある?」
「い、いえ。その……なんだか、見覚えがある気がして……」
少し、驚いた。
「……へぇ、覚えてるんだ」
僕の言葉に、渡来さんが息を呑む。正座して膝に置いた手を握り締めて、口を開く。
「……私は、ここに来たことがあるんですか?」
「いや、ないよ」
共有、されているわけではないのか。驚いて損した。そもそも、全部筒抜けだったら僕のしていることは無意味でしかない。マヌケもいいところだ。
「それで、渡来さんは何をしに来たのかな。昨日も言ったけど、君は犯人じゃないし、僕は君を殺しもしない」
「……もう、そのことを信じてもらおうとは思ってません」
「へぇ、それならどうして?」
渡来さんの瞳に、うっすらと水気が帯びる。その水分を袖口で拭い、渡来さんは口を開いた。
「謝りに来ました」
そう言って、渡来さんは頭を下げた。膝を曲げ手を付き、頭を床に押し付ける。お手本のような土下座。
「……謝る必要ないと思うんだけど」
「信じなくてもいいんです。けど、結那さんを殺したのは私なんです。それは、確かなことなんです。だから、謝らせてください」
頭を床に押し付けたまま、渡来さんは言葉を続ける。
「ごめんなさい。私が、新井山結那さんを殺しました」
身じろぎもせずに頭を下げ続ける。身勝手な涙を流すこともなく、後悔に声色を歪ませることなく。誠意を持って過去の悪意をその身に映し出す。
……本当に彼女が犯人だったら、どれだけ簡単な話だったか。彼女の内にある罪悪感なんて、なんの意味もないのに。
勘違いとその時々の運を織り交ぜた朧気なものに、いつだって僕たちは振り回されるようにして、目を回しながら生きている。いつしか吐き気を催し、限界を迎えては吐き出していく。そしてまた、振り回される。僕も、彼女も。たぶん、誰だって。
「そういう謝罪ってさ、意味が無いよね」
僕の返す言葉の冷たさに、渡来さんの体が竦む。
「だってさ、命って一つでしょ? 代わりなんてないし、無くなったらそれっきりだ。何かを盗んだとか怪我を負わせた、とかならまだいいよ。償いようもある。その分か、それ以上自分が失えばいいし、負えばいい。そうすれば償えはする。被害者とか遺族の心情とか、そういうのは検討外にしてね。けどさ、仮に誰かを殺して、だから私も死にます、なんてされても意味はどこにもないんだよね。だってその殺された人はもういないんだもん。命は一つで、代わりなんてなくて、無くなったら返ってこなくて。どんなに望もうが戻ってこなくて。どうしようもないじゃないか。代わりに死にます。償いに死にます。だから何? 死んだからどうだって言うの? 同じことをしたって、結局、最初に失われた命は戻らないじゃないか。事実は変わらない。罪はなくならない。殺された人間は帰ってこない。だったら代わりに死ぬだなんて償いに、いったい何の意味があるの?」
だから殺人は悪なんだ。誰にだって、その人の人生を終わらせる権利なんかないのに。許されないことだし、許してはいけないことだ。
だからこそ、行うべき価値があるのだけど。
「……へぇ、泣かないんだ」
「泣く権利なんか、ないじゃないですか」
てっきり泣くと思っていた。自身の罪と後悔に苛まれて、両目からポタポタと涙をだらしがなくみっともなく無様に垂れ流すと思ってたんだけど、存外、強い子のようだ。
「まぁ実際、殺してないわけだしねぇ。そりゃ泣く権利どころか、泣く理由もないもんな」
「信じてもらえなくてもいい。けど私は結那さんを殺したんです。それは絶対で、確かなことなんです。だから私はこうして」
「ああいいよ、いいからいいから」
渡会さんの言葉を途中で切るように、僕は手のひらを突き出した。
「ぶっちゃけ、君がどうしてそこまで綺麗に勘違いをしてしまったのか、理由は確かにあるだろうし、その勘違いを直す方法はあるんだけど、そんなことはどうでもいい」
使えるものはドンドン利用していこう。今の時代に適した生き方を目指していこう。エコな生き方ってやつだ。リデュース、リユース、リサイクル。できることからやっていかないと、ね。地球のことを考えても、もっと身近な何かには気付けないこともあるんだから、笑えないよね。別に誰のこととか言うつもりもないけど。
「僕の独断で、君を許そう。その代わり、君にしてもらいたいことがあるんだ」
「は、はいっ」
やっと差し出された救いの手を、渡来さんは掴んだ。
掴んで、しまった。
「よし、じゃあ今から僕が言うことを毎日一回するんだ。実にお手軽だし、簡単だ」
その分、色々なものが君を苛むと思うけど。まぁ、耐えろよ、そのぐらい。
君が君のまま生きていくよりは、まだ最善だと思いたいんだ。
「今日から毎日、人を殺すんだ。結那と同じ方法で、ね」
・金曜日 夜
このあたりはどんな季節でも七時を過ぎると真っ暗になる。電灯の数も少なくて、50mおきにあるかどうかだ。外出する時は懐中電灯が常備品になる。夏場はその灯りに虫が寄ってきて、苦手な人にはトラウマものの光景となるだろう。カブト虫が宵闇に紛れ逞しい角を突き出し突貫してくる光景っていうのは、リアルで命の危機を覚える。あれ、刺さるんだよ。
田んぼのあぜ道を呑気に歩いていく。毎日歩いている場所だから目を瞑って歩けるさ、なんて高をくくっていたら見事に全身泥だらけになったこともあり、たとえ歩きなれた道であろうとしっかりと眼で見て歩く。
しばらく歩くと、この町では唯一のコンビニが見えてくる。コンビニのくせに、朝の七時に開店し夜の十時には閉店する。田舎のコンビニなんてそんなものだ。畑仕事は日の出と共に始まるのだから夜更かししていると体を壊す。だから皆早寝早起きが基本。そんな地域で素直に深夜営業なんてしていても採算は見込めないからだ。今の時刻が九時四十五分だから、そろそろ閉店作業が始まるだろう。間に合ってよかった。
「や、久しぶり」
コンビニの前にある駐車場に人が立っていた。僕はその人に向けて軽く手を上げて声をかけた。
「二度と会いたくなかったです」
「開口一番それか」
相変わらず僕に対して冷たい人だ。結那とは仲が良いのに、その彼氏である僕にはここまで辛辣な態度をとるんだもんな。……あ、いや、だからか。
「それでもちゃんと約束を守ってくれるあたり、やっぱり君は良い人だよね」
「思ってもないことを」
「それが今日使うもの?」
辛辣な声を無視して彼女が手に持つ物を指差して問う。柄があり、そしてその大半の部分には布が巻かれていて全容は見えない。
けれど、それが何に用いられるかは理解できる。
「ええ」
「へぇ、時間がかかりそうだね」
「時間なら、無駄にありますし」
「ま、ね。田舎だし、夜は長い」
人一人を殺して、バラバラにしてどこかに捨て置くぐらい、余裕を持って出来てしまう。
あくまで例え、だけど。
「まずあなたで試してみましょうか」
「なぜそんな経緯に至るのかが不思議だよ」
冗談だろうけど、一応距離を取っておく。このコンビニが閉店してしまったら、大声をあげても誰も気づいてくれなさそうだ。
……あれ? もしかして命の危機?
「まぁまぁ、落ち着いて。僕を殺したってしょうがないでしょ?」
「さぁ、殺してから考えてみるのもありじゃないでしょうか」
ねぇよ。君は今日僕が話した内容を忘れてるんですか? あ、覚えているわけないか。
「冗談です」
「ならどうして未だ振りかぶったままなのかわかんないんだけどっ」
距離空けるぐらいじゃダメかもしれない。逃げ出すべきだこれ。
「と、とにかくよろしくねっ。約束は守るんだよ!」
そりゃいつかは死ぬだろうけど、今この場で死ぬのはさすがにいただけない。僕は踵を返して彼女に向けて声を上げる。
「わかった? 雫っ」
渡来雫は振り上げていた鋸を下ろして、不適に笑うだけだった。
・金曜日 深夜
今日一日を振り返ってみる。我ながら意味も何もない一日だったと判断せざる負えない。うん、ほんと、意味なんてなかった。
風呂を沸かすのも億劫だから、手早くシャワーで済ませる。別に、一日一回全身を濡らさなきゃいけないわけでもないのに、習慣のように僕たちはその身に水分を含ませて、身を清める。全員が全員、そういうわけじゃないだろうけど。それが当然、って思っている人が大半だろう。僕も例に漏れず。他の例からは、逸脱しきっているくせに。どうして中途半端に普通な部分があるんだろう。
陶器やガラスだって、皹が所々入っているより、いっそ全壊している方が美しい。潔くて、ずっと高潔に見える。個人の感想だけどね。
窓を開けてみる。澄んでいるだけで何の匂いもしない空気が部屋の中に吹き込まれ、充満した。田舎の空気はうまいだなんてフレーズをよく見かけるけど、じゃあそれをご飯のおかずにして食が進むのだろうか。そんなわけない。ややこしいんだよ。同じ言葉のくせにいくつもいくつも意味なんて持ちやがって。
だから僕は、日本語が嫌いなんだ。
部屋の中の空気がかき回されたせいか、今まで匂うことのなかった香りが鼻につく。瞬間、僕の体は熱気を帯び、同時に寒気にも似た感覚を覚え鳥肌が立つ。
ああ、まだ匂うというのか。あれだけ惜しみつつも洗い込んだというのに。いや、それともこの香りでさえ僕の錯覚なのかもしれない。けれどそんなものはどっちだっていい。なんて良い香りなんだろう。僕の勘違いであろうと、何度もこの香りを嗅ぎ、思い出し身に刻めるというのならば大歓迎だ。
あと数日ぐらいは、この香りが充満する部屋でもかまわないだろう。どうせ僕の錯覚なんだ。誰にもわからないさ。
窓を閉め、部屋の電気を消す。外には街灯なんてものは遠く離れた場所にしかない。新月なのか、たまたま雲隠れしているのか、月の光がない夜は部屋の電気を消すと、周囲は一切の光もない暗闇と化す。何の問題もない。視覚は意味を成さず、聴覚も働くことさえ滅多にない。触覚はあって当然だから意識するまでもないしどうでもいい。味覚だって働く要素が一つもない。
あるのはただ、この香りを受け入れる嗅覚だけだ。
ああ結那、君は本当に芳しい。
この香りに包まれて眠れるなんて、僕はなんて幸せ者なんだろうか。
こんな時でしか幸せだと意識できないなんて、それはそれで不幸なんだろうけど。
まぁ、いいや。
今日のところは、おやすみ。
「おーい、ミケー」
先を歩く彼女が声を上げる。ミケといっても、彼女が呼んでるのは猫じゃない。僕だ。まだ日は高く、燦々とした光を頭上から降らしてくる。僕も彼女も、その光を一身に受けながら歩いていた。遮光物も何もない細い田んぼ道。
あとどれほど歩けば、僕たちは目的地に辿り付けるのだったか。
「そのあだ名、僕の中で絶対定着しないと思う」
「別にミケの中で定着しなくてもいいもん。あたしは勝手にそう呼ぶから」
「あっそ」
別に、嫌いなわけじゃないけど。なんだか猫みたいで可愛らしいから僕とは合わないと思う。
「いいじゃんいいじゃん。猫みたいでかわいいよ。むしろミケかわいいよ。ミケー、ミケー」
心中を勝手に読んだのか、君は。
僕のあだ名(仮)を連呼しながら彼女は僕を置いて歩いていく。急いで駆け寄ることもせず、普通に歩きながら彼女へと僕は近づいていった。まず歩幅が違いすぎる。少し足を運ぶ間隔を短くするだけで簡単に傍に行ける。
「かわいい、ねぇ……」
「ま、確かに見た目は猫でもなんでもないし、かわいさの欠片もないけどね」
「おいコラ」
「あはは。でも、中身はかわいいよ。ミケ」
そう言って彼女は笑う。小走りになって僕の先を歩きながら。くるくる回るように前へ進みながら。
「よぉく見せておいてね。だってもしかしたら、これで見納めになるかもしれないじゃない」
そうかもしれない。そう心の中では呟けた。でも、声にはならなかった。
言葉となって、彼女には届かなかった。
「もしかしたらあたし、今日死ぬかもしれないんだからさっ」
笑顔でそう口にして、また彼女は先を歩いていく。
「……ああ、そうだね」
他に、何て返せと。




