最終話 マスター
「今日は雨だったし、こんなもんかな」
店の閉店まであと十分。
窓にはどんよりとした街の景色が反射していた。
窓際のいつもの席に、楓さんが一人で座っている。
目の前にはいつも注文しているビターラテ。
けれど今日はほとんど減っていない。
頬杖をつきながらどこか上の空な感じに見えた。
やれやれ。
「お客様。そろそろ閉店時間となりますが」
「あ、すいません。すぐ出ますので」
あわあわと帰り支度を始める様子がなんか愛おしい。
「慌てなくていいですよ、楓さん」
「……え? なんで私の名前知ってるんですか?」
楓さんの驚いた表情を見て、少し意地悪したくなった。
「名乗ったことなんてないのに——って思ってるでしょ」
「はい」
「答えは僕と樹さんが知り合いだってことと——」
そう言いながら髪をゴムで一つにまとめる。
「水曜日の夜にもたびたび会ってるんだよね」
「え……うそ。Prismのマスターだ」
本日二度目の驚き顔。
「水曜日の夜、《Prism》のマスターをやってるのも僕なんだよ」
「だからあの時、どこかで聞いたことある声のような気がしたんだ……」
楓さんは頭を抱えていた。
「ところで楓さん、まだ時間あるかな? よかったら僕とお話をしようか?」
「時間は、問題ないです、けど……なんで私と?」
当然の疑問。
「柊さんについて、君には伝えておかなきゃいけないことがあってね」
「柊さん……辞めちゃいましたもんね」
そう言うと楓さんの表情が曇っていった。
「まず一つ伝えておくと、柊さんは辞めたわけじゃなくて、また戻ってくるよ」
「え……そうなんですか?」
「うん。あ、ちょっと待っててね」
僕は入口の札を《CLOSED》に裏返し、ブラインドを閉めていく。
「マ、マスター、いけません! いくら私が可愛いからってそんな——」
「そんなわけないでしょ」
「いやー、ちょっとやってみたくて。すいません」
まったく。
樹さんから聞いていた通りの性格だね。
「とりあえず飲み物でもいかがかな?」
「私はまだありますので、マスターの分だけでいいですよ」
「冷めちゃってるでしょ。淹れなおしてあげる。同じものでいいのかな?」
「すいません。同じものでお願いします」
僕は楓さんのカップをもらって、二人分の飲み物を淹れる。
香ばしい豆の香りが店内を包んでいった。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「僕も座っていいかな?」
「もちろんです」
僕は楓さんの向かいの席に腰かける。
二人でまずはカップを口に運ぶ。
じんわりと体の中から熱が伝わる。
「じゃあ落ち着いたところでまずは、柊さんと樹さんについてから話そうか」
「柊さんと……樹先輩ですか?」
楓さんが首をかしげている。
雨は一層激しさを増していた。
**************
樹さんがスペインへ発つ数日前のこと。
「マスター。少し時間いいですか?」
営業終了後のPrism。
樹さんを見ると、神妙な顔つきをしていた。
「いいよ。どうしたの?」
彼は少し躊躇いながら口を開いた。
「俺、楓の告白は断ります」
「……そっか」
なんとなく彼はそうするんじゃないかと思っていた。
「理由を聞いても良いかな?」
「楓から逃げるわけじゃありません。ただ、柊のまま受け入れるのはフェアじゃないと思うんです」
色恋ごとは大概、アンフェアな気もするけどなぁ。
でも、そこが彼らしいんだけどね。
「これで楓が、きっぱりと柊への想いを諦めてくれたら……それでもいいんです」
「樹さん、嘘をついたね。そんなこと思ってないでしょ」
「……で、ですが。今の俺じゃあまだ……」
そう言うと樹さんは顔を伏せてしまった。
彼の気持ちは尊重してあげたいしな。
仕方ない。
不器用な若者たちの為に一肌脱ぐかな。
「僕から一つ提案があるんだけど、いいかな?」
「え? なんでしょうか?」
「僕が柊の正体について楓さんに喋ってもいい?」
「……マ、マスターがですか?」
樹さんが驚いている。
「うん。そうすれば楓さんにもフェアになると思うんだけどさ。どうかな?」
「だ、だとしても、そんなことをマスターにしてもらうわけには——」
「やらせてよ。僕は君たちには後悔してほしくないんだよ」
少しの沈黙。
「少なくとも楓さんに君を理解してもらえるように話すからさ」
「……ほんとにいいんですか?」
「もちろん。でもその為には、君のことを過去も含めて色々と話すかもしれない。それは問題ないかな?」
「……問題ないです」
樹さんは穏やかな表情で頷いた。
どうやら決意は固まったようだね。
「……すいません。何もかも俺のせいなのに……」
「いいんだよ。あ、ひとつだけお願いしようかな」
「なんでしょうか?」
「留学から戻ったらさ、もう少しだけPrismを手伝ってよ。これで辞めるなんて言わないでさ」
樹さんは驚いた顔をしていた。
「……了解です。そう言っていただけるなら、喜んで手伝わせていただきます」
「交渉成立だね。あ、そういえば」
「どうしました?」
「僕が失敗しちゃったらごめんね」
「マ、マスター、そんなぁ……」
「冗談だよ」
僕は樹さんの肩を叩いて笑った。
**************
「楓さんさ。自分のせいで柊さんがいなくなったとか思ってない?」
楓さんの表情が曇る。
――――――――――――――――――――
『柊さん。私、あなたが……あなたが好き』
告白の水曜日。
私は柊さんにそう伝えた。
『ありがとうございます。でも今の僕では、その気持ちには応えられません。ほんとに……ごめんなさい』
柊さんは困ったように笑って、Prismに戻っていった。
――――――――――――――――――――
「……はい」
「やっぱりか」
「告白した次の週から柊さん、いなくなったし。もしかしたら……って」
「違うよ。彼はね、今スペインに留学中なんだ」
「えぇ! そうなんですか? あ、スペインって……樹先輩と一緒だ!」
楓さんは何か思いついたようだった。
「そう、おかしいよね? 学校も学科も年齢も留学先も期間も一緒。ということは——」
「実は私に内緒で、超仲良しだったってことですよね? 最悪だわ……」
椅子から転げ落ちそうになる。
この子の中ではどうやっても樹さんと柊さんが結びつかないんだなぁ。
「それも面白いけどね。もっとシンプルな答えがあるでしょ?」
「シンプルって……だいたい同じで留学先も一緒で、期間も——」
そこでようやく気づいたらしい。
ゆっくりと僕を見たので、微笑みを返しておく。
「……えっ? は? え? 嘘ですよね?」
「柊さんはね、樹さんなんだよ」
一瞬の沈黙。
「うわああああああぁぁぁぁ!?」
閉店後でよかった。
「ちょ、ま、柊さんが!? 樹先輩!? 柊さんが!?」
「そうだよ」
「ぜ、全然違うじゃないですか!」
「楓さんさっき僕のことも分かんなかったでしょ? それと一緒だよ」
「それと一緒って! いや、そうなんですけど……えええぇぇぇ!」
楓さんは顔を真っ赤にした。
そして過去の記憶が繋がってきたらしい。
「じゃあ……大学で見た柊さんも……。いや、え? 私、本人に告白のお手伝いしてもらってた? なんで? いや、そんなことより……好きって……」
みるみる顔色が変わっていく。
「ごめんね。はじめに樹さんから聞いた時、笑っちゃったよ」
楓さんがテーブルに突っ伏した。
「死にたい……」
「大丈夫だよ。知ってるのは僕たちだけだしさ」
「……何も大丈夫じゃないですよ」
しばらくして、楓さんが顔だけ上げた。
「……きっと二人して私のこと見ながら、散々弄んでずっと面白がってたんだ」
他の人が聞いたらとんでもない勘違いをされそうなセリフだ。
閉店後で本当によかった。
「そんなわけないでしょ」
「だってぇ……」
楓さんは涙目になりながらビターラテを飲む。
「楓さんがどこまで知ってるかわかんないけどさ。樹さんについて話そうか」
「……樹先輩について?」
ここで僕もコーヒーを一口。
我ながらいい味出してるね。
「単刀直入に言うと彼、パンセクシャルなんだ。わかるかな?」
「パンセクシャル、ですか?」
「すごく簡単に言うと『全性愛』。性別関係なく恋愛の対象になるんだ」
「……そうだったんだ。知らなかった」
少し寂しそうな表情になる。
「言ってくれれば、って思ってるでしょ?」
「……はい。樹先輩は私が男で……って、多分マスターは知ってますよね?」
「樹さんから聞いてたよ」
楓さんこそ、男性だと言われなければ、女性にしか見えない。
「話を戻すね。彼、昔お付き合いしていた女性に打ち明けたことがあったんだけど、受け入れられなかった」
楓さんは静かに聞いていた。
「その上周りの人にも知られてしまって、相当嫌な思いをしたらしいんだ。それ以来、より『自分は他と違う』という思いが強くなったんだ」
少しの沈黙。
「でもね。彼が変わるきっかけを作ったのは楓さん。君なんだよ」
「私? どうして?」
「君に出会ってから、自分も変わりたい。自分を出したいって思えたって話をしていたよ」
「……そうだったんだ。でもなんで柊って名乗ってたんだろ」
「樹さんが言うにはさ、『今の自分』と『理想の自分』を切り離して考えたかったんだって」
「……先輩、真面目ですね」
「ね。まぁ彼らしいけどさ」
そう言って二人で笑った。
**************
樹さんとの話も一段落し、少し落ち着きたい気分になった。
「樹さんにカクテルをお願いしようかな」
「いいですよ。何飲みますか?」
「《Green Carnation》を頼むよ」
「え?」
「君への餞だよ。飲むでしょ?」
「了解です。ありがとうございます」
そう言うと手際よく作り始めた。
一つ一つの所作が随分と綺麗で滑らかになった。
「どうぞ」
「ありがとう。じゃあ乾杯」
二人ともグラスを口に運ぶ。
僕には心地よい苦みが、喉を通って体を熱く潤してゆく。
隣では樹さんが苦い顔をしていた。
「あ、ごめん。樹さんは苦いの苦手だったっけ」
「いや、そうなんですけど……、今飲むと、なんか悪くないかなって」
「いろんな意味でまた一つ、大人になったってことかな」
樹さんは苦笑いを見せた。
「それにしてもまさか君がスペインに行くなんてね」
「意外でしたよね」
「理由を聞いてもいいかな?」
「……俺、マスターみたいになりたいんです」
「僕みたいに?」
初耳だった。
「ええ。Prismでマスターと働かせてもらって、いろんなお客さんを知るうちに俺も、いろんな事情を抱えてる人の支えになりたいって思ったんです」
……嬉しいこと言ってくれるじゃない。
でも、その道は——
「茨の道だよ?」
「理解してます。その上でそう思えたんです。それに……」
「それに?」
「マスターが歩いてる道でもあるから、俺もそこでもっと成長したいと思ってます」
……僕の人生も捨てたもんじゃないね。
「そっか。悩んだら相談してね? 力になりたいからさ」
「ありがとうございます」
もう一度乾杯をして、グラスを口へと運ぶ。
おっと、意外と時間経っちゃったな。
「さて、留学の準備もあるだろうし、気をつけて帰りなよ」
「はい。なんか色々とありがとうございます。お先に失礼します」
樹さんを見送って、カウンターに一人座りなおす。
グラスの中で揺れるカクテルが少し眩しい。
「彼が戻ってくる頃には、この苦みをどう感じるのかな」
そう言って僕は残りを全て飲み干した。
今日はこの苦みが、いつもより心地よかった。
**************
「樹先輩が帰って来たら、とりあえず一回シバきます」
「お願いだから店の中で揉め事は勘弁してよ?」
「どうしよっかなぁ。マスターにも意地悪されたからなぁ」
この子はほんとにやりそうだから怖いな。
「でも先輩は何でスペインに留学したんだろ? マスター知ってますか?」
「ああ、それは僕たちのような性的マイノリティを取り巻く社会やコミュニティについて、実際に向こうで学びたいんだって」
「そうなんだぁ……って僕たちのようって……え? マスター?」
楓さんが驚いた顔をしている。
「あ、分かんなかった?」
「……マジすか?」
「僕、性別は女性だけど、男装してて、恋愛対象は女性。君と真逆だね」
「うわあああぁぁ!? なんか今日、情報が多すぎて訳わかんないよー!」
楓さんは良いリアクションするよなぁ。
何度も思うけど、閉店後で本当によかった。
そういえば樹さんに言った時もかなり驚かれたっけ。
「人って面白いよね。それぞれが持ってる光は一つでも、見え方や見方が違うといろんな彩りを見せてくれる」
楓さんが小さく頷く。
「確かにそうですね。あ、もしかしてPrismって名前にも意味が?」
「そうだよ。僕はね、人はそれぞれ自分の光を持ってると思うんだ。そしてプリズムはその光の中にある色を、見えるようにしてくれるんだよ」
「人の……光の色ですか?」
「そう。例えば樹さんと柊さんの色は違って見えても、もとは同じ光でしょ。僕は人も同じだと思ってる」
「なるほど……分かる気はします」
「そういうのもあってね。いろんな人が自分のままでいられる場所にしたかったんだ」
しばらく楓さんは何かを考えているようだった。
「マスターの思いは伝わったのですが、その……」
「どうしたの?」
「もっとSNSを使って宣伝したらいいと思うんです。看板だけだと、どうも伝わらない気がして」
痛いところを突かれてしまった。
「僕はそういうのに全くついて行けてなくてね。楓さん教えてくれない?」
「それはいいですけど……そういえばマスターって、何歳なんですか?」
「ひ・み・つ」
二人で笑った。
楓さんのカップを見る。
淹れなおしたラテは、綺麗に飲み干されていた。
「さて、そろそろお開きにしようか。次のお店の準備もあるしね」
「はい。あ、次のお店って今日は水曜日だから……Prismですよね」
「そうだよ。樹さんがいないから大変なんだ」
「私手伝いますよ」
「え? いいよ。遅くなるから帰りなさい」
「いいんです。いろいろ話していただいたお礼をさせてください」
「そう? じゃあお言葉に甘えちゃおうかな。そうだ。樹さんがいない間、よかったら働かない?」
「え? いいんですか?」
「もちろん。楓さんなら歓迎だよ」
「やったぁ。もう樹先輩はクビでいいですね」
「そ、それはちょっと困るかなぁ」
窓の外を見ると、いつの間にか雨は止んでいた。
樹さんが帰ってくれば、きっとまた色々あるのだろう。
今まで通りというわけにはいかないね。
それでも——
「楓さん」
「はい?」
「柊さんが樹さんでがっかりした?」
「いえ。ただ、思い出したら腹立ってきましたよ。しばらく柊って呼んでやろうかな」
「いいね、それ。僕も乗ったよ」
楓さんが笑う。
僕も笑った。
人生は甘いだけじゃ、きっと物足りない。
たまにビターな刺激があるくらいが——
恋にはちょうどいい。




