第1話 楓
「樹先輩。私、恋をしたかもしれません」
向かいに座っていた先輩の手が止まった。
口元まで運ばれていたカップが、そのまま宙で静止する。
「へぇ……よかったじゃん」
「なんですかそのダルそうな反応は!」
「いや、お前にもやっとそう思える相手が出来たんだな、って思ってさ」
先輩はそう言うと、薄ら笑いを浮かべながらカップを置いた。
「おめでとう、楓ちゃん」
「……なんかムカつく」
ここは大学近くにある喫茶店、《Mirage》。
木目調の落ち着いた店内に、古いジャズが小さく流れている。
私と樹先輩は、バイトへ行く前によくここへ来ていた。
「てかお前、またそれ飲んでんの?」
「はい、ビターラテ最高ですよ」
「苦くねぇ?」
「それが絶妙なんですよ。ま、舌がおこちゃまの先輩には分かりませんよね」
私たちは同じ大学、同じ学部の同じ学科。
ただ樹先輩は三年生、私は二年生。
知り合ったのは大学ではなく、バイト先である駅前の書店だった。
私がバイトを始めた時、仕事を一から教えてくれたのが樹先輩。
最初の印象は、正直に言えば地味な人。
伸びた髪はいつも適当。
黒縁の眼鏡。
服にもあまり興味がないらしく、似たような格好ばかりしている。
おまけに愛想がいいわけでもない。
でも不思議と気が合った。
口は悪いけど面倒見がいい。
困っていると、何だかんだ言いながら助けてくれる。
大学の履修登録で迷った時も。
バイトで面倒な客に絡まれた時も。
気づけば一番頼れる先輩になっていた。
その樹先輩が、眼鏡の奥からじっと私を見ている。
「で? 楓ちゃんに不幸にも惚れられてしまった可哀相な人は誰なのかなぁ?」
「こいつ腹立つわぁ」
「いいから言ってみろよ。どこのどいつよ? 俺が知ってるやつか?」
私は待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「ビックリしないでくださいよ? なんとバーテンダーです」
「……は?」
「ここの喫茶店って、夜は他の人に貸してるじゃないですか」
先輩が止まった。
「ああ、《Prism》か」
夜になると、この喫茶店は曜日によって違う店になる。
別の人に貸している日もあるらしい。
毎週水曜日は《Prism》というBarだった。
「一ヶ月くらい前かなぁ。ふと気になって入ったんですよ」
「なるほどね。そこのバーテンダーに惚れてしまった、と」
「はい! すごく丁寧で! 優しくて! 夢のような時間でした!」
思った以上に大きな声が出てたらしい。
近くにいた客がこちらを見る。
「お前、声」
「あ、ごめんなさい。つい」
私は小さく頭を下げる。
そしてビターラテを一口。
ほろ苦い。
「私も真っ直ぐ帰ろうと思ったんですけど、なんとなく飲みたい気分になって」
「一人で?」
「私だって一人で飲むことくらいありますよ」
「ふーん、珍しいな」
先輩がカップを持ち上げて口に運ぶ。
「樹先輩は入ったことないですか?」
「あるよ」
「えぇ!? そっちの方がビックリですよ。似合わねぇー」
「お前、殴るぞ」
正直驚いた。
まぁ全然似合わないけど。
「で、なんていう奴よ?」
「奴とか言わないでくださいよ。てか名前言って分かりますか?」
「万が一があるだろ。さっきも言ったけど知り合いかもしれねぇしさ」
「絶対ありえない」
「お前……ほんと失礼だよな」
「ま、いっか。本名かは分からないけど、柊さんっていうんです」
樹先輩が咳き込んだ。
「先輩!大丈夫ですか?」
「……き、気管に入った」
「あーあ、歳ですね」
「一つしか違わねぇだろ」
私は笑いながらビターラテを飲んだ。
********************
Prismの扉を開けた時、最初は失敗したと思った。
昼間の喫茶店の時と、見せる顔がまるで違ったからだ。
店内は薄暗く、カウンターの向こうには琥珀色の酒瓶がずらりと並んでいた。
知らない音楽の中。
知らない客。
昼とはまるで違う空気。
場違いなところへ来てしまった気がして、踵を返そうとした。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた安心感のある声だった。
振り向くと、カウンターの向こうに一人のバーテンダーが立っていた。
黒いシャツに、細身のベスト。
綺麗に整えられた髪。
柔らかな照明の下でも分かる、涼しげな目元。
「お一人ですか?」
「あ……は、はい」
「でしたら、こちらへどうぞ」
促されるままカウンター席に座った。
「何になさいますか?」
メニューを開くが知らない名前ばかり。
勢いで入ったものの、私は酒に詳しくない。
それを見抜いたのか、その人は少し笑った。
「迷っちゃいますよね?」
「……わ、分かりますか?」
「ええ」
最悪。
死ぬほど恥ずかしい。
「無理にお酒じゃなくてもいいんですよ?」
「い、いえ大丈夫です。お酒は飲めます。というか飲みたいです」
その人はそれを聞いて、少し微笑んでいた。
「では甘いものと、苦いものならどちらが好みですか?」
「あ、それなら苦い方が好きです」
「では、こちらでどうでしょう。少々苦みが強いですが」
「それでお願いします」
「かしこまりました」
無駄のない動きだった。
グラスを取る。
氷を入れる。
酒を注ぐ。
一つ一つの所作が綺麗で、つい見入ってしまう。
「こちら《Green Carnation》でございます」
差し出されたグラスを口に運ぶ。
「……美味しい」
思わず言葉が漏れた。
確かに苦い。
でも後から、わずかな甘さがやってくる。
「お気に召しましたか?」
「はい、とても美味しいです」
「それはよかった」
その人は静かに笑った。
思わずドキッとした。
横目でネームプレートを見る。
柊。
なんて読むんだろ。
「柊さーん。こっちにも来てよー」
「はい、ただいま。すいません、失礼いたします」
柊さんは頭を下げながら、別のお客さんのもとへ。
「柊さんっていうんだ……」
口にしてみる。
不思議と覚えやすい名前だった。
「彼ね、結構人気なんだよ」
突然の声に振り返る。
柊さんとは別の男性が、カウンターに立っていた。
「彼が来る前は僕一人だったからね。ほんとに助かってますよ」
柊さんとはまた違う雰囲気で、とても落ち着いた声。
なんていうか、どこか懐かしいような、妙な安心感があった。
じゃあこの人がここの店主なのかな。
「あの、柊さんは……あ!」
「どうされましたか?」
「い、いや、大学に明日提出する課題、終わってないの思い出して……」
「おや、学生さんでしたか。それは飲んでる場合じゃございませんね」
「で、ですよねー……」
「ここは毎週水曜日にやってますので、また落ち着いたら是非ご来店ください」
「はい、必ずまた来ます」
私は急いで残りを飲み干し、会計を済ませて扉へ向かう。
「あれ、もうおかえりですか?」
柊さんが声を掛けてきた。
「ええ、ちょっと用事を思い出しまして……」
「そうでしたか。雨が結構降ってるようなので、どうかお気をつけて」
「あの……また来ます」
柊さんは一瞬驚いた様子だったが、静かに微笑んだ。
「ええ、またのお越しをお待ちしております」
店を出ると、柊さんが言った通り雨が降っていた。
でも秋の夜風が今日は不思議と心地いい。
「それはきっと心が満たされているからだろう。……なんつって」
ああ。
きっとこれが恋ってやつなのかなぁ。
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「……とまぁ、ざっとこんな感じです」
一通り話し終えると、樹先輩は盛大なため息を吐いた。
「楓ちゃん、見た目通りチョロいんだねぇ。僕は心配だよ」
「だ、誰がチョロいって!? ほんと失礼ですよね」
「だって一回会っただけだろ?」
「そんなの関係ないですよ。先輩こそ恋したことないんじゃないですか?」
「あるし彼女もいたわ」
「何夢見てるんですか? いい加減目を覚ましてください」
「こいつ、マジで殴ろっかな」
樹先輩は呆れた顔で私を見る。
「で、その柊さんとどうしたいわけ?」
「もちろんお付き合いしたいです。そこで先輩に頼みが——」
「やだね、お断りだ」
「まだ何も言ってませんよ!」
「聞くまでもねぇや。どうせろくでもない頼みだろ?」
私は両手を合わせた。
「お願いです。柊さんのことをこっそり調べてください!」
「んなことだろうと思ったよ。無理だね。自分でやれよ」
「謝礼も払います。それに私、見たんですよ」
樹先輩が黙った。
「……な、なにをだよ?」
「なんとですね、先週、大学内で柊さんを見かけたんですよ」
「……人違いじゃねぇの?」
「いーや、あれは絶対柊さんでした! 遠目でしたけど間違いないです!」
「……一回しか見てねぇくせに」
「それにですね、柊さんが受けていた講義は三年生の必修科目なんです」
樹先輩が額に手を当てた。
「んで? 俺がその柊ってのに色々聞いて、お前に教えろってか?」
「さすが先輩! 察しがいいですね!」
「ふざけんな! 第一そんなことして告白したところでお前は——」
「ダメでもいいんです! 振られたって構いません!」
また大きな声を出してしまい、周囲が一瞬静かになる。
「おい、落ち着けって」
樹先輩が私を宥める。
「……ごめんなさい。でも、何もせずに終わりたくないんです」
「…………」
「やるだけやってダメでもいい。無様に散っても構わない。でも……自分の気持ちに嘘をつきたくないんです」
樹先輩の目が、一瞬だけ揺れた気がした。
しばらく沈黙が続く。
「……わかったよ」
「え?」
「調べてやるって言ってんの。可愛かねぇけど一応後輩だしな」
「先輩! ありがとうございます。頼りになります」
恭しく頭を下げて礼を述べる。
「やめろ、鬱陶しい。一旦期限を設けようか。とりあえず二週間くれ」
「わかりました。それで……謝礼はどういたしましょうか?」
「そうだな……一回俺と寝る?」
「……最っ低!」
「嘘に決まってんだろバカ! とりあえず今日はお前が奢れ。それでいいや」
「せ、先輩は神様だったんですね……。先輩、大好きです!」
「……やかましいわ」
樹先輩は呆れながらも、少し笑っていた。
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二週間後。
今日は樹先輩と喫茶店 《Mirage》にて作戦会議。
「ほら。お前が知りたかったこと、調べてやったぞ」
「おおぉぉー! やっぱ持つべきものは頼れる先輩ですね!」
「うるせぇわ、早く見てみろ」
樹先輩が色々メモしたルーズリーフをテーブルに置いた。
「まず髪型は……黒髪のロング! 私バッチリじゃん!」
「黙って読めよ」
「服装は……あ、私今着てるコレとか柊さん好きですかね?」
「好きなんじゃねぇの」
「ちょっと先輩! 真面目に聞いてるんですよ!」
「だから黙って読めっての!」
樹先輩がこちらを見て呆れている。
「すいません。でも結構細かく調べてくれたんですね」
「中途半端は嫌なんだよ」
意外な樹先輩の一面を知った。
「ありがとうございます。参考にさせていただきます」
「俺にあれだけ啖呵きったんだ。お前も中途半端にするなよ?」
樹先輩はなんだかんだ言っても、ほんとにいい先輩だ。
だけどいつもの仕返しに、ちょっと悪戯してみることにする。
「もちろんです。それともう一つお願いがあるんです」
「……今度はなんだ」
私は大きく深呼吸をして、気持ちを静かに整える。
「……樹先輩。ずっとあなたが好きでした。私と付き合ってくれませんか?」
先輩は大きく目を見開き、固まっている。
「……俺も好きだよ」
「……え?」
「……あ? どうせ告白の練習か、俺をビックリさせようとしたんだろ?」
「バ……バレてたか」
「ふざけた真似しやがって。帰るぞ」
樹先輩は機嫌が悪そうに立ち上がろうとする。
「ま、待ってください。今日も奢りますから機嫌治してくださいよ。ね?」
「お、じゃあハニートーストとナポリタン頼もっかな」
「うっ……マジっすか?」
「嘘だよ。それ、お前と同じやつ頼むわ」
私のビターラテの入ったカップを指差した。
樹先輩が店員さんを呼んで注文する。
「どうしたんですか? あなたはほんとに樹先輩ですか?」
「大人にはね、そういうときもあるんだよ楓ちゃん」
「……一つしか違わないじゃん」
先輩のもとにビターラテが運ばれてきた。
「……うっわ! やっぱコレ、苦いな」
「よかったぁ。いつもの先輩だった」
二人で笑った。
********************
告白すると決めたのは、それから三週間後だった。
その間、Prismには二回行った。
柊さんは毎回いて、少しずつ話す時間も増えた。
大学のことや、好きな映画。
最近読んだ本とか、ほんと退屈な話ばかりだけど。
柊さんはとても聞き上手だった。
こちらが話すと静かに聞いてくれて、時々笑う。
そして何気ない一言が優しい。
もっと知りたい。
もっと話したい。
ここじゃないどこかで会ってみたい。
そんな思いが募っていった。
だから。
「樹先輩。私、次Prismに行ったときに告白します」
バイト前のいつものMirage。
「……そっか、がんばれよ」
樹先輩はこちらを見なかった。
「結果がどうあれ、先輩には一番に報告しますね」
「別に聞きたかねぇけど、だったら一週間以内にしろよ?」
「どうしてですか?」
「俺言ったよな? 来月からスペインに短期留学するって」
すっかり忘れていた。
だから本屋のバイトも、今週の木曜で一旦辞めるんだった。
「も、もちろんでしゅよ」
「何噛んでんだ。てめぇ、さては忘れてたな?」
思わず笑ってしまった。
「すいません、忘れてました。了解です!」
「……後悔が残らないように、な」
先輩はカップを静かに置いた。
「楓。あらためて聞いていいか?」
「え? いいですよ?」
「なんで、そんなに柊がいいの?」
「なんでって……」
格好いいから。
優しいから。
落ち着いているから。
笑った顔が好きだから。
理由なんていくらでも浮かぶ。
でも一番の理由は——
「色々ありますけど、柊さんはなんかこう……生き生きとしてるんですよ」
「なんじゃそら」
「なんていうか自分を出せてるっていうか、自信をもってるというか……。とにかく自分も変わりたいなって思わせてくれるんです」
樹先輩が目を伏せた。
「……そっか」
「やっぱり私、変ですか?」
「いや」
樹先輩は、自分の珈琲を一口飲んだ。
「……お前の気持ち、分かる気がするよ」
窓の外では雨が強くなっていた。
次の水曜日。
柊さんに告白する。
私はその決意を胸に、ビターラテを一気に飲み干した。




