9.グレイヴハウンドに退く道はない
「はあ……はあ……」
ハルムートは壁に手をつき、よろめいた。冷たい風と雨粒のなかで、ようやく意識が戻る。
あたりの通りに、人影はない。縁の低い土地では、水が歩道を越えていた。店先に掛かった馬灯の灯りが、水面で揺れる。まるで、ゆっくり増水する川だ。
続く大雨の警報で、ロズモアのグレイスヒルでは、住民のほぼ十分の一が安全区へ避難している。およそ三十二条の街路が、空になった。
その裏には、クレーフ塔の工作と指示もある。
――あの愚かな狩人どもが、貪りの胚を一つ、ロズモアの市街に持ち込んだからだ。
しかも今度は内紛を起こし、胚の行方が分からなくなった。街じゅうの神経が、それに触れている。
遠くない将来、未知の幻獣が、夢の裂け目から咆哮とともに飛び出し、血と火をもたらすかもしれない。
頭の痛みが、遠ざかっていく。耳元の呟きも、消えた。
彼は自分の両手を見て、苦笑した。
右腕の欠落と、体に残った古傷のほかに、光輝の大騎士ハルムートが隠退した理由がある。
彼はかつて、魔剣セルメンの持ち手だった。
あの奇怪な古代の剣は、初代の主の狂気と死によって、人を狂わせる呪いを帯びている。極めて強く、正しい騎士――完璧な精神と意志だけが、この呪いを御せる。
かつてのハルムートは、そういう騎士だった。
だが今の彼は、老い、欠けている。その資格を、すでに失っていた。
魔剣の次の継承者は、まだ見つかっていない。それなのに、彼はもう、この剣の反噬を受けている。
夜ごと、街を泳ぐ巨大な影が見える。セルメンの深い囁きが聞こえる。最近は、ますます酷くなった。
彼は、苛まれている。
――
高い廃教会の前。
セリスは杖を手に、黒い外套を鳴らして、火の上がる丸いステンドグラスを見上げていた。
喊声が途切れない。乱れたエーテルの波動が、あたり一帯を、祭りのような血の匂いに包む。窓ガラスが、次々と割れる。
光る破片に、内臓のかけらと血が混じり、蔦の這う壁に飛び散った。
床は死体で埋まり、その死体は急速に炭化し、灰になっていく。
彼女の背後に、黙って立つのは、今もっとも忠実な部下たち。
シェイマス・ブリーン。タディ・オウェンズ。そしてローリー・ドノヴァン。
第二の狩人組織「霜牙」の第二首領として、セリスのかつての直属の配下は、この三人だけではなかった。
だが彼女は、許されざる裏切りに遭い、そして戻ってきた。残った者たちは、当然、死体になった。
貪りの胚は、孵化する前の幼体の状態で、人の心を誘う力を持つ。悪念を起こさせ、それを手に入れたいと思わせる。
最初に不注意にも直視した者が現れてから、事態は手がつけられなくなった。
今、ロズモアのこの大雨は、狩人たちの戦場と化している。
シェイマスとタディは、もともと彼女に従っていた部下で、同時に父親の手下でもある。精神には、家が養う白の魔術師がルーンを刻んでいる。だから胚の侵蝕のなかでも、正気を保てた。
ローリーは、つい最近降った男だ。自ら烙印を望んだ。霜牙では、第一首領ブライス・モイランの部下だった。
降った理由は、簡単だ。
この男は、セリスが戻ってきて戦う姿を見た――獣化の姿、残虐な手段、復讐の決意、そして背後の積み上がった死体を。
「お嬢様。確認できました。貪りの胚はブライスが持っています。彼は完全に狂って、胚を奪ったあと、狩人組織の内部で大虐殺を始めました」
シェイマスが傍らで低く言う。
「黒薔薇」の異名を持つ彼女は、背が高く、美しい。唇には黒いグロス、耳にはピアスが並ぶ。婦人用のシャツ、細身の長ズボン、編み上げのブーツ。見た目は、ただのお洒落な女だ。
だが、手にした血の滴る鋸刃の長刀と、返り血に塗れた体が、彼女の危険を告げている。
幻獣を追う狩人であり、人を斬り捨てる悪徒でもある。
彼女は少し案じるように、教会のなかを見た。
「我々の戦力では、足りないかもしれません。ブライスは第三首領ドーナルと組みました。この攻めは、空振りに終わるでしょう」
タディがうなずく。
「ブライスは強い。霜牙のなかで、最も恐慌級に近い。ドーナルは少し劣りますが、組織の大半の者は、彼が育てたと言っていい。ブライスの狂気で逃げ出した者も多いですが、それでも従う者は残っている。勝算は薄いです」
ローリーは、少し怯えた目でセリスを見て、へつらうように笑った。
「首領……いや、ブライスたちは強いですけど、頭も負けてませんよ」
「あいつは恐慌級に近いだけ。頭は、本物の恐慌級です。獣化しちまえば、ブライスもドーナルも、剣の餌でしかない」
彼はセリスの階位を正確には知らない。だが、世辞を言って損はない。
高度な獣化の状態で正気を保つ狩人がいるはずがない。だが、強いものは強い。彼は認める。自分はただの草だ。強い方につく。弱肉強食、それが世の真理。
――もちろん、穢れの血を制御する方法を、自分も得られれば、もっと良いのだが。
「しゃん」
セリスは杖を払った。鋭い刃が、次々と回り出す。
「グレイヴハウンドに、退く道はない」
「行くぞ。これが、最後の決戦だ」
この廃教会は、サン・コルヴォ教会が建てたものだ。
サン・コルヴォ教会は、かつて第一の教会だった。だがオルデル協会が急速に力をつけ、その地位を奪った。多くの聖堂が、打ち捨てられた。
教会の戦いは、すでに終わりに近い。あたりには、狩人たちの残骸が散らばっている。
セリスは最後の阻む者を殺し、広間へ踏み込んだ。
波の紋様を描いたステンドグラスの下に立つのは、霜牙の第三首領ドーナル・マグワイア。
痩せた長身の男だ。神父の衣のような黒い長衣をまとい、背に長い大鎌を立てている。うつむいて祈っているようにも見える。外の薄暗い光が、ステンドグラスを通り、七色の波になって彼に落ちた。
雨が、傷んだ天井から漏れる。ぽつ、ぽつと床に落ち、水たまりになる。
「ブライスは」
シェイマスが訊く。
「……ぷ」
ドーナルの首が、わずかに動いた。奇妙な泡の音がした。
「違う」
セリスの瞳孔が縮む。二、三歩で駆け寄り、男の肩に手を当てて押した。
ドーナルの首が、のけぞる。歪んで、苦しげな顔が露わになった。
首のところに、血の滴る裂け目が開いている。
血が、床に落ち続ける。
皆の顔色が変わった。
長い大鎌の柄は、彼の背に負われていたのではない。体を貫き、教会の床に縫いとめていたのだ。
「注射だ。早く」
「はい」
タディが予備の穢れの血の注射剤を差し出す。セリスは受け取り、ドーナルの心臓に一針を打ち込み、全部を押し込んだ。
大量の穢れの血が、ただちに効く。ドーナルの首の傷が蠢き、瞬きのうちに塞がった。
同時に、彼の目が白く回り、最後には獣の瞳になった。
「……ぷ、ぷ」
男の歯と爪が伸び、毛が急速に生え、苦しげに吼える。
「答えろ。ブライスはどこだ。貪りの胚を持ち去ったのか」
セリスは、その目を覗き込むように叫んだ。
ドーナルはうなずき、大きく口を開けて、くつくつと笑った。蚊の鳴くような声で言う。
「彼は……降りてくる……」
視線が、急速に散り、止まる。
枯れ枝のような毛が、内臓から生えて、また潜り込み、最後の命を連れ去った。
「くそ」
セリスは拳を壁に叩きつけ、荒れた広間を見た。
シェイマスが低く言う。
「すぐに捜索を」
タディが提案する。
「お嬢様。グウィリム・ブレイディに訊いてはどうでしょう。家が養う魔術師です。協力を断らないはずです」
「要らない」
「捜索を続けろ」
セリスは長く息を吐いた。
「ローリー、私と来い」
ローリーは、少し不安そうに訊く。
「ど、どこへ」
「二十三番街だ」




