28.哲学者
彼方は少し面食らった。相手から先にこの問いが来るとは、まったく予想していなかった。
自分から訊いて、潜在意識が組み上げたこの役が、どんな面白い答えを返すか、見たかったのだ。
まさか、先に問いを奪われるとは。
(だが、そのほうが面白い)
――「夢の人」と「夢の外の人」の対話。
彼方は微笑み、少し考えて答えた。
「……夢を見ている者、でしょうか」
「夢の人」は、手を伸ばして髪に挿したアイリスに触れ、そっと手を戻して言う。
「夢のなかにいるのなら、当然、夢を見ている者でしょう」
(彼女は、自分が夢のなかにいると知っているのか)
彼方は途端に面白くなる。自分が明晰夢を見られるなら、夢見た相手は、自分が夢のなかにいると気づき、ひいては自分が実在しないと知りうるか。
だが、夢見た相手が実在し、後頭部の管で同じ夢に繋がっていないかぎり、そんな話は荒唐無稽だ。夢のなかの人物は、自分の潜在意識にすぎないのだから。
「少なくとも、その答えは本当です。では、私の番ですね」
彼方は自然に、問いを等価交換に変え、咳払いをして言った。
「あなたは誰ですか。――夢を見ている者、は、なしです」
夢のなかだからか、彼は自分が少し図々しくなった気がした。
「夢の人」は、微笑む。雪のようで水のような目で、白い薄絹の裾を持ち上げて言った。
「ニクス。それが、私の名」
「名前だけ?」
「少なくとも、その答えは本当です」
ニクスは、少し首を傾けて言う。
「では、私の番ですね」
彼方は詰まり、それからうなずいた。
(彼女は、やり返しもするのか)
ニクスは睫毛を伏せ、少し寂しげな表情で言った。
「私はここに、ずっと、ずっと長くいる。自分でも、時間とは何かを忘れるほどに。ここは美しいのに、私はしばしば、静かすぎると思う。この感覚が何なのか、教えてくれませんか」
(つまり、寂しいのだろう)
(まさか、夢のなかでも、自分の出番があるのか)
――神谷・人生指南・彼方は、思わずにはいられなかった。
(この夢は、自分の好みに合いすぎている)
童話のようにロマンチックなアイリスの丘で、静かで緩やかな空気のなか、目の保養になる優雅な女性と、自分の好きなことをする――心に言葉を注ぐ。
(なんと、泡立つほどに良い夢か)
世界中のすべての本を持つことが、すでに実現した究極の夢なら。
心に言葉を注ぎ、失意の者を低谷から引き上げるのは、彼を中毒にさせる日常の楽しみだ。
もとより愁いの顔、あるいは曇った目の者が、夢と希望を再び得たように、生き生きと歩き出すのを見ると。
彼方の心も温かくなり、力に満ち、比類ない自己満足を得る。
この世に、理由のない善良などない。
多くの場合、彼方が見返りを求めず人を助けるのは、すでに相手の反応から自分の喜びを得ているからだ。
簡単に言えば、人を助けることは、彼方にとって喜びなのだ。
だが残念ながら、店の商いは閑散としていて、今のところ、何度も戻ってくる常連は少ない。生活の楽しみが、それだけ減る。
だから、夢のなかで助けを求められるのは、彼方のなかの、行き場のない「言葉」を、直接ひっくり返すようなものだ。
彼方は、夢のなかなら、遠慮は要らないと思い、手を伸ばした。
「座って、話しませんか」
握手。刀耕火種の時代から伝わる、最も原始的な友好の礼。最も信頼を得やすい方法だろう。
ニクスは困惑した表情で、彼方の手を見た。ためらい、自分の手を上げ、そっと彼方の掌に置く。
(冷たくて、柔らかい)
それが、彼方が一瞬で得た感触だ。
彼は相手の手を引き、軽く握り、二人で、彼女がさきほど横たわっていた花圃に座った。
彼方はあぐらをかき、まずこの「夢の人」の設定を理解しようと決める。誂えた言葉こそ、対症の薬だ。
訊く。
「あなたは、ずっと一人で、この夢のなかに」
ニクスは横を向いて彼を見る。長い髪が、頬から滑り落ちる。
「誰も入ってきたことがないし、誰も入れない。あなたが、最初」
(いわゆる「塔に閉じ込められた娘」の設定か)
長く、孤独に、美しい花圃に住み、ある条件ゆえに、決して人と触れ合わない。永遠の長眠が、彼女の生活。
(実に童話らしい)
この類型は、最も排解しやすい、と彼方は思う。
賑やかな場所でも孤独を感じる類型とは違う。これは純粋に……何と言うか、退屈、あるいは無趣味に近い。
簡単な趣味を育てればいい。もちろん最も有効な道は、ここを離れ、友を作り、話し、生活を充実させることだが……
だが目の前のこれは、自分の夢の虚影にすぎない。彼方は、ふと、少し切なくなる。
「その感覚を生んだのは、孤独と寂寞です」
彼は柔らかく言った。
「ずっと一人で、理解されないから、孤独。同じことを繰り返し、何も変わらず、時間の概念も失われ、新鮮さもなく、思考だけが残るから、寂寞。考えれば考えるほど、苦しい。多くの人が、そうです」
たとえば、あの哲学者たち。詩人たち。天才たち。深く、遠く考えすぎて、理解できず、割り切れず、最後に自ら命を絶つ。
だから時に、「馬鹿は幸せ」という言葉は、当たっている。
ニクスは思案する。
「思想……苦痛の根源。そして、彼らは私を理解できず、ゆえに私を畏れ、私から離れる」
彼方も思案する。どうやら彼女の設定には、「哲学者」の項目もあるらしい。
聞くところでは、常に思索するあまり、常人には奇異に見え、最後には群れを離れて隠れた、そういう経緯だろう。
彼は、ふと決心した。
(夢の人でも、構わない)
友に、満たさねばならぬ条件など、そもそもない。
自分だけが知る友、それもまた、一つのロマンではないか。
だが、何であれ、目の前のこの寂しい女性を癒すのは、この「元凶」である自分の役目だろう。
彼方は真摯にニクスを見て言った。
「私は、あなたを理解できる気がします」
ニクスは淡く微笑む。
「知っています。あなたがこの夢に現れた時点で、あなたは私を理解した。あなたと私は、同じ高さにいる……あるいは、あなたの思想は、もっと高い」
(これが哲学者の褒め方か)
(なんと、遠回しで……心地よい)
お世辞の疑いはある。少し居心地が悪い。
だが彼は咳払いをし、それでも言った。
「そうなると、私はあなたに認められた、ということですね。では、一つお願いが。いや、これが私の最も切なる望みです。どうか、聞き届けてほしい」
長く「塞ぎ込んだ」相手には、主導権を渡さぬほうがいい。思考の惰性で、無意識に断るからだ。
断りにくいように言う。
ニクスは、少し不思議そうに彼方を見る。
彼方は、このうえなく柔らかな笑みを浮かべた。
「私の、友になってくれませんか」
「友……?」
彼方はうなずく。
「ええ。友です」
「あなたが寂しいのは、つまるところ、退屈だからです。ここは美しいけれど、単調すぎると思いませんか。同じ景色にばかり向き合えば、いずれ飽きます」
彼は続けて笑う。
「友を作ってみませんか。話をして、日々の些事を分かち合う。一人より、ずっと楽しいですよ」
――分かち合う、と言えば。
思い出すのは、勧め。
勧め、と言えば。
思い出すのは、本。
彼は、はっとした。夢のなかだから、さきほどは心理の導きだけを考えていた。店ではないし、手元に本もない。
だが、ここで逆に考えてみる。
(夢のなかなら、普段できないこともできるはずだ)
――たとえば、本を一つ、無から生み出す。
記憶を頼りにすれば、一冊くらい完全に再現できる。
「ぱん」
彼方の膝が重くなる。見下ろすと、案の定、一冊の上製本『森のむかし話』があった。
彼はこの本に、これ以上ないほど詳しい。幼い頃の漢字の手ほどきは、翻訳版の『森のむかし話』だった。「塔に閉じ込められた娘」の話も、ここから出ている。
「この本……友への、手土産に」
彼方は本を差し出した。
ニクスは受け取り、そっと表紙を撫でて言った。
「久しく、誰かから贈り物をもらっていない。話し相手も、いない。私は何も持っていない。だが、ここにはこの樹と、樹の実、この花と、花の蜜がある。よければ、そのうち一つを持っていって。私の、返礼に」




