7-9 黄昏の待機時間(ロックアウト):執念の総当たりと、沈まぬ希望
雪崩の爪痕が残る峻険な斜面を、五人の影が風を切って進む。
先頭を走るルシの腕には、雪中から奇跡的に回収されたネロの起動マニュアルが、宝具のごとく固く抱えられていた。
皮肉にも、それは紛れもない正解そのもの。
神話時代の魔導師たちが、いつか来るであろう破滅を回避するために後世へ託した、唯一の救済術式がそこに記されている。
「……急ごう。 あの男の『無知ゆえの強運』を、甘く見るわけにはいかない」
俺の琥珀色の瞳が、夕闇に沈みゆく山頂を鋭く射抜く。
「あの不出来な兄弟子は、古代魔法を軽蔑しているくせに、土壇場での悪運だけは人一倍強い。
万が一にも、適当に叩いた文字列が『正解』に合致してしまう事態を想定しておくべきだ」
「……それは、一番考えたくない最悪のシナリオね」
リーフが同意し、雪を蹴る速度を上げる。
彼女の紺碧色の髪が、薄暗い残光の中で冷たい燐光を放ち、情報の海に生きる聖霊のような神々しさを漂わせていた。
「ネロの魂が、シグルドの歪んだ欲望にこれ以上曝されるのは耐えられないわ。
あの子が目覚める時は、せめて……『温かな声』で呼んであげたいの」
「全くですわ。
あんな奴に世界を滅ぼすスイッチを弄らせておくなんて、国家規模の大惨事ですわ。
早急に全権を剥奪してやらなきゃいけませんわ」
アイリスも剣の柄を握り直し、鋭く毒づいた。
背後を進むメギストス師父とバナード師匠は、何も語らない。
だが、師父の眉間には深い思索の皺が刻まれ、師匠の指先はいつでも獲物を屠れるよう、無造作ながらも最適化された予備動作を繰り返していた。
二人の老賢者は、これが単なる同門の決着ではなく、世界の理を書き換える特異点であることを肌で感じ取っていた。
◆
同時刻、山頂の古代遺跡。
シグルド=アイズベルクは、もはや理性の境界線を越えた形相で、水晶の棺の傍らに浮かぶ平べったい魔導板を、血の滲む指で叩き続けていた。
「――クソッ! まただ、またこの忌々しい警告灯かッ!」
パネルには、古代魔法文字で冷徹なメッセージが表示されていた。
『認証エラー。 規定回数を超過しました。
セキュリティ保護のため、三千六百秒の入力待機に移行します』
「三回間違えるごとに一時間も待たせるとは、どこの偏屈な魔導師が組んだ術式だ!
貴様、俺を誰だと思っている! 新世界の王となる男だぞッ!」
シグルドは偶然にも、正解の入り口に立っていた。
彼は理論を解さぬまま、当て推量で四文字の古代文字を組み合わせるという、あまりにも愚直で、あまりにも危険な総当たりを繰り返していたのだ。
マニュアルを捨てた彼は知らない。
その四文字の組み合わせが、神話時代の言語において慈愛を意味する言葉であることを。
そして、間違った試行を繰り返すほどに、内部の防衛魔導式が侵入者として彼を認識し、起動時の暴走確率を高めているという事実を。
「……構わん。 あと数パターンだ。 どれかが当たれば、この銀髪の人形は俺のものになる。
王都も、ルシも、世界樹も、すべて俺の足元に跪くのだ……!」
凍傷で感覚の失せた指を、彼は一時間後の再試行に向けて執念深く動かした。
その姿は、英雄などではなく、壊れた賭博機にしがみつく亡者のそれであった。
◆
標高を稼ぎ、ついにルシたちの視界に、古の石組みで構成された巨大な神殿遺構――ネロの眠るシグルドの潜伏先が、その威容を現した。
マニュアルを拾い上げてから、すでに数時間が経過している。
極寒の登山、そしてリーフの容態を考慮し、要所で小休止を挟みながらの強行軍であった。
空はすでに燃えるような茜色を失い、深い紫紺へと染まる黄昏――逢魔が時を迎えていた。
「……見えた。 あれが、シグルドが潜伏し、王都から転送されたネロの眠る場所か」
俺は、解析眼を最大出力で展開した。
視界の先に映るのは、遺跡から天へと立ち昇る、おぞましいほどに高圧縮された負の魔力反応。
それは、シグルドが強引に流し込み続けた過剰魔力充填が、出口を求めて渦巻いている証拠だった。
「まだ、起動は完了していないと思う……。
起動していたにしては、不自然なほど静かすぎるわ。
……間に合ったのかな?」
リーフの、安堵と不安が入り混じった声が漏れる。
確かに、大陸を焦土に変える兵装が目覚めたにしては、山頂は死の静寂に包まれていた。
だが、その静寂こそが臨界点が近いことを示唆している。
「行こう。 ……これが、最終決戦だ」
俺の声に応じ、五人の英雄たちは雪を蹴り、光を失いゆく戦場へと突入した。
背後で沈む太陽は、これから始まる激闘を予感させるように、一際赤く、最後の輝きを雪原に投じていた。
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