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3-0 序章:静寂の理(ことわり)

 銀鱗の港町エリュシオンを包む空気は、一夜にして変質していた。


 それは、ルシが施した術式の再構築による副産物だ。


 かつては王都の『核』から漏れ出す雑多なノイズと、荒野から流れ込む不安定な魔素マナが混ざり合い、慢性的な魔導汚染に晒されていたこの街。


 だが今、その霊的環境は、磨き上げられた鏡面のような均衡を保っている。


 街の住人たちは、その劇的な変化の正体を知る由もない。


「なんだか、今朝は目覚めがいいんだ。 腰の痛みも消えちまってよ」


「不思議ね。

 うちの魔導コンロ、いつもは機嫌が悪かったのに、今日は火力がピタリと安定しているわ」


 人々は口々に、ささやかな幸福を語り合う。


 彼らにとって、それは「たまたま天気が良い」程度の幸運に過ぎなかった。


 だが、その背後では、ルシが張り巡らせた不可視の術式が、一秒間に数億回もの頻度で空間の歪みを修正し、不純な魔力をろ過し続けているのだ。


 塵一つない清浄な理――それは、神域に等しい精度で管理された完璧な静寂だった。


 ◆


 潮風が吹き抜ける港の畔。


 二つの老いた影が、釣り糸を垂らしながら並んでいた。


 一人は、使い込まれた魔導杖を傍らに置いた銀髪の老魔導師、メギストス。


 もう一人は、丸太のような腕を持つ剛拳の使い手、バナードだ。


 バナードが、ふと自分の掌を見つめ、力強く握りしめた。


「……おい、メギストス。

 今朝は妙に、拳の通りが良い。

 大気の抵抗が、まるで計算されているかのように滑らかじゃ」


「……ああ。 お主も感じておったか」


 メギストスの返答は重い。


 彼は釣竿を握る手を緩め、虚空を見つめた。


 彼の澄んだ瞳には、常人には見えぬ『理の糸』が映っている。


「完璧に、秩序が保たれておる。

 ……いや、保たれすぎておると言うべきか。

 この街の魔力濃度は、本来であればもっと雑多で、予測不能な揺らぎがあるはずなのじゃ。

 それが今、どうだ。

 まるで『誰か』が、大気そのものを一つの巨大な術式へと書き換えてしまったかのようではないか」


 バナードが鼻を鳴らし、水平線の彼方を指さした。


 そこには、数日前にルシが仕留めた巨大魔獣テンタクルスの、精緻な氷像が未だに溶けずに鎮座している。


「港の連中が噂しておったぞ。

 例の断崖にあるログハウス……お主の後釜に入居した『若い魔導師』が、一瞬でアレを氷漬けにしたとな」


「……何者じゃ。

 この荒れ果てた街の術式を、誰にも気づかれぬ速度で、しかも神域の精度で最適化してみせる化け物は。

 挙句、深海の魔獣を苦もなくオブジェに変えてみせるなど……」


 メギストスの声に、隠しきれない戦慄が混じる。


「わしの知る限り、そのような芸当が可能な人物は、この大陸でも片手に満たんがの」


 バナードの言葉に、メギストスは自嘲気味に目を細めた。


「……ルシか。 あの子が王都へ行って五年。 ……一体、あそこで何があったのじゃ」


「案じていても始まらぬ。 そのログハウスとやらに、直接挨拶に行ってみるか?」


「そうじゃな。 顔を見れば、この『術式』の正体もわかるじゃろう」


 二人の老兵は腰を上げ、潮騒を背に断崖のログハウスへと向かった。


 だが、そこにあったのは、主の気配を完全に遮断し、静まり返った無人の家屋だけであった。


 ◆


 同じ頃、港町の中心部に位置する酒場『潮風亭』。


 俺はカウンターの隅で、空中に展開した不可視の探知術式レーダーのログを静かに追っていた。


 隣に立つリーフが、湯気を立てる海鮮リゾットを差し出しながら、耳元で囁く。


「何か進展でもあった? 貴方の眉間に、演算エラーの時みたいなシワが寄っているわよ」


「……進展というか、懐かしいノイズを拾った。 西の港の方角、二つの反応だ」


 俺は蜂蜜酒ミードを一口含み、視線を窓の外へと向けた。


「一つは、練り上げられた芸術的な魔力構成。

 もう一つは、空間を歪めるほどの圧倒的な物理オーラ。

 ……古風だが、極めて堅牢な出力だ」


 リーフはリゾットの皿を整え、クスクスと喉を鳴らした。


「完璧に最適化されたコードを持つ貴方とは、真逆のスタイルね。

 ……師匠さまたちかしら?」


「そうだな。 想定より数時間早いが、俺の掃除が丁寧すぎたせいだろう。

 ……だが、もう少し様子を見よう。 今、別の不穏なログを拾ったんだ」


 ルシの瞳に、赤い警告色のデータが反射する。


「王都から派遣された一個師団……魔物や魔獣が巣食う死の荒野に突っ込んだ連中の通信ログだ。

 全滅したと思われていたが、数十名、生命反応が残っている。

 その生き残りが、偶然この港町に辿り着いた可能性も捨てきれない。

 ……『特務部隊』の連中だ」


 俺はグラスを置き、静かに立ち上がった。


「慎重に進めるべきだろうね。

 ……師父たちとの再会は、この外敵をどう処理するか決めてからでも遅くはない」


 静かな酒場の奥。


 最強の師匠たちと、それを遥かに凌駕する階梯へ至った弟子の、見えない追いかけっこが始まろうとしていた。

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