2-7 限界:飽和する器と、神域の記述
岩壁を穿った隠れ家という閉鎖空間に留まるのも、もはや物理的な限界が近づいていた。
俺の肉体に宿る魔力は、十歳の器が保持できる許容量を遥かに超え、常に周囲の空間を歪ませるほどの高密度な波動を放ち始めていた。
師父メギストスが心血を注いで展開していた隠蔽の防御壁ですら、内側から膨れ上がる俺の異質な魔力を遮断しきれず、至る所に亀裂が走り始めていたのだ。
「……師父、その壁はもう持ちません。
これからは、俺が自分で展開します」
俺はそう告げると、意識の深層にある演算リソースを整理し始めた。
世界樹と直結した俺の脳内には、常人には知覚すら不可能な広大な処理領域がある。
全事象を記述として捉える視界によれば、俺は最大で約千八百四十四京もの独立した術式を、干渉させることなく同時に並列展開できる計算だった。
俺はその膨大な余白のうち、わずか六万五千五百三十五ほどの領域を常時稼働の防御壁に割り当てた。
隠れ家全体を包み込む多層構造の結界。
それは物理、魔法、精神干渉のすべてを遮断し、さらには存在そのものを世界の認識から消去する、神の隠れ蓑にも等しい代物だった。
目の前で瞬時に再構築された完璧な結界を見て、メギストスは呆然と立ち尽くした。
「……まさか、これほどまでの規模を、眉一つ動かさずに維持できるとは。
シグルドですら、三つの術式を同時に維持するのが精一杯だというのに。
ルシ……主は既に、人間の領域を遥か後方に置き去りにしてしまったようじゃな」
「まだ、余力は十分にあります。
この防御壁は俺の意識の外で自動巡回させますから、修行に支障はありません」
「末恐ろしいの。
だが、儂もそろそろ、主の力を世の目から隠し通すことに限界を感じておった。
……主が自力で己を防御できるのなら、儂はもう安心して隠居できるというものよ」
師父の言葉に、俺は少しの寂しさと共に首を振った。
「そんな。
未だ『竜言語魔法』や、天界の住人が用いるという『天使魔法』の深淵を習得していません。
俺の知識はまだ欠落だらけです」
「欲深いの。
……よい、その二つの魔導書なら、儂のコレクションの最奥に眠っておる。
翻訳を儂の人生の集大成にしようと思っていたが……主のような才ある若者に渡した方が、理にとっては有益かもしれんな」
師父が震える手で差し出してきたのは、二冊の異質な書物だった。
一冊は、不滅の竜の皮で装丁され、触れるだけで指先が焼け付くような熱を帯びた、原初の力(竜言語魔法)の書。
もう一冊は、純白の羽があしらわれ、この世のものとは思えない神聖な冷気を放つ、聖なる記述(天使魔法)の書。
その表紙に指が触れた瞬間――。
――ッ!
脳を巨大な杭で打ち抜かれたような、激しい衝撃が走った。
五歳のあの日のように、理解不能な不協和音が視界を真っ白に塗り潰す。
竜が咆哮し、天使が讃美歌を歌う。
それらが高度に暗号化された魔術式として、強引に俺の意識へと読み込まれていく。
「ぐ、あ、あ……あぁぁぁ……ッ!!」
三日三晩。
俺は隠れ家の床を転げ回り、己の脳を焼き切ろうとする二種類の異界の理と格闘した。
竜の荒ぶる破壊衝動と、天使の冷徹な秩序。
矛盾する二つのベクトルを、俺は己の演算能力のすべてを注ぎ込んで解体し、一つひとつの意味を再定義していった。
四日目の朝、俺は静かに目を開けた。
二冊の魔導書は、もはやただの読み終えた紙束となっていた。
すべての記述は、俺の脳内に統合され、完全に制御下に入った。
◆
それからの日々は、魔導の虫となった。
もはや言語を介する必要すらなくなった竜言語による空間破壊、天使の術式による因果への干渉。
これ以上の高望みは、もはや神そのものへの書き換えを意味する領域だ。
師父メギストスは、静かに頷いた。
「……ルシ、もう儂が教えることは何一つない。
主こそが、ファーレンの姓を継ぐに相応しい。
今日をもって免許皆伝とする」
魔導に関しては、一つの終着点に辿り着いた。
だが、俺にはまだ、もう一つの大きな課題が残っていた。
肉体の基礎体術だ。
世界の理が見える眼があれば、いかなる武術の型も完璧に模倣することはできる。
だが、どれほど完璧な軌道が見えていても、それを実行する十歳の肉体の筋力、柔軟性、耐久力が追いつかなければ、出力の瞬間に器が壊れてしまう。
「理は見えておるが、肉体がそれを拒絶しておるな。
ルシ、主の頭脳は神の域にあるが、肉体はまだ、成長を止めた子供のままじゃ。
……ここからは、泥臭い積み上げが必要になるぞ」
師父の友人である、武術家の言葉を受け、俺の新しい特訓が始まった。
早朝から深夜まで、重力を数倍に増幅した結界の中で、ただひたすらに基礎体力を練り上げる。
魔力による強化に頼らず、純粋な身体能力を極限まで引き上げる作業。
世界を書き換える最強の記述師でありながら、一振りの剣、一撃の拳に命を懸ける武人の肉体。
その矛盾した二つを統合すること。
それが、ルシ=ファーレンという存在を完全へと導くための、最後の欠落だった。
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