悪魔がスイスの村を買おうとした話
スイスの小さな村では、ときどき信じられないような出来事が起こります。
ある日、悪魔が村を丸ごと買おうとやって来ました。しかし、村人たちは悪魔が想像していたほど簡単な相手ではありませんでした。
ユーモアと少しの魔法に満ちた「小さなスイス」の最初の物語をお楽しみください。
スイスの山あいの、ずいぶん高いところに、小さな村があった。
あまりに小さいので、朝の太陽が村じゅうを見回すのに、一分もかからなかった。
まず、教会の尖塔。
それから、屋根。
次に、一本きりの通り。
そして、夜のあいだにとくに大きな出来事がなかったことを確かめると、太陽はとなりの谷へ移っていった。
村には四十三人が暮らしていた。
ほかに、牛が七十二頭。
それから、ルートヴィヒという郵便配達人が一人いた。
なぜルートヴィヒだけ人間とは別に数えられていたのかは、誰にもよくわからなかった。
たぶん、彼が村に来るのは火曜日だけで、それ以外の日は山の向こうのどこかに存在していたからだ。
そのため村人にとって彼は、住民というより、定期的に起こる出来事に近かった。
それから、グスタフもいた。
グスタフは鳩だった。
グスタフを数える者は、誰もいなかった。
グスタフ自身は、それを行政上の手落ちだと考えていた。
ある日の夕方。
夕食にはまだ少し早い時刻に、悪魔が山を登ってきた。
煙は出なかった。
雷も鳴らなかった。
地面も割れなかった。
悪魔はただ、仕立てのよい黒いコートを着て、ぴかぴかに磨いた靴を履き、金の時計を身につけ、これまで一度も「世の中には売り物でないものもある」と教えられたことのない人間のような顔で、村へ入ってきた。
噴水の前で足を止めた。
ちょうどグスタフが水を飲んでいた。
グスタフは石の縁へ飛び乗ると、見慣れない男をじっくり眺めた。
高そうな男だった。
グスタフは高そうな人間が好きだった。
落とすパンくずの質がいい。
悪魔は革の鞄を地面に置いた。
「この村を買いに来た」
何も起こらなかった。
悪魔は待った。
一軒の家で、カーテンが動いた。
その隣でも動いた。
パン屋の上の窓が開いた。
広場の向こうで、扉が一つ、ぎい、と鳴った。
やがて村長のハンスが出てきた。
ハンスは大柄で、四角い体つきの男だった。
たいていの出来事は、急いだからといってよくなるものではない、と固く信じていた。
その信念に忠実な足どりで広場を渡り、悪魔の前まで来ると、聞いた。
「何のために?」
悪魔は笑った。
商売用の笑顔だった。
「村をよくしようと思ってね」
ハンスはあたりを見回した。
教会。
噴水。
道をのんびり横切っている三頭の牛。
「どこを?」
「村だ」
ハンスは少し考えた。
「もう村だが」
「そういう意味じゃない。本当に立派にするんだ。高級ホテル。カジノ。新しいリフト。店。レストラン。世界中から客が来る」
ハンスは聞いていた。
「みんな金持ちになれる」
悪魔はそう付け加えた。
たいていの場合、この一言で話はまとまる。
ハンスは顎をかいた。
「牛は?」
悪魔は牛を見た。
「どかしてもらう」
噴水のそばの窓が勢いよく開いた。
マルタが顔を出した。
八十二歳だったが、本人は年齢というものを、医者と国境係員にだけ知らせれば十分な個人情報だと考えていた。
「だったら、あんたが出ていきな」
悪魔は見上げた。
「何だって?」
「牛なしじゃ話にならないよ」
「なぜ?」
マルタは心から不思議そうな顔をした。
「牛のいない村なんて、なんだか怪しいだろう」
悪魔は一度、目を閉じた。
それから開いた。
「わかった。何頭か残そう」
「何頭?」
「必要なだけ」
「何に必要なんだい」
「雰囲気に」
そのとき、脇道から羊飼いのヨーゼフが出てきた。
痩せて、日に焼けた男だった。
山羊が一頭、あとについてきていた。
その山羊は、交渉の行方に専門的な関心を持っているような顔をしていた。
「何の雰囲気だ?」とヨーゼフが聞いた。
「アルプスらしい雰囲気だ」
「牛は何をする?」
「立っている。景色になる」
ヨーゼフは悪魔を見た。
「牛は乳を出す」
「そうだな」
「乳を出さないなら、飾りじゃない」
「違うのか?」
「ものすごく大きい都会の犬だ」
沈黙が落ちた。
グスタフが噴水から飛び、悪魔の革鞄の上に降りた。
悪魔が手で追い払った。
グスタフはすぐ横に降りた。
グスタフの考えでは、これで二人は正式に紹介されたことになった。
悪魔は鞄を開けた。
中に袋が入っていた。
袋の中には金貨が入っていた。
本物の金だった。
悪魔は噴水のそばのテーブルに金貨をざらざらとあけた。
金貨が木の天板に当たった。
昔なら、その音で戦争が終わり、結婚が始まり、まっとうな家族がいくつも破産した。
その音を聞いて、家々から村人が出てきた。
鍛冶屋が一枚つまみ上げた。
噛んだ。
「本物だ」
「当然だ」と悪魔は言った。
マルタも一枚取った。
手のひらにのせて、重さを確かめた。
「これをどうするんだい?」
悪魔は彼女を見た。
「使う」
「何に?」
「好きなものに」
マルタはもう一度、金貨を見た。
「これじゃチーズは作れないね」
悪魔は王と交渉したことがあった。
銀行家とも。
契約書さえわかりやすければ、自分の祖母まで売りかねない男たちとも。
だが、交渉のこんな早い段階でチーズを持ち出されたのは初めてだった。
そこで悪魔は条件をよくした。
「一家に一軒、海辺の家を」
ハンスが首を振った。
「暑い」
「全員に自動車を」
「どこに置く?」
「各家庭に召使いを一人」
マルタが眉をひそめた。
「知らない人がうちの台所を歩き回るのかい?」
「永遠の若さ」
そのとき、空気が変わった。
広場が静かになった。
ヨーゼフの山羊まで、一瞬、噛むのをやめた。
年寄りのペーターが前へ出た。
九十四歳だった。
この二十年、毎朝「今日はもう間違いなく死ぬ」と宣言していた。
ただし朝食を食べると、たいてい考え直した。
「永遠の若さだって?」
「そうだ」
「腰は?」
「新品同様」
「膝は?」
「完璧だ」
「耳は?」
「よく聞こえる」
ペーターはゆっくりうなずいた。
それから、妻を指した。
「こいつは?」
ペーターの妻は腕を組んで立っていた。
悪魔は少し間を置いた。
「何がだ?」
「性格もよくなるのか?」
悪魔はペーターの妻を見た。
ペーターの妻も悪魔を見た。
悪魔にはできることがたくさんあった。
しかし、本当のことを言うほうが安全そうな場面で、わざわざ嘘をつく趣味はなかった。
「いや」
ペーターはため息をついた。
「じゃあ、意味がない」
妻もうなずいた。
その日初めて、二人の意見が完全に一致した。
交渉は夜通し続いた。
悪魔は金を出した。
不動産。
若さ。
影響力。
快適さ。
村人たちが名前すら知らないものもあった。
名前はよく知っているが、別に欲しくないものもいくつかあった。
大きな提案をするたびに、小さくて致命的な問題が見つかった。
夜明け近くになって、とうとう悪魔は両手でテーブルを叩いた。
「じゃあ、いったい何が欲しいんだ?」
村人たちは少し離れたところに集まり、輪になった。
ひそひそ話した。
言い合った。
ヨーゼフが斜面の下のほうを指した。
マルタが学校を指した。
ハンスは黙って聞いていた。
ペーターも何か提案したらしかったが、ほかの全員がすぐに却下した。
やがてハンスが悪魔のほうを向いた。
「橋だ」
悪魔は瞬きをした。
「何?」
「橋」
「一晩中、私と交渉していたのは橋のためか?」
「古い橋は毎年、春になると流される」
悪魔はハンスを見た。
マルタが指を一本上げた。
「学校の屋根も雨漏りしてる」
「わかった。橋と屋根だ」
「それと、ベルタの鈴」とヨーゼフが言った。
悪魔は振り向いた。
「ベルタって誰だ?」
すぐ後ろに、茶色と白の牛が立っていた。
草を噛んでいた。
「これ」とマルタが言った。
ベルタが悪魔を見た。
悪魔もベルタを見た。
ベルタの古い鈴が、情けない音で、かろん、と鳴った。
「音が悪い」とヨーゼフが言った。
「牛の鈴だろう」
「悪い牛の鈴だ」
悪魔は息を吸った。
吐いた。
「新しい橋。学校の屋根の修理。それから、スイス一の牛の鈴。全部用意しよう」
マルタがうなずいた。
「それならいい」
「その代わり、村は私のものだ」
「いや」とハンスが言った。
悪魔が止まった。
「いや?」
「一年、ここに住めばいい」
悪魔は笑った。
ハンスは笑わなかった。
「一年だ。それから、もう一度聞けばいい」
悪魔は家々を見た。
牛を見た。
村人たちを見た。
どういうわけか、また革鞄の上に戻っていたグスタフも見た。
そして笑った。
「一年だな」
十二か月あれば十分すぎる、と悪魔は思っていた。
そのころには村だけでなく、家も、牛も、ひょっとすると村人が履いている靴下まで売ってもらえるだろう。
悪魔には、墓地のそばの空き家があてがわれた。
村でいちばん眺めがよかった。
隣人もいちばん静かだった。
最初の朝。
ハンスが戸を叩いた。
「柵が倒れた」
「どの柵だ?」
「おまえの」
悪魔は外へ出た。
二日目の朝。
ヨーゼフが来た。
「山羊がいない」
「なぜ、それが私の問題なんだ?」
ヨーゼフは考えた。
「ここにいるから」
三日目の朝。
ペーターが戸を叩いた。
「水曜日だ」
悪魔は待った。
ペーターも待った。
「水曜日がどうした?」
「箪笥だ」
「何の箪笥だ?」
ペーターは驚いた顔をした。
「わしのだ」
毎週水曜日、ペーターは同じ大きな箪笥を別の壁へ動かすのだという。
なぜかは誰も知らなかった。
いちばん知らなかったのは、ペーター本人だった。
最初のうち、悪魔はいちいち理由を聞いた。
一か月後には、聞かなくなった。
柵の直し方を覚えた。
山羊というものは、ほとんど真後ろに立っていても行方不明になれるのだと知った。
牛にはそれぞれ性格があることにも気づいた。
ただし、その話を人にされると、毎回否定した。
蹴られずに乳を搾る方法も覚えた。
谷で作るチーズと、観光客向けに作るチーズを見分けられるようになった。
店は自分がどう思おうと六時に閉まる、という事実も受け入れた。
マルタとは、コーヒーの前に議論しても無駄だということも学んだ。
そして毎朝、グスタフがやってきた。
初めは追い払った。
その次は、手近なものを投げた。
やがて、窓辺にパンの耳を置くようになった。
グスタフは当然、それを親密な友情が着実に進展している証拠だと解釈した。
三か月後。
旅人が一人、噴水のそばに車を停めた。
悪魔はすぐ外へ出た。
「そこに停めるな」
旅人が周囲を見回した。
「どうして?」
「人が通る」
「こんなに広いじゃないか」
「あなたが来る前は、もっと広かった」
悪魔は車の番号を書き留めた。
広場の反対側から、ハンスがそれを見ていた。
何も言わなかった。
半年後。
悪魔はパン屋の前で腹を立てていた。
「また、うちの通りを掘り返した」
マルタが聞いた。
何も言わなかった。
ヨーゼフも聞いた。
やはり何も言わなかった。
グスタフだけが胸をふくらませた。
うちの通り。
そういうことだった。
やがて冬が来た。
雪が山を覆った。
次に屋根。
次に道。
最後には、外の世界につながっていたものを、ほとんど全部覆った。
何日か、村には誰も来なかった。
誰も出ていかなかった。
夕方になると、村じゅうの人が宿屋に集まった。
ストーブでは薪が燃えていた。
濡れた手袋が戸口のそばで乾かされていた。
テーブルにはパンとチーズが並んでいた。
誰かが温かいワインを持ってきた。
誰かがアコーディオンを弾いていた。
ひどい演奏だったが、本人はたいへん熱心だった。
子どもたちはテーブルの下にもぐり、そこから聞くほうが音楽はいい、と言い張っていた。
ベルタは宿屋の裏の小屋にいた。
ときどき、古い鈴が、いつもの情けない音で、かろん、と鳴った。
悪魔は少し離れたところに座っていた。
マルタが気づいた。
もちろん気づいた。
隣に腰を下ろした。
「どうしたんだい」
「何でもない」
「何かなくした人みたいな顔をしてるよ」
「この村がわからない」
「それなら、あたしも同じだ」
「寒い」
「そうだね」
「道は閉ざされている」
「そうだね」
「店は六時に閉まる」
「今でもね」
「電波もほとんど入らない」
マルタはうなずいた。
「それに、することが何もない」
「水曜日は箪笥だよ」
悪魔は彼女を見た。
マルタはワインを一口飲んだ。
顔はまったく真面目だった。
しばらくして、悪魔が聞いた。
「どうして、みんな幸せなんだ?」
マルタは窓の外を見た。
雪が降っていた。
向こうには教会がある。
家々がある。
噴水がある。
道がある。
牛がいる。
今は何一つ見えなかった。
だが、全部そこにあった。
「明日になっても」とマルタは言った。
「たいていのものは、まだここにあるからさ」
「何が?」
「山」
マルタはワインを飲んだ。
「家」
少し間を置いた。
「人」
それから悪魔を見た。
「あんたも、たぶんね。今夜は誰もあの道を除雪しないから」
悪魔は笑った。
自分でも驚いた。
春になると、悪魔は橋を造った。
もちろん、自分の手で造ったわけではない。
許可のことで文句を言い、業者と言い争い、請求書を一枚ずつ二度確認した。
だが、橋はできた。
学校の屋根も直した。
ベルタのためには、峠を二つ越えた先の谷にいる職人に、新しい鈴を注文した。
その職人は、金属が冷える前から音の狂いがわかる、と言っていた。
ヨーゼフは十二個試して、ようやく一つを認めた。
鈴は深く、澄んだ音がした。
値段は、たいへん品のない高さだった。
悪魔は値切らずに払った。
悪魔が村へ来てから、ちょうど一年。
村人たちは再び広場に集まった。
悪魔は、あの日と同じ黒いコートを着ていた。
ただし、もう完璧に高そうには見えなかった。
片方の袖に、薄い染みがついていた。
ハンスは漆喰だと言った。
ヨーゼフは山羊の乳だと言い張った。
悪魔は、その件について話すことを拒否した。
ハンスが噴水のそばに立った。
「それで?」
悪魔が見た。
「何が?」
「村を買うのか?」
悪魔はすぐには答えなかった。
学校の屋根を見た。
教会を見た。
下のほうに見える新しい橋を見た。
家々を見た。
パン屋。
宿屋。
夏じゅう文句を言っていた通り。
そのときベルタが後ろから近づき、悪魔のコートの裾を口にくわえた。
悪魔は布をそっと引き抜いた。
「そこはだめだ」
ベルタはまだ噛もうとしていた。
悪魔は袖を整えた。
それから革鞄を閉じた。
「買わない」
ハンスがうなずいた。
「小さすぎるか?」
「高すぎる」
ハンスが眉を寄せた。
「値段は言ってないぞ」
悪魔はハンスを見た。
「だからだ」
革鞄を持った。
向きを変えた。
もう少しで、そのまま歩き出すところだった。
ペーターが前に立った。
「どこへ行く?」
「家に帰る」
ペーターは、少し腹を立てたような顔をした。
「ここが家だろう」
悪魔は口を開いた。
閉じた。
ペーターが自分の家のほうを指した。
「それに今日は水曜日だ」
悪魔は空を見上げた。
たいへん長い人生の中で、ひょっとすると初めて、上から助けが来ることを期待した。
来なかった。
悪魔はコートを脱ぎ、噴水の縁に置いた。
「どの壁だ?」
ペーターが笑った。
そうして、悪魔は村に残った。
今でもそこに住んでいる、と言われている。
村の帳簿をつけている。
毎朝、天気に文句を言う。
観光客を疑いの目で見張る。
そして、牛にチョコレートを食べさせることを厳しく禁じている。
悪魔は結局、一度だけ村を買った。
本物の村ではない。
土産物屋にあった、小さな木の村だった。
小さな家。
小さな教会。
小さな噴水。
そして、信じられないほど小さい牛が七十二頭。
店主が値段を言った。
悪魔は一言も文句を言わず、払った。
その日の少し後。
最初の夜から残っていた古い金貨が一枚、噴水のそばのベンチの下から、ころころと転がり出てきた。
見つけたのはグスタフだった。
丸かった。
光っていた。
そして、グスタフにわかるかぎりでは、どう考えても自分のためにそこへ置かれたものだった。
グスタフは金貨をくちばしにくわえ、飛び去った。
誰も気づかなかった。
小さなスイスでは、たくさんの物語が、だいたいこんなふうに始まるのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
お金で買えるものはたくさんあります。でも、本当に大切なものには値段をつけられないのかもしれません。
「小さなスイス」には、笑いと温かさ、そして人生の小さな知恵を描いた24の物語があります。次のお話もぜひお楽しみに。
著者:オレグ・ベールイ




