第二十八話 横に逃げた
二月に入って最初の火曜日、取引画面に未読のメッセージがあることに気づいた。
学校から帰って作業場のストーブに火を入れ、なんとなくスマホを開いたときだった。差出人は槍の穂先の落札者で、落札のときの定型の一通のほかに長めのメッセージが一通増えている。届いたのは日曜日の夜だったらしい。月曜は小テストの勉強に追われて、取引画面を開いていなかった。
『先日、槍の穂先を落札した者です。以前は木の葉のイヤリングでもお世話になりました。』
一行目で手が止まった。
あの入札のIDは、やっぱりイヤリングの人だったんだ。
『穂先、本当にありがとうございました。突いたときに魔力が引っかからず、引き戻しも驚くほど軽くて、仲間と一緒にびっくりしています。苦手だった魔物にも、昨日は落ち着いて向き合えました。』
そこまで読んで、息を吐いた。魔力が引っかからない。引き戻しが軽い。工房では確かめようのなかったことが、知らない誰かの手の中でちゃんとそのとおりに働いている。
次の一文で、もう一度息が止まった。
『それから、イヤリングに続いて、今回の穂先にも神様が宿りました。今度は鯉の姿をしています。よく跳ねます。』
鯉。
画面を見たまま、しばらく何も考えられなかった。二つ目だ。アイカのブレスレットを入れれば、僕の作った物に神様が宿ったのはこれで三つ目になる。狐の根付のスイ様まで数えれば四つだ。
メッセージは、次の一行で終わっていた。
『大切に使わせていただきます。』
それにしても、鯉。
「跳ねる、と書いてありますね」
いつの間にか、スマホの横にスイ様が立っていた。烏帽子の先を画面に寄せて、よく跳ねます、の一文をじっと見ていたかと思うと、面を伏せて肩を小さく揺らす。笑っているらしい。
「…知ってたんですか?」
「誰かが気に入るかもしれない、とは言いましたよ」
スイ様は顔を上げた。
「よもや鯉が入るとは、吾も思いませんでしたが」
それ以上は何も言わずに、スイ様は作業台の端に腰を下ろして、長い袖を膝の上でたたんだ。
その晩、夕ごはんのあとで、じいちゃんにメッセージを見せた。
じいちゃんは老眼鏡をかけて、画面を最後まで読んだ。よく跳ねます、のところで眉がかすかに動いた気がした。
「二つ目だね」
「うん」
「返事は、いつもどおりにしなさい。神様のことは、分からないことは分からないと書けばいい」
じいちゃんは眼鏡を外して、湯のみを両手で包んだ。それ以上は言わなかったけれど、湯のみの縁をなぞる指がいつもより長く止まらなかった。
部屋に戻って、返事を書いた。
『ご連絡ありがとうございます。槍の穂先がお役に立てたようで安心しました。神様が宿ったとのこと、私にもどうしてそうなるのかは分かりませんが、大切に使っていただければ嬉しいです。鯉の姿なんですね。少し驚きました。SHIN』
送信して、スマホを伏せた。
天井を見ながら、四つ、と思った。
神様は、どうして来るんだろう。スイ様は細かいところまで作り込んだ器を気に入ったと言っていた。それなら次も同じように作れば、また来るんだろうか。
考えかけて、やめた。
あの穂先は神様のために作ったわけじゃない。柄を握る誰かの手の邪魔をしないように作った。次の物も、使う人が困らないように作る。神様が来るかどうかは僕が決めることじゃない。
それで十分だった。
次に作る物は、前から頭にあった。
十層から帰ってきた日、ユズの右肩には湿布が貼ってあった。袋を持ち上げた腕を下ろすときに顔をしかめて、笑ったあとで肩を押さえて「いった」と言っていたのを覚えている。
盾は攻撃を止める。でも、止めた力がどこかへ消えるわけじゃない。盾の裏にある腕と肩が、それを全部受け止めている。
盾の魔道具には昔からある術式が二つある。盾そのものを硬くする強度強化と、受けた衝撃を魔力で吸って使い手へ伝わりにくくする衝撃軽減だ。どちらもじいちゃんの教本に載っている。
ただ、魔力で吸える量には限りがある。吸いきれなかった力は、結局は盾のどこかに残る。
残った力を腕じゃないところへ逃がせないだろうか。
大盾はユズの体ごと受け止める物だから、作るならもっと小さい物がいい。拳で握って、受け止めるより受け流すための、丸い小さな盾。
バックラーだ。
本体には、岩甲虫の甲殻を使うことにした。
七層の魔物で、丸まって転がる大きな甲虫だ。背中の殻は何層にも重なっていて硬く、もともとゆるやかな丸みを持っている。その丸みが受け流すための盾の形にそのまま使えそうだった。
じいちゃんに頼んで、問屋のおじさんに持ってきてもらった。甲殻は三枚あって、どれも人の背中くらいの大きさがあり、盾一枚ぶんなら十分に切り出せる。帳面の「シンジ」の頁に甲殻の行が一つ増えた。
選んだのは、真ん中の盛り上がりがいちばんなだらかな一枚だった。
甲殻は、思っていたよりずっと癖のある素材だった。
窓の光にかざすと、縁のほうがかすかに透ける。殻の層の重なり方が場所ごとに違うのだ。真ん中の盛り上がりは分厚くて光を通さないのに、縁へ行くほど層が減って薄くなる。ノギスで測ると、同じ一枚の中で厚みが倍近く開いているところもあった。
円く切り出す位置は、何度も紙を当てて決めた。
どこを削って、どこを残すか。削れば軽くなるけれど、層を削ればそのぶん殻は弱くなる。そもそも盾は叩かれるための物だ。樋の深さを決めたときに、じいちゃんが言っていた。欲張ると負ける。
外周を円く整えるのと裏の出っ張りを落とすのだけにして、殻の層にはなるべく触らないことにした。
ところが、円く切り出した線の上に、一か所だけ気になる場所があった。
左の縁のあたりで、層が一枚途中で途切れている。外から見ただけでは気づかず、光にかざしたときだけそこの色がわずかに明るく見える。
「其方、そこはずいぶん薄くなっていますね」
スイ様が両腕を広げて、甲殻の縁の上を綱渡りのように歩いていた。ちょうどその場所で立ち止まって、足元を見下ろしている。
言われて、もう一度光にかざした。
明るく見えるのは、そこだけ層が少ないからだ。円の線のまま削れば、縁の一か所だけ殻が薄くなる。受け流すときに力がいちばん通る、その縁にだ。
紙を当て直して、円の中心を指の幅ほど右へずらした。それで薄いところは削り落とす側に入る。盾の大きさはほとんど変わらなかった。
スイ様は何も言わずに、また縁の上を歩いていった。
切り出した甲殻を作業台に寝かせて、次は重さを見た。
細い角材の縁に乗せて、釣り合う場所を探す。円の真ん中では釣り合わなかった。盛り上がりの分厚いところへ重心が寄っていて、しかも左右でもずれている。
バックラーは裏の持ち手を拳で握る。持ち手が重心からずれていれば、握っただけで盾が手首をひねろうとするから、受ける前から手首に余計な力がかかってしまう。
鉛筆で重心に印をつけて、持ち手はそこを通るように付けてもらうことにした。円の真ん中から指一本ぶんずれた位置だ。
縁の金具と持ち手の固定は、じいちゃんに頼んだ。
「持ち手の太さは、どうするんだい」
じいちゃんが図面を見ながら聞いた。
「標準の太さで。上から巻く革は、買った人が巻き直せるようにしておきたい」
じいちゃんは図面から目を上げて、僕の顔を見た。
「穂先と同じだね」
「うん。握る人の手は、分からないから」
じいちゃんは何も言わずにうなずいて、金具の寸法を図面の端に書き足した。魔石の座の位置も、金具とぶつからないように二人で決めた。
回路を彫るのは、裏側にした。
表は叩かれる面だから、溝を彫ればそこから傷みやすくなる。裏なら直接は叩かれないし、力が殻を伝わっていく道筋にも裏から沿わせられる。
魔石は、持ち手の固定金具のすぐ横に座を彫って据えることにした。握った拳の人差し指の付け根が、そのまま魔石の縁に触れる位置だ。持ち手を握り直さなくても、手袋をしたままで魔力を通せる。指の腹で魔石を覆うような位置だと、魔力を通すたびに握りが変わってしまうから、付け根が触れるくらいがちょうどいい。
選んだのは、穂先に使ったものより一つ低いランクの魔石だった。ランクの高い魔石ほど、中身が詰まっていて重い。拳一つで支える盾に、重い石は載せたくなかった。強度強化と衝撃軽減を動かすだけなら、これで足りる。帳面に魔石の行がもう一つ増えた。
回路は、どれもこの魔石から始まる。
強度強化の線は、教本どおりに殻の外周をぐるりと巡らせる。衝撃軽減の線は真ん中の盛り上がりから縁へ向かって、何本も放射状に引く。
ここまでは、どの盾にも入っている形だ。
僕が変えたのは、術式が力を散らす向きだった。
衝撃軽減の術式は、受けた力を魔力で吸いとって散らす。どちらへ散らすかは、線の引き方で決まる。量産の盾は線を面に均等に敷いてあるから、力は四方へ同じように散らされる。そうすると吸いきれなかった分は、いちばん硬く固定された持ち手のあたりに残って、そのまま腕へ抜けてしまう。
だから持ち手のまわりに線を一本、輪のように巡らせて、その輪の上だけ散らす向きを外へ向けた。真ん中に来た力は持ち手に届く前に輪で外向きに散らされて、縁のほうへ押し出される。縁には強度強化の線が巡っているから、押し出された力はそこで殻全体に受け止められる。斜めに当たったときは、散らす向きと当たった向きが重なって、力は曲面に沿ったまま外へ抜けていく。
新しい術式を作ったわけじゃない。教本の術式のまま、線の引き方で働く向きを変えただけだ。
線の幅も場所ごとに変えた。殻の分厚いところでは太く、薄いところでは細く。厚みの違う殻の上でも、術式が同じ強さで働くように。
溝は、浅く彫った。
深く彫れば殻の層を傷めるし、浅い溝では魔力が通りにくい。だから溝にはミスリルを流し込むことにした。穂先のときに覚えた加減で、溝の幅に合わせて魔力を絞りながら銀の線を沈めていく。帳面にミスリル線の行がもう一つ増えた。
全部の線が埋まったところで、裏の魔石に指を当てた。
魔力をひとしずく流して、指先で線をたどる。温もりが真ん中から縁へ向かって放射状に広がっていく。持ち手のまわりの輪まで来ると、温もりは輪に沿ってくるりと回り、そこから外へ向きを変えて縁へ戻っていった。持ち手の内側には入ってこない。
工房で分かるのは、魔力がどう流れるかまでだった。
術式が本当に力を外へ散らすのかは、迷宮の中でないと確かめられない。
金曜の夜、じいちゃんが縁の金具と持ち手を付け終えた。
じいちゃんは木槌で縁を一周叩いて音を聞き、持ち手を握って強くひねってから、引っぱった。それから盾を裏返して、金具の根元を指で一つずつ押していく。
「これなら、叩かれても外れないよ」
じいちゃんがそう言うのを聞いてから、僕はようやく盾を受け取った。
土曜日の朝、勝手口を開けると、アイカが路地で待っていた。
「行こ」
それだけ言って、アイカは先に歩き出す。
秋に根付を試したときと同じバスで、横浜迷宮の管理棟へ向かった。今度は前の晩のうちに、探索者のカードを財布へ入れてある。写真の中の顔が丸いのは、相変わらずだった。
二層の、柱が四本立っているだけの小さな広間も、秋と何も変わっていなかった。
アイカは入口のほうを向いて立ち、通路の気配を一度だけ確かめてから僕を振り返った。
「どうやって持つの?」
「左手で、ここを握る」
裏の持ち手を握って、甲殻のバックラーを胸の前に構えた。重さは、拳の真ん中にまっすぐ乗っている。手首がひねられる感じはない。
「最初は、軽くからで」
「分かってる」
アイカは剣を抜いて刃を寝かせ、剣の腹で盾の真ん中を軽く叩いた。こん、と乾いた音がする。
「どう?」
「普通に叩かれた感じ。軽いけど」
ここからは、魔石に魔力を通したままにする。アイカには同じ強さで、正面と斜めを打ち比べてもらうことにした。
まず正面。アイカがもう一段強く真ん中を叩くと、拳にずしりと来た。重い。けれど骨に響くほどじゃない。衝撃軽減が吸ったぶんだけ、手首へ来る力が薄まっている。
ここまでは、どの盾でも同じだ。
「次は、斜めに受けてみる。さっきと同じ強さで」
「分かった」
盾を外へ傾けて構える。アイカは小さくうなずいて、さっきとまったく同じ振りで剣の腹を当てた。
刃が盾の面に当たった瞬間、手応えが横へ流れた。
拳に来るはずだった重さが来ない。剣の当たった場所から、力が殻の丸みに沿って縁のほうへ滑っていく。持ち手を握る指には、軽く押されたくらいの感触しか残らなかった。アイカの剣は盾の面を擦って、そのまま外へ抜けていった。
アイカが剣を引いて、自分の手を見た。
「…今の、手応えが横に逃げた」
「逃げた?」
「当てたのに、止まらなかった。押し返されたんじゃなくて、横に流された感じ」
アイカは剣の握りを確かめるように一度握り直すと、もう一段強く斜めから振った。
今度もそうだった。剣の重さが盾の面で向きを変えて、縁から外へ抜ける。持ち手のまわりの輪がちゃんと働いている。真正面から受けたときとは、手首に来る重さがまるで違った。
アイカは何度か角度と強さを変えて試してくれた。正面から受ければ、ちゃんと重い。斜めに受ければ、軽く流れる。受け方しだいで、盾の重さが変わる。
七回目を過ぎたあたりで、額に汗が浮いてきた。
衝撃軽減は受けるたびに使い手の魔力を吸う。秋の根付と同じで、僕の魔力ではそう何度も受けられない。
「シンジ」
アイカが剣を鞘に戻した。
「もういい。使う人なら、たぶん平気。シンジじゃないから」
言い方はそっけないのに、間違ってはいなかった。
柱にもたれて座り込むと、アイカは僕の左手首を取った。持ち手を握っていたほうの手だ。手首を軽く回して指で押さえてから、僕の顔を見る。
「痛い?」
「痛くない」
「本当に?」
「本当に。斜めに受けたときは、ほとんど何も来なかった」
アイカはしばらく僕の手首を持ったままでいて、それから気づいたように手を離すと、水筒を差し出してきた。
「飲んで」
麦茶を飲んでいるあいだ、アイカは床に置いたバックラーをじっと見ていた。
「これ、売るの?」
「うん」
「ふうん」
アイカはそれだけ言って甲殻の縁を指先でなぞると、自分の左手首のブレスレットに目を落とし、何も言わずに石を一度だけ指で叩いた。
工房に戻って、もう一度バックラーを作業台の上に寝かせた。
裏の銀の線が、ストーブの火を受けて細く光っている。スイ様が甲殻の丸みを滑り台のように滑り降りてきて、縁の金具のところで止まった。面を甲殻に近づけたまま、しばらく黙っている。
「よい器です」
そこでスイ様は間を置いた。
「…ですが、今は誰も」
「そうですか」
自分でも驚くくらい、ほっとした声が出た。
神様が来なくてもいい。このバックラーは、受けた力を腕へ通さずに外へ逃がす。それができれば、使う人の肩は湿布を貼らずに済むかもしれない。僕が請け合えるのはそこまでだ。
出品は週末の夜にした。
説明文は、またじいちゃんと二人で考えた。
「流れます、と書くと、どんな受け方をしてもそうなると読まれるよ」
じいちゃんに言われて、最後のほうの一文を書き直した。
『岩甲虫の甲殻を用いたバックラーです。強度強化と衝撃軽減の術式を施し、回路にはミスリルを用いています。受けた衝撃が持ち手に集まらず、縁へ逃げるよう回路を調整しています。斜めに受けた際、衝撃を外側へ受け流しやすいよう調整しています。持ち手は重心の位置に付け、標準の太さとしています。握りの革は巻き直しが可能です。』
神様のことは、どこにも書かなかった。
出品ボタンを押してから、帳面の「シンジ」の頁を開いた。
魔道具用鋼材。魔石。鍛冶屋さんの穂先鍛造。ミスリル線。岩甲虫の甲殻。もう一度、ミスリル線と魔石。
秋には空だった罫線が、いつの間にか何行も埋まっている。
けれど、どこを探しても縁の金具と持ち手の行がなかった。金具の材料も、それを付けたじいちゃんの手間も、帳面のどこにも書いていない。
じいちゃんは何も言っていなかった。僕も、まだ何も言っていない。
僕はその空いた行から、しばらく目を離せなかった。




