第5話
ディランは控え室に戻るなり、一直線にトイレへ駆け込んだ。
もう限界だった。
「オエッ」と胃の中のものをすべて吐き出し、すっきりしてトイレを出る。
そして気がついた。
――セバスの死体が、消えている。
まるで最初から何もなかったかのように、きれいさっぱり姿を消していたのだ。
……控え室を間違えたのか? そう思って周囲を見渡す。
だが、床にはうっすらと赤黒いシミが残っていた。ちょうどセバスが倒れていた場所。
汚れた床に紛れて気づきにくいが、それは血に違いない。
つまり、誰かが死体を運び去ったのだ。
それとも――もしかして、まだ生きていて、自力で歩いていったのか?
いずれにしても、今ここにセバスはいない。
そして、それ以上のことを確かめる術も、ディランにはなかった。
そのとき、控え室の扉が開き、数人の男女が入ってきた。
「セバス様。優勝賞金をお持ちしました」
闘技場の関係者のようだ。彼らが押す台車には、金貨が山のように積まれている。
「賞金……え? もらえるの? これを?」 思わず声を上げるディラン。
「勝利者の特典ですから。ライザ様から誓いを放棄された慰謝料も預かりましたので、その分も賞金に上乗せしております。どうぞお受け取りください」
――そしてディランが受け取った金貨は、ざっと2万枚。
裕福な貴族でも数年遊んで暮らせる額だ。
観客の多くがライザに賭けていたため、運営側には莫大な利益が生まれ、それがディランにも還元されたらしい。
結局、自分がセバスでないことは言いそびれた。というか、金額のインパクトで完全に忘れていた。
関係者が去ったあとに思い出したが、――まあ、出場したのは僕だしね。
そう割り切り、ありがたく受け取ることにした。
馬車が無いので、大半の金貨は運営に頼んでカノアの中央銀行へ預けてもらい、持ち運べる分だけ革袋に詰めて受け取った。そして次の試合が始まる前に、ディランは控え室を出て地上へ。
フィーネが待つ商業ギルドへ向かった――
✣ ✤ ✣ ✤ ✣ ✤
フィーネは、商業ギルドで途方に暮れていた。
人を雇うどころか、馬を譲ってくれる者すら見つからないのだ。
子どもにも見える小柄な体格に、現金の持ち合わせもなく、「後払いで馬を譲ってほしい」という申し出に首を縦に振る者は誰もいなかった。
――どうしよう……。
打つ手が尽きた彼女の肩を、ぽんっと誰かが叩いた。
「お待たせ、フィーネ」
その声に、フィーネは思わず安堵してしまう。「ディラン様……」
「馬は買えた?」
「それが……」うつむき、申し訳なさそうに言う。
「ダメでした……。後払いでは、どこも売ってくれません。せめて私たちがクインズヒル王家の関係者だと証明できるものでもあれば、違ったかもしれませんが……」
ディランは「そっか」と頷くと、革袋を差し出した。
「……? これは?」
「臨時収入」
革袋の口を覗き込んだフィーネは「ぬおぉっ!?」と奇声を上げる。
そして、じっとりとした目をディランに向けた。「……まさか、盗んだんですか?」
「違うよ! もらったんだ。僕が闘技場で試合に出たから」
「試合に……出た? 見に行ったんじゃなくて?」
「見るだけのつもりだったけど、流れでね。気づいたら、ライザ・クラウディアとの試合になった」
「はあ? それで……?」
「なんか、よく分からないけど、勝った」
「…………」
フィーネは、闘技場で行われる試合を一度も見たことがなかった。有名な選手の名前にも疎い。だが、あの受付の獣人が口にしたように、ライザ・クラウディアという選手は特別なのだろう。
そんな相手に、勝った?
「え、ええと……いくらディラン様でも、それはちょっと……」
言いかけたところに、ギルド内へ恰幅のいい商人が入ってきた。そしてディランを見るなり、大声で話しかけてくる。
「君はっ……!!! 見てたよ、ライザとの試合! いやぁ、まさか彼女に勝つ奴がいるとは!」
「はぁ、どうもどうも」
その会話を聞きつけた他の商人たちも集まってくる。「おお、なぜ君が商業ギルドに!? まあいい、とにかくすごかったよ。残念ながら賭けには外れたが、実に良いものを見せてもらった!」
次々と賞賛の言葉が飛び交う。商人たちはディランを囲み、羨望と敬意の眼差しを向けていた。
その光景に、フィーネの頭の中にいくつもの疑問符が浮かぶ。――え? 本当に出たの? それで、勝ったの……?
両手に抱えた金貨。集まる賞賛。……だがそれでも、にわかには信じられない。
「あ、そういえばさ」ディランが近くの商人に声をかける。「馬車を買いたいんだけど、譲ってもらえないかな?」
商人は笑って、ディランの肩をぽんと叩いた。「もちろんさ! うちの上等な二頭馬車を譲ってあげよう。もちろん馬付きでね。費用? まけとくさ」
提示されたのは金貨1枚。2頭の馬が付いていることを考えれば、破格も破格だった。
ライザに勝った男に恩を売っておきたい――そんな意図が透けて見える。
商人はディランから金貨を受け取ると、にこやかに馬車の所有証明書をその場で書いてくれた。
✣ ✤ ✣ ✤ ✣ ✤
「ラッキーだったね。馬車が手に入って」
御者台の隣で、ディランは上機嫌に笑っていた。
「……そうですね」
フィーネは、やや納得のいかない表情を浮かべたまま答える。
ふたりは、商人から譲り受けた馬車に乗って、カノア王都を離れたところだった。入った門とは別の出口を使ったため、衛兵に呼び止められることもなく、すんなりと外へ出ることができた。
「せっかくお金もあるんだし、うちで働けそうな人を探しておいてもよかったんじゃない? それとケーキ屋にも行きたかったなぁ」
「……ディラン様。今も衛兵が私たちを探しているんですよ? 運よく馬車が手に入った以上、さっさと王都を離れるべきです」
「ま、そうだよね」ディランは笑いながら納得する。
「それに死体もすでに押収されたでしょうし。わざわざ人を雇ってクレヴァスに送り返す必要はなくなったでしょ?」
「まあね。代わりにカノアの人たちが運んでくれたらいいんだけど」
「それは……ないでしょうね」
フィーネが眉をひそめる。
カノアとクレヴァスは、書庫の鍵を巡って争うライバル国だ。
丁寧に死体を送り返すような友好関係には程遠い。
フィーネは追跡の危険を避けるため、街道を避けて裏道を選んだ。
そして森へと抜ける細道に入った頃には、日はすでに傾き始める。
やがて森の入り口が見えてきた、その時――
「待ちやがれ!!」
不意に、怒声が響いた。
フィーネがぎょっとして辺りを見渡すと、道の脇にふたりの女が立っていた。
顔立ちがよく似ている。姉妹か、あるいは双子かもしれない。
藍色の髪に整った目鼻立ち。黙っていれば清楚な美女に見えるが、彼女たちは軽装の革鎧を身に着け、手には鋭いダガーを握っていた。
どう見ても、ただ道に迷ったわけではなさそうだ。
とくに片方の女は、明確な敵意をこちらに向け、じっと睨みつけている。
「そこの男、そう! お前だよ!」
フィーネの隣でウトウトしていたディランが、声に反応して目を覚ます。
「……えーと」 とりあえず、隣にいるフィーネに尋ねる。 「……だれ?」
「え? 知らないです……」
フィーネも、困惑したように首を振る。
「しらばっくれるなよ、てめぇ。さっきはよくもあたいらを騙してくれたなぁ??」
ディランは身を乗り出し、じっとふたりの顔を見る。「本当に知らないんだけど……誰?」
「ああん!? だからっ……」
「リゼ」
隣にいた無表情な女が、荒れる女を静かに制した。
「さっき顔、隠してた」
「……あっ」
リゼと呼ばれた女は、何か思い出したようだ。
「えっとなぁ、選手控え室で会っただろ! 死体の片付けをお前に任せたじゃねぇか!」
控え室と聞いて、ディランの中で記憶が繋がった。――あの時の黒ずくめの二人組。
「もしかして……セバスを殺したふたり?」
「名前なんて知らねぇーよ。あたいらは雇い主が指定した相手を殺すだけだからなっ。でもお前のせいでクビになった!!」
「僕のせい?」
「お前が“掃除屋”を名乗ったせいだ! あたいらは死体の後処理をお前に任せて姿を消したんだ。そしたら、雇い主に怒られた。『掃除屋が来るまで死体を放置しただろ』ってな! お前のあとに本物の掃除屋が来たんだ。信用を失ってあたいらはクビ、そんで報酬もパーだ! 責任とれや、コラァ!」
ディランは、思い出した。
そういえばあのとき「掃除に来た」と口から出まかせを言った。
「そういう意味の掃除じゃなかったんだけどね。まあたしかに、僕にもちょっと責任はある……のかな?」
首をかしげたディランに、リゼが叫ぶ。「なめやがって!!……あたいらを騙した罪、償ってもらうよ!!」
そう叫ぶや否や、リゼはダガーを構え、御者台のディランに飛びかかった。
だが、次の瞬間――
ディランの姿は、馬車の前方に移っていた。
「え? え?」フィーネが目を丸くする。
「て、てめぇっ!」
リゼが怒声を上げて追いすがるが、そのダガーはかすりもしない。
「ラン! お前もやれ!」
「分かった」
もう一人の女も加わるが、どれだけ攻撃しても、まるでディランには通じなかった。
目にも止まらぬ速さで繰り出される攻撃を、それ以上の速さで躱していく。
ふたりが息を切らし始めた頃――ディランが口を開く。
「もうやめようか。……気分が悪くなる」
再び吐き気がこみ上げてきたので、もうやめたい。
だが、無表情にそう言い放つディランの姿に、ふたりは得体の知れない恐怖を覚える。
本気を出せば、たやすく命を奪われる――そんな静かな圧が、言葉の裏に感じられた。
「……ちっ。マジで何者なんだよコイツ……!」
リゼが舌打ちする。
「止めるのが賢明……。きっと、勝てない」
ランも静かに言う。
立ち尽くすふたりを見て、ディランはふと思いついた。
「そうだ、君たちさ。僕に雇われる気はない?」
呆然としたあと、リゼが叫ぶ。 「……はぁあ!? お前にぃ!?」
「クビになったってことは、無職なんでしょ?」
「だ、誰のせいでっ!」
「リゼ、待って」ランが一歩前に出る。
「本気? 雇うって……」
「うん、もちろん。君たちさえ良ければね」
「誰を殺せばいい?」
ランの言葉にディランが首をかしげる。
「……あたいらは暗殺を仕事にしてきた。雇うってことは誰かを殺せってことだろ?」
リゼが代わりに問うた。
「うーん、特に殺してほしい人はいないかな。それよりも使用人が足りなくてさ」
「……まさか、あたいらにメイドをやれってのか?」
「そう」
「ちょ、ちょっと待ってください!!」
いつの間にか御者台を降りてきたフィーネが、ディランの袖を引っぱる。
「な、なに考えてるんですか!? たった今、命を狙われたんですよ!?」
「でも、何ともないよ?」ディランは自分の体を見ながら平然と答える。
「そうですけどっ!!」
「いいじゃん、彼女たち強そうだし。またクレヴァスが暗殺者をよこしても、きっと追い払ってくれるよ」
「でも……!」
「オイ」
黙って様子を見ていたリゼが、ふいにフィーネの前にしゃがみこむ。
「な、なんでしょう……」
身体を強張らせるフィーネに、リゼが目を瞬かせた。
「なんて……可愛らしいんだよ、お前」
「は?」
そのままフィーネを抱きかかえ、うっとりと見つめる。
「どうして、こんな可愛い子が、こんなおっかない男と一緒なんだ……なぁ?」
「リゼは、可愛いものが大好物」
ランが補足する。
「か、可愛いって……! こう見えても私の方が年上で……」
「なるほど、ハーフリング。人間より長生き」
「年なんて関係ねぇよ。いいか、可愛いは正義なんだ。世界の真理なんだ!」
そう言いながらリゼはフィーネに頬をすり寄せた。
「うちのフィーネを気に入ってもらえて何よりだよ。で、どう? 雇われてみる?」
しばしの沈黙の後、ふたりは視線を交わし、うなずいた。
「まぁ、行くあてもないしな」
リゼがフィーネをそっと下ろし、ため息混じりに言う。
「お金もない」
ランが続けた。
「よし、お前んとこで働いてやるよ」
リゼが吹っ切れたように言った。
「本当? 助かるよ。これからよろしくね」
ディランはにこやかに言い、ふたりを馬車へと促した。
「……ディラン様、本当によろしいんですか?」フィーネが心配そうに声をひそめる。
「うん、大丈夫でしょ。フィーネのことも気に入ってるみたいだし」
「そ、そうじゃなくてですね……ふたりとも雇うとなると、お給金が……」
フィーネはさらに声を小さくして続ける。
「今ここにあるのは、せいぜい金貨50枚くらいですよ? これじゃ、一年分の給金にも……」
「ああ、それなら大丈夫」
ディランはそう言って、ポケットから紙片を取り出した。
「これ、賞金の残りだよ」
「……預かり証……? カノア中央銀行の? ……んんっ!? 金貨……に、にまんまい!?!?」
フィーネは言葉を失い、手の中の紙を凝視したまま動かなくなった。
そんな彼女をよそに、リゼが御者台へと登り、ふたりに声をかける。
「おーい! どこまで行くのか知らねぇけどよ、日が暮れちまうぜ?」
「ああ、ごめーん」
ディランは固まったままのフィーネをひょいと抱き上げると、そのまま馬車の後部座席に乗り込む。
「で、君はリゼ……だったよね? 御者をお願いしてもいいかな?」
「いいけどよ、行き先は?」
「ああ、そうだった。クインズヒル城まで頼むよ」
「………。クインズヒル?」
「そう。今日から、君たちの職場」
一瞬で、リゼとランの顔色が変わった。
「……お前ってもしかして……」
リゼが喉を詰まらせるような声でつぶやく。 「凶……王……?」