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scrapbook 2021  作者: a i o
10/32

エンリケと魔女

**短編小説**

 エンリケが森に捨て置かれたのは、五、六歳の頃だった。エンリケ自身が自分の歳を把握していなかったので、本当のところはよく分からない。ただ、心細さより空腹が遥かに上回っていたことだけは、よく覚えている。

 エンリケを拾ったのは『森の魔女』だった。魔女といっても、森に住み着いた世捨て人のような暮らしをする老婆を、村人達が気味悪がりながらそう呼んでいただけだ。魔女と呼ばれた老婆は、愛想はないがエンリケを見捨てた肉親の大人達よりずっと優しかった。樫の木の根本で(うずくま)るエンリケに、老婆は枯れ木のような手を差しのべた。青い夜道を老婆に手を引かれ歩いたことを、エンリケは一生忘れないだろう。

 エンリケは文字通り拾われたその日、老婆の作った味の薄いスープをまるで流し込むかのように食べた。鍋が空になるまで何度もおかわりをした。チラチラと揺れる蝋燭の灯りに、老婆の顔が照らされていた。家の中には湯気と、薬草のような匂いが漂っていた。老婆は一言も発することなく、エンリケがスープを食らう様子を表情も変えず眺めていた。

 老婆との暮らしは単調だった。陽が昇る前に起き、水汲みを済ませ、日中は畑や鶏の世話をする。日々の食事は質素で、お世辞にも老婆は料理が上手かったわけではないが、常に空腹との戦いを強いられていたエンリケには毎日の糧がある生活はまるで天国のようだった。

 エンリケが老婆との暮らしに慣れた頃、夜になるとエンリケは度々ひどく泣いた。塞き止められていた感情が溢れだしたかのように、行き場のない涙をエンリケは流し続けた。老婆はそんな時、決してエンリケを一人にはしなかった。エンリケが泣き疲れて眠るまで、ベッドの側に椅子を寄せ、エンリケの泣き声に耳をすませていた。エンリケの涙に滲む視界には、必ず老婆の姿があった。エンリケはいつしか泣く度に、気づけば老婆の姿を探すようになっていた。

 村人達は老婆にいつもよそよそしかったけれど、完全に排除していたわけではなかった。エンリケがひどい熱を出した時は、滋養の高い山羊の乳を分けてくれたし、老婆の家にいつの間にか住み着いたエンリケを遠巻きながらも気にかけてくれた。エンリケの日常は老婆に拾われてから、がらりと変わった。老婆のくすんだ緑の瞳のように穏やかな日々を、エンリケは老婆と共に過ごした。

 エンリケが老婆の家に来て季節が二回ほど巡った頃、スープを(こしら)えている老婆の横でエンリケはずっと疑問に思っていたことを、意を決して尋ねてみることにした。

「ばあちゃんは村のみんなが言ってるみたいに、ほんとは魔女なの? 魔法が使えるの?」

 エンリケの言葉に老婆はかすかに目を見開き、ほんの少し唇の端をつり上げた。

「ふん。魔法が使えるなら、もっとマシな食べ物を出せるだろうさ」

 老婆は自嘲気味にそう言って、グツグツと煮えたスープをかき混ぜた。

「まぁ、でも」

「でも?」

 いつもより口数の多い老婆に、エンリケはなんだか嬉しくなり言葉を促す。

「魔法ってのは、きっと思いもよらないものなんだろうよ……」

 老婆は掠れた声でそう言うと、今度は素直な笑みを見せた。子どものような笑みだと、エンリケは思った。


 エンリケが成長するにつれ、老婆は次第に衰えていった。エンリケが拾われた頃から年老いていたように見えたけれど、歳を重ねるごとに皺はさらに深く刻まれ、動きはだんだんと鈍くなっていった。

 老婆とエンリケが互いに支え合う姿を見てきた村人達は、昔ほど老婆とエンリケを遠巻きにはしなくなっていた。エンリケが助けを求めれば快く力を貸してくれたし、エンリケも村人達の手伝いを自ら進んで行うようになっていた。

 いつしか立派な青年となったエンリケは、村の若い娘と恋仲になり、結ばれた。娘の両親に懇願され、エンリケは村に小さな家を建て娘と共に移り住んだ。エンリケはもちろん老婆を連れていくつもりだったが、老婆は頑なにそれを断った。エンリケは仕方なく老婆を連れていくことを諦め、老婆の様子を見に村から森に通うことにした。一人で行くこともあったし、妻となった娘と行くこともあった。子が産まれてからは、子を連れて老婆のもとへ通った。

 ある日いつものようにエンリケは子と一緒に老婆の家を訪れた。老婆は痩せ細った姿でベッドで横になり、エンリケの小さな子どものふっくらとした手を、宝物のようにそっと握った。エンリケの育った家は、昔よりずっと小さく見え、昔と変わらぬ薬草の匂いで満ちていた。皺くちゃな手がパタリとベッドに落ちる音がした。エンリケの瞳にみるみる涙の膜が張る。歪んだ視界には、動かぬ老婆の姿があった。



 ダリルの父は魔女に育てられたらしい。らしい、と言うのは、その話をするダリルの父も村の人達も、恐れなど微塵も見せずにただ懐かしそうな瞳でそれを語るからだ。ダリルが物心つく頃には、もう祖母は亡くなっていた。だけれど、幼い頃から父と一緒に何度も森に通い、小さな墓石に花を添えているからか、ダリルにとって祖母は身近な存在だった。墓石が建つそこには昔、父と祖母が暮らしていた家があったそうで、森にぽっかり穴が開いたような開けた土地になっている。

 父はあまり口数の多い人ではないけれど(母親に似たんだ、と言っていた)、祖母との暮らしぶりは時たま思い出したかのように話してくれた。村の暮らしとこれといって変わったことはないように思えたけれど、目を細めてその様子を話す父の姿が好きだったから、ダリルは何度も森での話をせがんだ。我が家の薄味のスープが、祖母直伝だということは、母からの話で知ったことだ。父が祖母のスープに並々ならぬ思い入れがあると気付いた母が、姑である祖母にレシピを乞うたらしい。随分とバツの悪そうな顔で教えてくれたわ、と母がカラカラと笑って言っていた。

 いつものように父と一緒に森に入り、道中摘んだ花を墓石に添える。時間が止まったような場所で、祖母の墓石は木漏れ日に照らされ、今日もひっそりとした佇まいでそこにあった。

 いつの間にか越してしまった肩を並べて、ダリルは父に尋ねる。

「本当のところ、おばあちゃんは魔女だったの?」

 ダリルの言葉に、父は、フッと小さく笑みをもらした。木々の間を駆け抜ける風の音がする。

「ああ。間違いなく魔女だったさ。なにせ父さんに思いもよらない日々を与えてくれたんだから」









 ────



『まぁ、でも……』

『でも?』


『魔法ってのは、きっと思いもよらないものなんだろうよ……おまえのように』














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