ローレライの想い~罰と罪の狭間~
それはあまりにも唐突すぎた。
「……好きです」
帰り際、喫茶店の外まで見送りに来てくれた彼女は俺に抱きつき、そう囁いた。
俺は葛藤した。
今、やらなければならないのは娘の心を救うことだ。それ以上に彼女と俺は10才以上、年が離れている。下手をすれば娘と言っても不思議じゃない。
けれど……。
俺は彼女を抱きしめてしまった。
「…ありがとう」
それは心から出た言葉だった。
はにかみながら彼女は潤んだ瞳を俺に向けてくる…俺は心の片隅で罪悪感に苛まれながら口づけを交わした。
分かっている…分かっているさ。
俺は彼女に癒やしを求めていたぐらい…。
だけど、拒むことが出来なかった。
俺は、俺は最低な人間だ…。
罪悪感に包まれながら俺は彼女と一線を越えた。それが俺の心だけでなく彼女の人生を狂わせると知りながらだ…。
幾つかの四季を通り過ぎた。
娘は相変わらず俺のことを思い出すこともなく、彼女とはズルズルと愛を育むことになる。
俺の我が儘でしかない感情を彼女は献身的に受け止めてくれた。
「…俺の店の卒業生を泣かすなよ」
店長から釘を刺され俺は苦笑いしか浮かべることしか出来ずにいた。
そんな姿に深い溜息を吐きながら店長は俺を真っ直ぐに見つめていつもとまるで違う言葉を俺に言ったんだ。
「逃げることを悪いとは言わない…だがな、若い者をお前の都合に捲き混むな。あの娘は良い子だ、俺が今まで見てきた誰よりもだ。確かにお前の焦燥感に哀愁を感じたのかもしれん……だがな、あの子には将来がある、選択する未来がある…それを忘れるんじゃないぞ」
店長は厳しい瞳で俺をジッと見つめる。
「…お前の存在はあの娘を不幸にする。断言してもいい…俺は長いことあの娘のような子を見てきた。だがな、お前という存在はあの子らには未知数すぎるんだ……分かるな」
俺は知っていた。
店長の言葉の意味と重み、彼女を必要としていた俺の心の内を店長に見透かされていた事実…。
俺は娘の事情を店長には話していない。
けれど、普段はやる気の無い店長は見抜いていた…俺の心の片隅に潜む闇を…。
俺は顔を上げることが出来ない。
俯いたまま自分の不甲斐なさと情けなさに…店長と彼女に向ける顔が思い浮かばなくて…ただ、俯くことしか出来なかった。
「おはようございます!うんっ?あれ、来てたんだぁ~。珍しいね、こんな時間から来るなんて」
喫茶店の扉が開けられ、太陽のような笑顔を輝かせながら入ってくる彼女に俺は視線を向けることが出来なかった。
「あ、あぁ…今日は休みだから」
何とか紡ぎ出すことの出来た言葉がそれだ。
救いようがないことこの上ない。
けれど、彼女は疑うことなく…。
「じゃあ、今日は一緒に居られるんだ」
と嬉しそうな笑顔を見せてくる。
ズキリーー。
俺の心が痛んだ。
それは休むことなく俺の心を傷つけていく。
傍に居る店長は何も言わない。
何時もと同じやる気のない雰囲気を漂わせてぼぅと壁に掛けられた絵画を眺めている。
そんないつもと変わらない空間なのに何故か俺は居心地の悪さを感じて仕方がなかった。
「ねぇ?」
彼女がまるで猫のように俺を見つめる。
「カフェオレが飲みたい」
それは彼女の好きな俺のブレンドで作ったカフェオレの事だ。彼女に合わせて甘めに作るのがポイントなんだが、最近は忙しくてカウンターに足を踏み入れていない。
常連客からも俺の姿を見るたびにあの味が懐かしいといつもぼやかれてしまう。
なぜなら俺がカウンターに入らなくなって、この店でまともな珈琲が飲めなくなったからだ。
「たまにはいいか…」
最近、娘のことで頭がいっぱいだった俺は久々にカウンター内に足を踏み入れようとした。
だが…。
「作れるのか?」
店長が絵を眺めながら俺に呟く。
「まぁ、たぶん……」
俺の自信なさげな口調に店長は小さく溜息をついて振り返ると俺を冷たい視線で見つめた。
「自信がないやつに俺が厳選した豆を使わせたくない。お前は椅子にでも座ってろ……」
何も言い返せなかった。
正直に言って俺の今は他人に気遣う余裕がない。彼女の願いも叶える自信はなかった。
項垂れながらカウンターの席に座る俺に少し残念そうな表情を浮かべる彼女であったが、それ以上に自ら珈琲を煎れようとする店長の姿に驚きを隠せないでいた。
「えぇ、店長が作るの!?」
一番、驚いていたのは彼女だったのだ。
本来は夏休みだけのバイトの筈だったのだが店長のごり押しで今もこの店で働いている。
そんな彼女ではあるが、そのバイト中に一度たりとも店長の作った珈琲を飲んだことがない。
なにせ、俺ですら一度だけだ。
娘のことでショックを受けて憔悴しきった俺に店長が何も言わずに珈琲を煎れてくれた。
珈琲があまり得意でない俺が初めて美味いと思ったほどで店長の珈琲を飲むということは彼から無言の伝言を受け取ると言うことに他ならない。
俺は覚悟を決めた。
店長が焙煎した豆を選んでいる後ろ姿を興味深げに覗き込んでいる彼女の姿を横目に見やる。
「店長が私に珈琲を煎れてくれるなんて初めてじゃないですか?もしかして、私の魅力に漸く気付いて心を入れ替える気になったんですかぁ?」
何も知らない彼女の言葉に俺の心は知らず知らずのうちに傷ついて今にも砕けそうだ。
「まぁ、たまにはな…なんせ、ここまで出来の悪いバイトを俺は知らないからな。まぁ、残念記念だ」
その言葉に彼女は頬を膨らませる。
「ぶぅー、そこまで私は酷くないですよ?店長が心配で仕方なく残ってあげているんですよ」
今度は店長が苦笑してしまう。
「お前らしいよ…ほんとに」
俺は二人の会話を聞きながらぼんやりと最近、飾られた一枚の絵を眺める。
男の絵だ…。
少し不慣れな微笑を浮かべ、その瞳の奥には人知れず罪悪感に満ちた闇が見える気がする。
俺を描いた彼女の絵だ。
気付いているんだと思う…。
描かれた俺は彼女から見た俺だ。
あの暗い瞳を描いたとき彼女はどう思ったのだろう…そう言えば店長もさっきまでこの絵を見ていたな。
だからか…こんな死んだ目をした奴にあの豆達に触れてほしくないよな。
「ははっ……俺、何やんてんだか」
今更ながらに気付いた。
彼女を傷つけ、店長の信用を裏切り、それでもここに通って縋りつこうとしている。
信じたくない現実から逃げ出して自分は正しいと思い込もうとしていたんだ。
「…店長」
「なんだ…」
ミルを丁寧に回している店長は俺を見ない。
けれど雰囲気は俺に話を促している。
「俺、逃げてたわ」
「そうか…」
「迷惑かけて…ごめん」
俺の言葉に店長の口元に微かな笑みが溢れる。
「いい年したおっさんが…ごめんか。まぁ、いい。人生は色々ある。後悔したとしても何時かは良かったと思える日が来るさ……っで、どうする?」
決まっている。
俺は我が儘だ…。
娘もあいつも笑顔にしてやりたい。
勢いよく立ち上がり小銭をカウンターに置くと俺は後ろを振り返らずに飛び出した。
ただ、娘に会いたくて…たとえ、俺の存在を忘れていたとしても、また最初から始めれば良い。
俺は前のめりになりながら駆けていく。
二人がいる場所へと向けて…。
*
コポコポーー。
サイフォンが奏でる音を聞きながら私は飛び出していった彼にもう逢うことはないと思った。
一目惚れだった。
どこか儚げで…。
でも周囲にはそれを見せないように気遣っていて私は直ぐに恋に落ちた。
でも、彼はある日を境に笑顔が消えた。
何も話してはくれないけれど、今の彼には救いが必要だと思ったから、私は……告白した。
卑怯者だと思う。
彼の不安定な瞬間を狙ったから。
それでも私は楽しかった。
夏休みだけの約束だったけど私は店長に頼みこんで、ここでバイトを続けさせてもらったの。
彼と付き合い始めて私はーー。
「店長、ここでデッサンして良い?」
勇気を出して店長に聞いた。
「…ようやく見つかったか?」
「うん…彼を描きたい」
私はこの喫茶店でバイトする意味を知っている。
『美大生の診療所』
バイトを終えた子は紹介してくれた先輩からなぜ紹介したのか理由を教えてくれる。
実は私を紹介してくれた先輩が夏休み後にバイトを終えたと勘違いして私に教えてくれたのだけど…。
私がまだバイトしてると知って「……まじ?…店長にバレたら殺されるぅ~」と悲痛な表情をしていたから店長には内緒にしていたんだけど…店長は気付いていたみたい。
けど、お互い知らないふりをする。
「あいつを描くのか……」
店長の表情が少し曇る。
「うん、どうしても描きたい…ううん。描かなきゃいけないと思うの……だって、だって」
言葉に出来ずデッサン帳を胸元に抱き寄せ強く握りしめながら私は俯く。
ダメかもしれない。ここで描かなきゃ意味がないのに描かせてもらえないかもしれない。
「まぁ、いいだろ…」
その言葉に私はハッと顔を上げる。
「ありがとう」
私は思わず店長に抱きついた。
そして、私は彼の絵を描き始めたんだ。
読んでいただきありがとうございます
(o_ _)o
なかなか思うようにかけませんが少しずつ前に進めていると思ってます
出来ればご感想など頂けましたら幸いです
では、失礼いたします
(o_ _)o