ローレライの想い~僕の描く理由~
最初は鬱陶しかった蝉の鳴き声もだんだんと慣れてきた夏の終わりに僕は自分の部屋で無心に絵を描いていた。
もう、何枚目だろう。
真っ白なキャンパスを見つめながら周囲に散乱した絵をぼんやりと眺める。
どうやっても、表情が上手く描けない。
「…もう一度だけ描いてみよう」
真っ白なキャンバスに絵の具を塗り込めていく。
徐々に生み出されていく輪郭…だけど理想の表情を描くことが出来ないんだ。
描いているのはスクーターのあの子。
美術館で一度だけ会話を交わしたあの歌声の子。美術館で彼女を見つめていても今の僕の脳裏を過ぎるのはいつもあの子の姿だったんだ。
この街にいるって分かってから僕は暇を見て街中を探し回った。もしかしたら逢えるんじゃないかと思って。
だけど、出逢うことは出来ないでいる。
何でだろう……胸が苦しい。
あの子のことを考えるだけで僕は言いようのない寂しさを感じて、それを紛わらすようにあの子の絵を描くことに没頭したんだ。
でも、いざ筆を持って描き始めるとどうしてもあの子の表情を描くことが出来なかった。
頭の中では思い描くことが出来るのに、それを描こうとすると霞かかったみたいにぼやけてしまう。
「…だめだ」
何枚目かのあの子の絵も……違う、あの子はこんな表情じゃない。もっと、なにか、心の中の何かが足りない。
納得がいかない。
僕の知ってるあの子は笑ってた。
楽しそうに、嬉しそうに……なのに、何で描くと哀しげな表情を浮かべるんだよ。
悔しかった。
ようやく描きたいものが見つかったのに描けない。本当のあの子の表情が描きたい。
「どうすればいいんだよ…」
床に大の字になって僕は天井を見上げた。
開け放たれた窓から蝉の鳴き声と少し生温い風がさらに僕の気持ちをどんよりと落ち込ませていく。
何だかやるせない感情に僕は外の景色に視線を向けた。近くにある街路樹の葉が風に揺れて時折、その陽光から射し込む日の光が僕を誘ってる。
「…画材を買い足さなきゃ」
何枚もあのこの絵を描いて幾つか足りないものがあることを思い出した僕はゆっくりと起き上がり汗ばんだ身体を洗うためにシャワーを浴びることにした。
さっぱりとした僕はなじみの画材店に向かって歩き始めたんだけど……暑い、もうね歩くのが嫌になるぐらい。
ダラダラと流れる汗がTシャツに張り付いて気持ち悪い。どこかで休憩しようかなーー。
周囲をキョロキョロ見渡しながら涼めそうな場所を探すけどなかなか良さげな場所がない。
「店長の所に行こうかな…」
もう少し歩いたら店長の喫茶店がある通りに出る。画材店からも近いしお客として堂々と涼むことも出来る。
何より虚弱な僕にとってこの陽射しは死活問題だし……うん、寄っていこう。
そう決めたらさっきまでのダラダラした足取りが途端に速くなる。
もしかしたら、店長が煎れてくれる珈琲がまた飲めるかもって淡い期待があったから。
カランカラン。
喫茶店の扉を開いて中へ入ると冷房のひんやりとした風が僕を出迎えてくれる。
「いらっしゃ……なんだお前か。今日はバイトは休みだろ?何が哀しくて休みの日までバイト先に来てるんだ?」
辛辣な言葉で店長が僕をチラリと見て呆れた表情を浮かべる姿に僕は苦笑してしまう。
「画材屋に行こうと思ったんですけど……暑くて、涼みに来ちゃいました」
僕の言葉に店長はさらに呆れた表情になった。
「まぁ、客としてきた分には文句を言うつもりはないがお前さんは暇なのか?」
何も言い返せない。
事実、ひまだから……。
「あれっ、そういえば」
お冷やを自分で入れながら僕は君がいないことに気付いて少し首を傾げる。
この時間なら店長の傍にべったりとくっついて寛いでると思ったんだけど。
「うん?あぁ、お前さんがいないと分かると直ぐに出て行ったぞ。本当に愛されてるなぁ、あの子に」
うーん、なんだろう。嬉しいような逢えなくて淋しいような、僕は特別扱いされてるんだろうか?
その割には僕がいるときは素っ気ない態度で店長の周りにいるんだけどなぁ。
僕がそんなことを考えているとカランカランと扉のベルが鳴って常連客の男の人が入ってきた。
「あっ、いらっしゃいませ」
思わず条件反射で言ってしまった。
今日はお客の筈なんだけどついね。
「あれっ、珍しいな。今日はこっちに座ってんだ?うん?あぁ、入るのか?」
僕がカウンター内いなかったら珍しそうにしながら何かに気付いて閉めた扉を開いた。
そこには扉から顔だけを覗かせる君がいてキョロキョロ店内を見回っていたんだ。
僕の姿を見つけた君はスタスタと店内に入ってきて、いつものように店長の傍で丸くなったんだ。
「良かったな」
店長がニヤリと口も手を歪ませる。
さっきの会話の後だと何だか照れ臭いな。
「こんにちは」
君に声をかけて頭を撫でようとすると君はその手を避けるようにしてそっぽを向いた。
「ふにゃあ~」
気のせいか何だかちょっと機嫌が悪い鳴き声を上げて僕にお尻を向けるようにして丸くなる。
「今日はご機嫌斜めだな」
男の人も苦笑しながら当たり前のようにカウンターへと入っていって豆を選び始めた。
「俺はいつものブレンドな」
躊躇なく注文する店長、えっと普通は逆だと思うんだけど男の人も慣れたもので「はい、はい」と軽く受け答えしている。
これでいいんだろうか?
苦笑いでそんなことを考えていると
「君はどうする?」
僕の分まで聞いてきてくれた。
「いえ、いえ悪いですよ」
「一人、煎れるも三人に煎れるも一緒だから遠慮せずにどうだい?まぁ、店の豆を使うから俺が勧めるのも変な気はするんだけどね。っで何を飲む?」
苦笑しながら店長用のブレンドをミルで挽きながら、僕の注文を待っている。
ここまで言われて断るのも悪いよね。
そんな言い訳を心の中でしながらも僕は飲みたい物は既に決まってた。
「じゃあ、お言葉に甘えて…アイスカフェオレでお願いしてもいいですか?」
僕の注文に頷いて豆を選び始めてくれる。
実はバイト中もこの人の煎れてくれたカフェオレを飲んだことがあるんだけど一口で大好きになるぐらい美味しかったんだ。
店長が煎れてくれた珈琲とはひと味違う美味しさで画材屋に行く前に寄って大正解だ。
「店長のはちょっと時間がかかるから俺らのカフェオレを先に飲もうか?はい、どうぞ」
優しげな微笑で僕の前にカフェオレを置く姿はここの店長より店長らしい。
しかも、バイトの僕は客席にいる。
おかしな喫茶店だよね。
「すいません、頂きます」
僕の前に差し出されたカフェオレを口に含むと最初に珈琲の香りが鼻孔を擽り、直ぐに甘い味が口一杯に広がっていって。
それだけで幸せな気分になれる。
「はぁー、美味しいです」
幸せそうな僕の表情に微笑を浮かべながら自分に入れたカフェオレを飲んでホッと一息している。
きっと、満足のいく出来だっただと思う。
そんな幸せそうな僕ら二人に店長はいつものやる気のない口調で羨ましそうに呟いたんだ。
「俺のはまだか?」
何だかんだで店長もこの人の煎れる珈琲のファンみたいでサイフォンの様子をチラチラと見ている。
あんなに美味しい珈琲を煎れられる店長もやっぱり気になるんだろうな。
そんなことを思いながらカフェオレを飲んでいるとじぃーっと見られている気がして僕が振りかえるとーー君が僕を見つめていたんだ。
「うん?どうしたの?」
カップを置いて僕は君を見つめると君はプイッと視線を逸らした。
まるで、気になってるけど見られると恥ずかしいみたいな感じで僕から視線を逸らしたんだ。
「…変なの」
君の仕草に首を傾げながら僕はまたカフェオレを口に含んで幸せを噛み締める。
「…そう言えば君は美大生だったね?」
カフェオレを煎れてくれた常連客の男の人がふいに僕に声をかけてくる。
「はい、一応はですけど…なにか?」
僕の答えに男の人は少し考え込むような表情を浮かべてボソリと呟いたんだ。
「君は描きたいモノは見つかったのかい?」
その問いかけに僕は言葉を発することが出来なかった。だって、描きたい人はいるけどあの子の内面を描くことが出来なかったから。
「おぃ……」
悩んでいた僕に店長が助け船を出してくれる。物凄く珍しくて僕は何度も瞬きをしながら店長に視線を向けたんだ。
「あ~ぁ、悪い店長…つい、な。そろそろいいかな、はいっブレンドできましたよ」
話を逸らすように絶妙なタイミングで男の人がすっとブレンドを差し出すと芳醇な香りが店内に広がっていって店長も自然と意識を持っていかれる。
「おぅ、どれどれ……ふん、まあだな」
差し出されたブレンドを飲みながら店長はいつもの表情を浮かべているけれど。
その口元が微かに緩んでいるのを僕は見逃さない。あれは満足している顔だ。
本当に負けず嫌いだな。
「ったく、手厳しいなぁ」
苦笑する男の人と店長に姿を見ながら僕は自分が描きたいものはなんだろうって考えたんだ。
いや、考えるまでもない。
あの子だ、スクーターのあの子を描きたい。
でも、描くことが出来ない。
「描きたい人はいます…でも、上手く描けなくて何枚も描いているところです」
僕は気が付くと思わず呟いていた。多分、誰かに聞いてほしかったのかも知れない。
それに男の人の雰囲気が僕の悩みを解決してくれるんじゃないかって単純に思えたからかも知れない。
何だか話しやすいんだよね。
男の人が優しい目をして僕を見つめる。
「描きたい人がいるのは良いことだよ。今、悩んでることは必ず君のためになるからね。君はまだ若いから焦らずにゆっくりと考えれば良いよ。時間はたっぷりあるからね……」
一瞬だけ切ない表情を浮かべた気がした。
なんだろ?
だけど、男の人の言葉は何故かすぅっと心の染みこんでいくようで僕はこの人に絵を見てもらいたくて。
「いま描いている絵を見てもらっても構いませんか?自分ではどうしようもなくて他の人の感想を聞いてみたいんです」
「ああ、良いよ。だけど、俺は絵に関して素人だから良いアドバイスが出来るか判らないよ?」
少し困った表情を浮かべながらも了承してもらえて僕はいつも持ち歩いている肩掛け鞄からスケッチブックを取り出した。
「率直な意見が聞きたいんです」
僕はあの子のラフ画を男の人に見せた。
「どれどれ……っ!?」
絵を見た瞬間、男の人が驚いた表情を浮かべてーーだけど直ぐに優しげな表情に変わって。
「そうか……」
ただ、それだけ呟いたんだ。




