テツ&アマ その13
図書館から離れて、自転車を漕いだ。
どこをどう走ったのかは、覚えている。
走ったことのない、アマにも、誰にも予想のつかないルートを選んだことだけは覚えている。
そして、そのあとに、そいつはいた。
クズ野郎と一対一。
どうしてそうなったのか、という途中の流れ自体は、思い出せない。
しかしいつかは起こることだった、ということはなんとなくわかっていた。
場所はどこだっていいた、部活でも教室でも―――。
俺はこうなることを知っていたのかもしれない。
やつは言いがかりをつけてきた、いつものように。
「お前なんなんだよ、俺の家なんてどうでもいいだろ!」
シカトもできたが、言い分を聞いてやることにした。
今後の人生のためだ。
「………うそつき」
「何がだ………」
「うそ、うそ、うそだ」
そいつは言う。
人の見た目をどうこう言っても始まらないが、ひどい目だった、それは間違いない。
「全部知ってるぜ、テツよぉ、お前が嘘つきだってこと。お前ん家だってもう終わってるくせに、人生面白いことばっかじゃないってわかってるくせに、お前が一番全部わかってるくせに、人を笑わせている」
その後も―――、同じような、ことを、言い続ける。
結局のところ、だから何だということだ。
「………何が、悪いんだ、それが」
ニヤニヤする、クズ。
………まてよ?
お前ん家も、だと?
俺は視線を切った。踵を返す。
「シカトかよ、オイ!」
「ああ、そうさ」
「本当に逃げるの上手いな、お前!」
ぎゃんぎゃん吠える犬。
これも最後かと思うと―――少し、心に引っかかるものもあるが。
「………逃げるどころじゃねえんだよ、いなくなるんだ」
そう言ったら、奴が怪訝な顔をした―――のかもしれない。
背中側にいるからわからなかった、だが狼狽えたか、静かになったので少し嬉しかった。
いや、安心した。
俺はシカトするんじゃねえ、教室から、マジでいなくなるんだぜ、これから。
笑っちまうだろ。
俺だって何でこんなことになってんだか。
あいつも不幸だ。
この話は―――不幸比べだったらしいと、俺は悟って、終わりにした。
といえば格好はいいだろうが、上手い返しが思いつかなかった。
下手にこいつを挑発し傷つければ後味が悪い。
俺が綺麗に―――少なくともクラスメイトの前では綺麗に、引っ越すのに、必要。
必要な無視。
「シカトどころじゃねえ、いなくなるんだよ―――」
それは、ゆっくりとトーンが下がる………自分でも驚くくらい、そう、大人びた声色だった。
そのあとは、家で、皿をぶち壊した。
「くっ、くそがぁ!」
鋭い音は。
初めて聞く音ではないから、それほど驚きもなかった。
まあ心情では―――。
まだ大丈夫だ。
誰かを殴るよりはましだ。
まだマシだ、と言い聞かせる自分がいた
思えば、アマの言うことには何にも、怒る要素はなかった。
あれは勉強方法としては正論なのだろう。
だが、俺は限界だったのだ。
家の中のことも、そうだったし。
「お前にはわかんねえ!わかってねえ!わかんねえだろ!どんだけ勉強しようが、この中学を一緒に卒業することすらできねえんだよ、俺はぁ!」
アマ。
あの男の―――あの笑顔。
つまんねえことで悩んでんじゃねえよって、言う。
それは世間でよく推奨されている、笑顔で、前向きに生きるということ。
正解だった。
今の自分には絶対にできない表情だった。
殴られるより、きっと、痛かった。
「この中学を、くっそ、こんな普通のこともできなくて悪かったな!」
皿は割れるが、飛び散る陶器の音が、俺の頭の中よりも、でも、まだ静かだった。
ああ、俺は自分が不幸だってことを知っていたさ。
でも。
「お前が――――そういうことを言わなければ、俺は静かに、いなくなることができたんだ」
こんなにいらいらしなくて済んだんだ。
もっとスマートに行けたんだ。
アマ。
俺は不幸だが、不幸だと知っているが。
プライドはある。
お前らの邪魔をするつもりはなかったんだ。
俺だってやることやってるんだ。
「お前がなぁ、くそ、俺だって。本当は―――」
俺だって、本当は………!
本当にやりたいことは---!
そう、俺は、自分の気持ちを、知った。
突きつけられた。
だが、それでもやることは―――変わらない、変われないはずだった。
転校は、俺みたいな男子中学生が騒いだところで、変わらない。
俺は被害者を気取りながらも、黙々と、次の準備をしていた。
黙々と、クラスメイトを裏切る準備―――仕方がなかった。
アマ。
言い返せなかった。
会話が長引けば「面白い話」からは遠ざかることが明白だった。
だが………お前は結局のところ、人生のことをわかっていない。
人生に終わりがあるってことを、わかっていないから、そんな笑顔が作れる。
お前の目は子供みたいに綺麗で、残酷だ。
強烈な光を、体中に浴びているような気分になる。
それに反撃すれば、俺は悪者だ。
酷すぎる。
楽しいことばかりじゃねえ。
お前、幸せそうだけれど、そんなの嘘っぱちだ。
楽しいことなんて、ねえ。
教室、みんな幸せそう。
俺も、笑っているけれど。
空気を壊さないために。
それが『良いこと』だから。
でも楽しいことなんて、本当はない。
楽しくない。
俺の婆ちゃんは死んだ。
死んだし、大切な人が死んで、いなくなってから、おかしくなる人間はいる。
居場所が変わることもある。
俺が楽しそうに見えたか?
アマ。
お前が、まだ知らないだけなんだ。
確かに俺は、お前に劣っている人間かもしれない。
だが、お前は無知だぜ。
笑えるくらい。
いつか気づくだろう、お前も。
人生はお前の都合で決まらない。
お前の思い通りにはいかない。
俺の思い通りにも―――いかなかった。
………そもそも、俺の人生だ。
お前は関係ない。
お前は―――俺と偶然同じクラスになっただけだ。
いただけだ。
お前の笑顔、まだ何にも、『人の死』を知らない笑顔。
俺には宇宙人のように思えた。
俺が皿を割ったことは、じいちゃんも、見ていた。
知っていた―――はずだったが何も言われなかった。
何も感じなかったのか?
母親はそれも、いつもの通りだと感じ、片付けた。
次の日、じいちゃんがいなくなった。
探せ、と親父は帰ってきてから言った。
俺と弟は動けない。
しぶしぶ―――ではなく、純粋にどう探せばいいのかわからない、という想いで、足が動かなかった。
そもそも、一人になりたいときくらいあるのではないか―――。
そっとしてあげればいい。
親父は冷たい目で睨むが―――。
親父の態度にも、言いたいことはあった。
そもそも。
あんたが引っ越しの伝え方ををミスしたから、じいちゃんはこんなことになっているんだ。
強引なんだよ。
誰から負の連鎖が始まったか、わからないのかよ。
と、言っても口の悪さは俺も同じ---親から譲り受けてしまったものらしく。
だから何も言えない。
まあとにかく、俺がここで何かを言えば、親父と祖父の喧嘩が、親父と祖父と息子の喧嘩になるだけだということは、わかってきた。
友達の家、知り合いを当たろう、と思って親父にそれを聞いた。
そこで、ふと気づく。
友達と別れるのは、俺だけではない。
じいちゃんも、一緒なのか、と。
だが気づいただけで、深く考える余裕はない。
俺、そんなに悪いことしたのかな。
そんなに俺………俺は無能なのか。
それとも、人生って本当はこんなのなのかな。
これが、大人に近づくということなのか?
大人になれば―――俺は、だんだん強くなれるものだと、思っていた。
信じていた。
しかし、そうではない、今回は。
そんな想いで、俺はじいちゃんに追い付いた。
俺が探し当てたのは―――見つけたのが俺で良かった。
親父だったらまた怒鳴り声を張り上げるだけだ。
「じじい、いい加減にしろ」
………騒ぐことでもないだろう、歩いただけじゃ
「みんな心配してる」
と、言ってはみたもののあきれ果てているというか。
「―――じいちゃん、さ。やかんに火を点けっぱなしにして、忘れてるよね。俺知ってるぜ」
………。
「料理なんてしなかったくせに」
………。
「昔、料理をしてたのは、一番していたのは婆ちゃんの、ほうだったよな」
………テツ、儂は、人の気持ちがわからん。
「………」
………でも、いなくなってから―――やはり、忘れたくないんじゃ、考え直したいんじゃ。結局わからんがな、あいつが何を想っていたか---。
感傷があった。
俺の家の関係は、険悪だ。
だが、血も涙もないわけではなかった。
最悪な家庭ではない―――と、少なくとも俺は、心の底から思っていた。
人の心は持っている。
そういう家だと―――思っていた。
人の心があり。
だから悲しみがあり。
じいちゃんが………悲しみを背負っているのなら、俺も背負った。
家族が抱えている問題は、俺だって、いくらでも抱える覚悟があった。
俺の家庭を知れば、馬鹿にする人間も、それはいるかもしれないが。
憐れむ人が多いだろう。
でも。
ただの暴力ではなかった。
血も涙もないのはむしろアマじゃないか、人の家のことを知らずにあんなことを言って。
「………じいちゃんが最初に、親父と喧嘩したとき、俺は自分の部屋にいて、聞き耳を立てていた」
じいちゃんが顔を上げる。
「引っ越しをつぶせ、と思っている自分も、いた」
いいぞじいちゃん、もっと言ってやれ、そう、思う自分がいた。
勝手に物事を進める親父が嫌だった。
最初は―――こんなことを突然決められても、どうすればいいかわからなかった。
「やっぱり、考えなきゃならないことが多すぎて―――ただ」
ただ、死んだ婆ちゃんは、今のこの家を見たとしても。
家族を見たとしても。
喜んではいないと思うよ、今のざまでは―――と、あるいはいえばよかったのかもしれない。
ああ、そうじゃーーーだけど、この家を捨てていくなんて。死んだモンだと思って、簡単にきめやがった―――ふざけとる。
「引っ越しが―――不安なのは俺もだよ―――でもじいちゃん」
テツ、これは口出しすんな、お前は家庭ん中で一番わかいんだろうが。
「そういわれても、小学生の弟だっているんだがな」
………やめないと、いけないか。引っ越すのか。
じいちゃんは、本当の意味での認知症などではなかった。
ああ、そうさ。
病気よりも、もっとひどい。
単なる、情けない人間だった。
普通の人だった。
人を愛そうとして、上手く愛せないだけの―――普通の人だった。
「じいちゃん―――婆ちゃんは死んだんだよ」
何も知らない奴が言ったのではない、家族が、家族に言ったのだ。
じいちゃんは、それほど堪えたようには見えなかったが、視線を下げる。
儂は………わかっとる。
無駄じゃ、儂のやっていることは。
意味もわからない―――だけど―――だけど。
じゃあ、―――、どうなるんじゃ
俺は、少し、考えて………頷けない自分に気付く。
どうなるか?
どうなるかって。
「ど、どうって―――ひ、引っ越し先で、だから―――なにか」
じいちゃんの目に吸い込まれそうだった。
期待の光のようなものがない。
それはいうなれば、つまらないものを見る目ではないのだろうか。
何故か、冷や汗が出た。
俺は。
引っ越しがしたかったのかもしてないが、いやだったという気持ちもある。
いや、親父の言うことに従うのが嫌だったのだろうか。
親の何かに従うというのが、子ども扱いされているみたいでいやだった。
駄々をこねているだけ、なのだろうか。
何がしたかったんだ俺は?
引っ越しがしたかったのか、したくなかったのか?
何が望みなんだ。
もう、だいぶ前から、わからない。
苦手だと感づいていた文化祭に集中しようとしたり、色々と、もがいた。
そう、何故俺は、慣れないことだとわかりながらも―――やめなかったのか。
俺にとって苦手で、谷瑞の足を引っ張りつつあると気づきながらも………。
それは、より嫌な事実をわすれるためでは、ないのか。
何かに打ち込んで、忘れようとした。
文化祭を、成功させる気が俺にあったのだろうか。
………自信がない。
そもそもやりたかったのだろうか。
滝川たちの煙草の件を、やめろ、と言ったのは―――あれは、本当に、滝川たちのことを想ってのことだったのか?
教室の治安を守りたかったのか?
心の底から、やりたかったことなのか?
そんなわけがない。
俺はそんなことのために生まれてきていない。
一番やりたかったことではない。
俺は―――何か重要なことを、忘れられる時間を増やしたかったのでは、ないのか。
多くが上手くいかず―――アマとも喧嘩して、結局、結果は変わらない。
俺は努力をして―――努力に似た、しかし偽物の、何かをして―――残ったものは、何もない。
「そして―――」
引っ越し先、どんな奴らがいるかもわからない、どんな奴らがいるかもわからない場所に、今から入って。
学校………教室だけではない、部活もそうだ。
中学二年生の終わりに、違う部活に入ったりすることに必要とされる勇気………それまで、考えたこともなかったが、急に息苦しくなってきた。
そして、それで、何が手に入る。
俺は、それでも何かが見つかる気はしていたが、言葉で説明できなかった。
前向きに生きる―――と言っても何をすればいいか。
前向きに流されるだけだ―――自分で決めた未来ではない。
俺は強くなっていない。
「と、………」
どうなるんじゃ、テツ。
「とにかく―――やるんだよ、わからないけど」
じいちゃんは、少し目を細めるだけ。
あきらめた。
突然の引っ越しのことを、あきらめたし。
俺から素晴らしい案が出るのを、かもしれない。
儂は―――ここまでされるようなことをしたか
一人じゃ………。
爺ちゃんが呟く。
何がだ、と思った。
何をいまさら。
俺だって一人だよ。
家に帰ると、谷瑞から電話が来た。
このタイミングだ、俺の家庭のことかと身構えたが、そうではないようだ。
委員会のことだった。
単なる、普通のミーティングだ。
実行委員長の俺と話すようにとのことだったが、俺は---。
「アマに任せる」
と、言った。
視線を落とし、あきらめるように。
思いのほか、はっきりとした声が出た。
子供のころには絶対に言わなかったような、しかし、現実を知った―――人生を知った俺の、言葉だった。
やれる自信がなかったのは―――嘘偽りない、真実だった。
いや―――そもそも、文化祭のことに興味を持てなくなった。
何故だろう。
文化祭は二の次だと、感じた。
もっと大切なものがあった。
「アイデアは、話したし………文化祭については、今何をやっているか、アマは―――あいつだってよくわかっているはずだ」
谷瑞は困惑し、俺を説得しようとした、してくれたのだが―――もういい。
疲れた、というよりも、みんなの前でいつものテツでいる自信がなくなった。
面白いテツでいる自信が、無かったのだ。
次の日から、学校に登校したが、俺はもう何もしなかった。
誰の邪魔にもならないように―――ただ、尽くした。
それからも、警察に捕まったことなど、あったが―――夜に歩くことくらい勝手だろう、と思った。
別に今更、何も感じなかった。
それがあろうとなかろうと、俺は幸せになれなかったように思う。
誰かを幸せにすることも、できなかったと思う。
学校に行くのをやめた。
家のことは嫌いだったが、それはもちろんだが、今の自分をアマに見られるのが嫌だった。
それが一番大切だった。
中学生の頃の俺は、そう、心の底から思っていた。
アマだけじゃない―――クラスのみんなに、迷惑までかける気にはならなかった。
学校に行かないのは、手っ取り早い方法だった。
この頃は―――じいちゃんを、そして親父のことを考えた。
じいちゃんは、大切な人を失い、そして住み慣れた土地からも離れる―――単なる被害者だと思った。
認知症だ―――と、言って擁護した。
真実は―――実際、あの人にそういう症状はあった。
だがそれ以上に、単なる弱い人だ。
あんな可哀想な、弱い人を―――これ以上責めることはできないと思った。
だが、放っておけないとも思った。
アマのことや、カツアキに関して、悩んだ。
俺はタバコの点け方を何とか覚えながら、ずっと考えていた。
そう、これ以上格好をつける必要はない。
事実を言うと、俺はタバコを吸った。
理由は特にないが、しいて言えば面倒になった。
何もかも。
面倒なことを一生懸命やって、その結果、いいことはなかった。
どうせ委員長には、『そういう奴』だと思われているようだし。
流石にひどすぎる。
もういいじゃあないか。
………いや、これは違う。
タバコは吸ったが、だが、頭の中ではいろんなことがぐるぐると、まわる。
タバコを吸っているからと言って、タバコのことを考えているわけではない。
こんな不良じみた真似をして、その理由は。
理由はと、聞かれることはなかったが。
―――なんとなく。
と、言いたいところだが。
俺は冷静で、クレバーだった、気がする。
馬鹿な、と思われるかもしれないが。
出来るだけ、学校の人間から嫌われたかった。
そういう意図があった。
この学校を『終わらせる』ことで、そうすることで、次の学校に集中したかった。
ひどい人間だ。ガキだ。
だけど学校だってひどいだろう?
みんな、結局のところ俺のことを好きではない。
勉強はしていたし、授業中は大人しくしていたつもりだが。
何か意味があると信じて通っていた奴は馬鹿を見る。
この時は本当に、心の底からそう思っていた。
………。
アマ。
あいつは、タバコを吸っている俺を見て、どう思うだろう。
嫌悪するだろうか。
どうしようもない奴だと、思うだろうか。
あいつには嫌われたかったなぁ………すごく。
これ以上あいつの近くにいて、別れるときに泣くのは御免だった。
嫌だった。
別れるとき―――あいつに、自分が何を言い出すか、言ってしまうか―――怖かった。
アマをどう傷つけるか―――傷つけてしまうのか、わからなかった。
「タバコを吸ったからなんだっていうんだよ………」
アマと別れる。
皆とも。
同じじゃないか。
色んな努力を―――した気がする。
すべて無駄だった。
「アマに何も返せない時点で………俺は終わりだ」
アマ。
アマ―――お前なら、お前ならなんとかできたのか、この状況で。
何か上手い手を思いついたのだろうな。
テストみたいに問題を解くように、解決したのだろう、そしてへらへらと笑うのだろう。
お前は人生について、人間が生きたり死んだりすることについて、そういう風に―――進めるのだろう。
効率を重視し。
だって頭いいもんな、お前。
そして俺はクズだもんな。
………生まれた家の、差なのかな。
最初から、俺には無理だったのかな。
………でも、じゃあ、俺。
学校で、教室で、どうしていればよかったんだよ。
本当にわからないんだ。
苦手なんだよ。
最初から。
だから、得意になろうと努力はしていたんだよ。
アマ。
お前みたいになれたらいいのに―――、と。
思っていたことも―――あるんだぜ?
タバコの煙には、慣れつつあった。
それは美味しかった。




