天保の改革の失敗
水野忠邦は大奥の綱紀粛正にも手を出している。
11代将軍の徳川家斉が大奥を拡充して多くの側室を娶り50人以上の子供を作った。
そして大奥は最盛期となり幕府の権力者でもおいそれと手を出せないものになったのだ。
12代将軍徳川家慶も家斉には及ばないまでも子沢山であった。もっともその子の大半は成人する前に死んでしまい成人したのは人見知りで障害のある徳川家定のみであるのだが。
大御所徳川家斉が亡くなり天保の改革が始まると水野忠邦は大奥の粛清を狙っていた。
そして天保12年に感応寺の僧と大奥の密通スキャンダルを手に大奥の取調べを始めたのだ。
この時に大奥と直接対決をしたのが寺社奉行の阿部正弘である。
水野忠邦は阿部正弘を信頼して大奥の手入れを任せた。これに応えて阿部正弘は感応寺を潰して大奥の勢力を一新させた。
ところが大奥というものは複雑怪奇である。この事件は大奥の政治闘争にも利用されていた。
阿部正弘は大奥の権力者の姉小路と組んで彼女の派閥には手心を加えていたのだ。
また、阿部正弘は若く二枚目であり大奥の女性たちから非常に人気があった。
阿部正弘は自分がどう見えているか分かっている。そしてその外見を最大限に利用する術を心得ていた。
姉小路と大奥はすっかり正弘のファンになっていた。大奥の権力は絶大である。大奥から将軍家慶に正弘は推挙されることになる。そして家慶も正弘に信頼を寄せて異例の出世を遂げることになるのだ。
大奥の綱紀粛正を狙った水野忠邦であったが、結局は大奥の政治闘争に手を貸しただけであり根本的解決に至っていない。
この事件では阿部正弘が大奥の支持を取り付けて出世の糸口を掴んだだけとなった。
倹約令も結果が出ずに海防強化するにも有能な人材を自ら弾圧していた。
そんな中で水野忠邦がもっとも力を入れていた政策が上知令だった。
江戸や大阪の周囲の大名・旗本の領地を幕府の天領としようという政策だ。
異国の脅威が高まっている状況で重要な土地を幕府の天領とすることで、いざという時に防衛する際の効率を高める狙いがある。国防に必要な政策だった。
江戸と大阪の土地を幕府の天領とすることで有事の際に迅速に防衛行動を取れることがある。幕府の財政面に対する利益もある。領地を奪われる大名・旗本さえ納得させることが出来れば幕府にとって有益な政策である。
だが、水野忠邦は根回しが十分でなく強引に進めるには幕府の威信は昔ほど強くなかった。
御三家の尾張藩の飛び地が上知令で召し上げられそうになると尾張藩は激しく抵抗した。水野といえども御三家に逆らうことは出来ずに彼と協力して尾張藩と戦う気概のある幕臣はいなかった。
水野忠邦は尾張藩の土地を特例として上知令から外すことにする。
そうすると他の藩から次々と自分のところも例外にするようにと圧力がかかってきた。収集がつかなくなり最終的に水野忠邦は上知令を撤回させるを得なくなった。
水野忠邦が政治生命をかけて断行しようとした上知令が失敗したことで、水野忠邦の求心力が一気に低下することになる。それまでの強引な政治に対しての不満も一気に噴出する。
そんな中で水野の腹心として様々な政策に関わってきた鳥居耀蔵が裏切った。
これまでの政策における機密文書を水野の政敵に渡したのだ。
そして老中の土井利位が反水野派のまとめ役となり水野忠邦を追い落としたのである。
天保14年(1843年)閏9月13日、水野忠邦は罷免されて天保の改革は失敗に終わったのである。
水野が失脚して代わりに老中首座の地位についたのは土井利位だった。
政策は天保の改革を継続し、米相場を利用して幕府財政を一時的に黒字にもした。
有能な老中だったと言えなくも無い。
そして水野と入れ替わるように老中となったのが阿部正弘である。
25歳という異例の若さでの老中就任だった。これには大奥と将軍の推挙があった。




