天保の改革
天保12年(1837年)に大御所・徳川家斉が亡くなった。
隠居後も権力を手放さず側近らを老中として幕政を取り仕切っていた家斉が死んだことで将軍・家慶が実権を握ることとなる。
家慶は老中首座となっていた水野忠邦の後ろ盾となると家斉の側近だった者らを次々と粛清した。
そして幕政改革を始めることを宣言する。
これが天保の改革である。
天保の改革は質素倹約を基本とした。
財政支出を減らして幕府財政の再建を目指すものだ。
それは将軍から武士だけでなく町民にまで徹底されることになる(大奥は対象外となった)。
更に出稼ぎに江戸に出てきた農民を農村に帰す人返しの法。株仲間(同業の商人の組合)の解散。
このような政策を始めていた。
この政策に反対していたのは江戸町奉行の遠山景元と矢部定謙の2人である。
2人は町民に対する倹約令は不景気を招くと考えていて、水野が発する倹約令を徹底させないでいた。
水野忠邦は株仲間は商人が結託して物価を上昇させるものだと考えて解散を命じていた。
それに対して遠山と矢部は同業者である商人が情報交換して効率よく商売するもので株仲間を解散させると商業が混乱してしまうと考えていたのだ。
水野忠邦は遠山と矢部の2人を自分の改革を邪魔する者だと考えた。抵抗勢力であるので省かなければならないと強く思う。しかし、2人とも有能であり家柄も良い。強引な排除は混乱を強くする。
そういうことでより強行で頑固な矢部定謙を目の仇として排除を決めたのだ。遠山景元も不興を買って将軍への拝謁を禁止されるなど処分を受けたが重いものではない。
そこで出てきたのが鳥居耀蔵である。人を陥れることに定評のある鳥居耀蔵は矢部に冤罪を擦り付けて罷免させてしまう。訴える鳥居と裁く水野が組んでいるために矢部にはどうしようもなかった。
憤慨した矢部定謙は抗議の絶食をする。そして意地を貫いて餓死してしまった。
矢部定謙を追い落とした鳥居耀蔵は後任の江戸町奉行に就任してしまった。
鳥居耀蔵は密告を推奨し華美な贅沢を取り締まった。その容赦の無い取締りに水野は感心して鳥居を重用することになった。
この時に江戸の庶民を守ったのがもう1人の町奉行である遠山景元だ。彼は若い頃に家出して庶民として生活していたという経歴を持ち民衆の気持ちが良くわかっていた。若い頃の過ちで刺青をいれていたとも言われている。時代劇で有名な遠山の金さんのモデルだ。
鳥居耀蔵は江戸庶民に嫌われて妖怪と呼ばれるようになり、遠山景元は江戸の娯楽を守ったことなどから芝居の題材にされて後世まで名奉行として名が残った。
水野忠邦は海防政策にも力を入れていた。
西洋砲術の第一人者である高島秋帆を西洋式軍備の教授に任命している。幕府の軍備の近代化を目指していたのだ。
江川英龍も高島秋帆から学び高島流砲術を修めている。




