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3/12

父の手帳

グランの家の扉が、半分開いていた。


カイが拳を上げる前に、中から声が来た。


「入れ」


待っていた。扉が開きっぱなしなのは、来ることを知っていたからだ。カイは手を下ろした。朝露の残る石畳に足を踏み出した。石の感触が足の裏に返ってきた。砂岩の粒。冷たさは昨日より少し緩い——日が高くなってから来たからだ。


石畳の隙間から草が出ていた。縁が黄ばんでいる。道の向こうに軒の落ちた建物が二棟見えた。窓だった穴が空に向いたまま、閉じられていない。人の気配のない廃村の朝だった。


扉を押した。




グランは卓の前に座っていた。椅子ではなく、石を積んだ台に木の板を渡したものに腰かけている。高窓から初夏の光が差し込んでいた。光の帯が卓の上に落ちて、そこに置かれたものを照らしていた。


革表紙の手帳だった。


カイは一歩入ったところで止まった。扉が背後で閉まった。手帳が目に入った瞬間、足が止まったのは自分でも分かった。止まった理由を考える前に、止まっていた。


「座れ」


グランは顎を卓の前の椅子に向けた。カイは歩いた。椅子に座った。


手帳は卓の中央に、光の中に置いてある。革表紙。背に細い革紐が巻いてある。厚みは親指の幅くらい。使い込まれた革の色は、黒に近い茶色だった。


カイは手を出さなかった。


手を出す理由はある。出さない理由もある。どちらを選ぶか一瞬考えて、そのまま待つことにした。


「親父のものじゃ」


グランは言った。


「知っている」


カイはそう言ってから、違うと思った。受け取ったことのない手帳を「知っている」と言ったのは、反射だった。一秒考えて、訂正しなかった。知っていない。自分が持っている手帳とは別物だ——自分が親戚の家から持ち出した手帳も革表紙だが、もっと薄い。あれは走り書きが数ページ入っているだけだった。目の前の手帳は厚みが違う。中身が、多い。


「これは」


「わしが預かっていた」


グランは卓の上の手帳を一度だけ指で押した。軽い動作だった。だが指を離したとき、わずかに速く離した——長く触れていると、何か来るものがある、そういう速さだった。


「二十年前、親父がここを去るとき、渡された。『いつか息子が来たら渡してくれ』と言って」


カイは何も言わなかった。


「二十年待った」


グランは言った。それだけだった。


グランの手が石台の縁に置かれた。指が縁を一度だけ押した。それで終わった。




「父は何を言っていましたか」


カイは聞いた。


グランは目線を上げた。卓の向こうから、カイを見た。


「何を、とは」


「去るとき。手帳を渡すとき以外に」


グランは少し黙った。顎が動いた——言葉を選んでいるのではなく、戻っているような間だった。


「『息子に渡してくれ』とだけ言った。それ以上は言わんかった」


「息子がここへ来ることを、知っていた」


「知っていたのか、願っていたのかは分からん」グランは首を少し動かした。「わしには区別がつかなんだ」


カイは黙った。二十年前の父が、どちらの顔をしていたのか。それは今の自分には分からない。


「読んでいいですか」


「読め。そのために呼んだ」




カイは手帳を取った。


革表紙が手のひらに乗った。重さが来た。想定より重い。指先が革の表面を一度押さえた——動かなかった。紙が詰まっている重さだった。革紐をほどくと、糸で綴じられた紙の束が広がった。羊皮紙ではなく、麻の繊維を漉いた紙だ——羊皮紙より安く、丈夫で折り目に強い。長く保たせるつもりで選んだのだろう。実際二十年持った。判断は正しかった。


表紙を開いた。


最初のページに、細かい字が並んでいた。


 ハルム丘陵測量記録。センの記。


日付が入っていた。二十年前の春の日付だ。カイが生まれる前だった。


次のページに、図面があった。


粗い図面ではなかった。丁寧に引かれた線が、ハルム丘陵の輪郭を描いていた。等高線が入っている。距離の尺度も入っている。岩盤の推定ラインが点線で入っていた。カイが今持っている地図の書き込みより、精度が高かった。


「……これか」


声が出た。自分でも気づかなかった。


手が動いた。腰から自分の地図を取り出した。並べた。


父の図面と、自分の書き込み地図。


光が両紙の上に落ちた。カイの手が止まった。止まったまま、動けなかった。


重なる部分がある。岩盤の推定ライン——自分が足裏で感じて引いた線と、父が二十年前に点線で入れた位置が、ほとんど同じだった。西の岩盤境界点——カイが昨日、地盤の固さが急に変わると感じて印をつけた一点が、父の図面にも黒い点で記されていた。同じ点だった。


父も、ここに立った。同じ石を踏んだ。


視線が紙から離れられなかった。剥がす理由が、なかった。指先が父の点線の上に乗った——押さない。ただ触れた。二十年前の線が、今日の自分の線と一点で交わっている。それが事実だった。呼吸が一拍、遅れた。


「どうした」


グランが聞いた。


カイは顔を上げなかった。


「父の図面と、自分の書き込みが重なっています」


グランは何も言わなかった。部屋の光が変わらなかった。空気の温度も変わらなかった。だがそれが、返答だった。


沈黙が落ちた。初夏の光が、二枚の地図を並べて照らしていた。




「読んでいい」


グランは言った。


カイは読んだ。


父・センの記録は、最初の三分の一が地形の測量データだった。丘陵の各地点の標高、岩盤の出る深さ、地下水位の推定、三街道の勾配と幅。数字と図面が交互に並んでいる。


手帳のページを捲るたびに、指の腹が紙の端を触れた。二十年分の時間の感触があった。紙は乾いていたが、ところどころインクの染みが滲んでいる。測量中に雨に当たった跡だろう。父もここを歩いた。同じ雨の中を歩いた。


中盤に差し掛かると、文章が増えた。


 三街道の合流点としての戦略価値について記す。北よりノルド帝国への街道、西より王都への街道、東より鉱山地帯への街道——この三街道が一点に集まる場所に、現在廃村がある。廃村の状態は看過できない損失である。


父はそう書いていた。


カイは続きを読んだ。建物の配置案が図面で入っていた。宿屋の位置、交易のための倉庫の位置、道を守るための城壁の初期設計。数字が入っている——石材の量の見積もり、必要な人員の計算、完成までの工程。


細かい。


父は細かく計算していた。


自分も同じやり方をする。どこで覚えたかは分からない——いや、分からなくはないが、考えると別の話になる。今は測量がある。


工程の最後に、一行だけ違う筆圧で書いてある。


 急いだのは、ここが「今」でなければならないからだ。


その行だけ、インクが少し濃かった。書いてから、もう一度なぞったのかもしれない。


カイの手が止まった。


視線が一行の上に固定された。呼吸を一つ、した。


その一行を、もう一度読んだ。「今」でなければならない——父が二十年前に急いでいた。追われていたのか、見えていたのか。指先が紙の上で止まった。インクの筆圧が、二十年前のまま凹んでいた。


「……急いでいたのか」


声にはならなかった。




末尾まで来た。


上申書の写しが綴じてあった。


父が王都へ送った上申書だった。ハルム丘陵の開発を提言する文書。冒頭に日付があり、末尾に父の署名がある。字は整っていた——手帳の本文は走り書きが多いが、上申書の写しは丁寧に書かれていた。これは正式なものとして残したかったのだと分かる。


カイは上申書の写しを最後まで読んだ。


末尾に、空白の欄があった。


型押しの文字で「承認署名欄」と刻んである。版木で押したような、角張った字だった。


その欄に、薄いインクの跡があった。


インクが、あった。かつて何かが書かれていた。ただし滲んでいる。羽ペンで書いたものに何かがかかったのか、あるいは時間で薄れたのか——字の形が読み取れなかった。名前の可能性があった。丸みのある線が、かすかに残っていた。


誰かが署名した。その後に、消えた。あるいは消された。


カイは欄を指でそっと触れた。


冷たかった。紙の温度のはずなのに、指先だけが熱くなっているような感覚だった。薄いインクの跡は、指先にかすかな凹凸として感じられた。書かれた文字は凹む。ページに圧力がかかった跡が残る。それが分かった。文字の形は読めない。だがそこに何かが書かれたことは分かった。


数秒、指を動かせなかった。


熱い。指先だけ。紙は冷たいのに、触れた箇所だけが熱を持っていた。


手を引くのに、少し時間がかかった。


凹凸があった。誰かが押した羽ペンの跡が、紙の中に残っていた。経年で消えるのは、インクだ。紙の凹みは消えない。——消したのは、誰かだ。カイはそう判断した。判断した直後、確かめる手段がないことも分かった。消した側が、あの日わざわざ戻ってきた。そう考えると、一人の人間の影が浮かんだ——だが今は、名前がない。


「消された」


手を引いた。




「読んだか」


グランが言った。


「はい」


「どこまで」


「全部」


グランは黙った。木の台の上で体が少し動いた。重心を移した。それだけだった。


「末尾の署名欄は」


「見た」


「読めるか」


「読めません」


グランは頷いた。頷き方が短かった。これ以上は言わない、という頷き方だった。カイも聞かなかった。読めないものは読めない。数字は今持っているものだけで動かせばいい。


「父が二十年前に来た」


「そうじゃ」


「この手帳を作って、上申書を出した」


「そうじゃ」


「上申書が却下された」


グランは答えなかった。


カイは待った。グランは卓の表面を見ていた。卓は石台に木の板を渡したものだ。石台の角は丸くなっている——長年、袖が当たり続けた跡だった。


「却下されたと聞いた」グランはゆっくり言った。「親父から直接聞いたのではない。後から分かった」


「分かったのはいつですか」


グランは少し黙った。


「親父が去って、半年後じゃ」


「何で分かったんですか」


「返ってきた文書があった」グランは石台の角を指でなぞった。一往復だけ。「却下の通知ではない。受理もされておらんという通知じゃった」


「受理されていない」


カイは手帳を握り直した。革紐が手のひらに食い込んだ。


却下なら、一度は読まれた。理由を添えて戻ってくる。だが受理されていないというのは、読まれてもいないということだ。存在を消されたも同然だった。この国の担当官には、書類を読まずに受け取り拒否できる権限があるらしかった。便利な権限だ、と思った。思ってから、便利ではないと訂正した。胸の内側で何かが一枚、冷たく収縮した。感情ではない。判断が変わった感触だった。抗議先がない。証拠は消えた。書き直しても同じ担当者に戻る。


「王都には届いておった。だが担当の者が受け付けなかったということじゃ」グランは指を止めた。「理由は書いてなんだ。わしには分からん」


「受け付けなかった理由が、ない」


「書いてなんだ。それだけじゃ」


理由が書いていない拒否は、理由のある拒否より始末が悪い。理由があれば対応できる。書いていなければ、相手が何を考えていたのかが永遠に分からない。カイはこの手の書類を過去に一度だけ受け取ったことがある——追放状だ。あれも理由は書いていなかった。この国の公文書は、理由を書かない方向で統一されているらしかった。


部屋の外で風が動いた音がした。それだけだった。


カイは何も言わなかった。手帳を卓に戻した。革紐を元に戻した。手の中から手帳の重さが消えた。消えた分だけ、何か別のものが胸の辺りに来た。重さではない。感触のないものが来た。


「親父が来たときも、わしは今と同じ場所に座っていた」


グランは言った。


「同じ石台か」


「同じものかは分からん。三度組み直した。だが同じ場所に座っていた」


カイは台を見た。石は積み直されても、場所が同じなら同じだ。この基準で言うと、石垣も補修すれば「同じ石垣」と言える。建て直す側にとって、なかなか便利な考え方だった。


「二十年間、ここにあったんですか」


「そうじゃ」


「この手帳が」


「そうじゃ」


グランは短く答えた。それ以上言わなかった。二十年間、手帳をここに持っていた。誰が来るのかも分からないまま、待った。そういうことだ。




カイは立ち上がろうとした。


「持っていけ」


グランが言った。


カイは止まった。


「お前の父が遺した。お前が持つべきじゃ」


カイは卓の上の手帳を見た。革表紙の重さを、さっき手のひらで確かめた。自分の手帳より厚い。父が二十年前に作ったものだ。


「あなたが二十年持っていたものを」


「そうじゃ。だから今渡す」


グランは顔を上げなかった。卓の表面を見ていた。


カイは手帳を取った。


革紐を巻き直した。腰に差そうとして、止めた。腰にはすでに自分の地図と測量紐がある。道具袋の中に入れた。革袋の口を絞った。父の手帳が道具袋の底に収まった。道具袋が、少し重くなった。


「ありがとうございます」


グランは何も言わなかった。


カイが扉に手をかけたとき、背後で声が来た。


「親父と同じ目をしておる」


振り返らなかった。


「そうですか」


「そうじゃ」


扉を開けた。




外に出た。


空気が冷たかった。朝の湿り気がまだ残っていた。初夏だが、丘陵の朝は冷える。


カイは道具袋を肩に掛けた。父の手帳が底にある分、重心が下がった。重さが肩から背中を通って腰まで落ちてくる。道具袋の革紐が肩に食い込む感触が、いつもと少し違った。


歩き出した。


頭の中は静かではなかった。父の図面が残っていた。丘陵の等高線と岩盤の推定ラインが、さっき見た通りに残っていた。自分が昨日書いた書き込みと、父の図面が、頭の中で重なっていた。


父も、同じものを見ていた。


同じ岩盤の線を、二十年前に引いていた。自分が足裏で感じた地盤の固さを、父は手帳の点線で書き残していた。


設計眼と呼べるものかどうかは分からない。ただ、父の線と自分の線が重なっていた。それは確かだった。


受理されなかった上申書が、また頭に来た。担当の者が受け付けなかった。理由は書いていない。


なぜ。


答えが出ないまま、足だけ動いた。




丘陵の北側まで歩いた。


父の手帳を午前中に読んで、午後には同じ場所を自分で測っている。感傷に浸っていても石垣は補修されない——これは至極当然の事実だが、当然のことをわざわざ確認するのが人間というものらしい。自分も含めて。


測量紐を腰から出して、石垣の残存部分の長さを測り始めた。手が動いた。紐が石の表面に当たる。ざらつきが手のひらに来る。砂岩の粒が皮膚に引っかかる。昨日も同じ感触だった。同じ石垣の同じ砂岩だった。


数字が出てきた。


北の石垣の現存長さ、損傷率、補修に必要な石材の量。父の手帳の設計案と照らし合わせれば、二十年前の見積もりと現在の状況のずれが出る。ずれを計算に入れれば、実際に必要な石材と人員が出る。


カイは頭の中で計算した。紐を次の測点に移した。石の角が手のひらを押した。


「急いだのは、ここが『今』でなければならないからだ」という一行が浮かんだ。測量紐が手の中で止まった。一拍だけ止まった。それを振り払うように、もう一度握り直した。石垣の角に紐を当てた。次の数字を入れた。


止まらなかった。


問題ない。来週には終わる。




夕方、グランの家の前を通ったとき、扉が少し開いていた。


中から音が聞こえた。石台の上に何かを置く音。椀か、道具か。扉の隙間から、灯火の黄色い光が漏れていた。影が一つ、動いた。止まった。——グランが何かを置いて、座り直した影だった。


カイは通り過ぎた。足が一瞬だけ遅くなった。気づいたとき、もう扉を過ぎていた。道具袋の底で父の手帳が揺れた。その重さが腰まで届いた。


グランが言った、「二十年待った」という言葉が、まだ頭にあった。


言葉の意味は分かる。二十年、手帳を預かっていた。誰かが来るのを待っていた。


分からないのは別のことだった。受理されなかったと知ったとき、グランは何を思ったのか。担当の者が受け付けなかった理由を、半年後に知った。理由が書いていないまま、二十年。——その間、手帳をここに持っていた。聞けなかったのではない。聞く問いが、まだ定まっていなかった。




宿舎にした建物に戻った。


土間に道具袋を置いた。道具袋の口を開けた。父の手帳を取り出した。


手のひらに乗せた。革表紙の重さが来た。


今日で三回、この手帳に触れた。最初は卓の上で受け取ったとき。次は道具袋に入れたとき。今度は土間に座って手のひらに乗せているとき。


三回とも、同じ重さだった。当たり前だ。重さは変わらない。変わらないことを三回確かめた。カイは自分がそういう人間だということを、この一年で理解していた。


だが手のひらの感触が、来るたびに少し違う。


最初は重かった。二番目は道具袋の口を絞るときに感じる底の重さだった。今は、ただ手のひらに乗っている。三回目の重さが違うのは、受け取った側が少し変わったからだ。手帳は変わっていない。


カイは手帳を膝の上に置いた。


明日また、測量の続きがある。北の石垣の東端まで測っていない。そこを終わらせてから、父の手帳の数字と照合する。岩盤の推定ラインを実測で確かめる作業も要る。


数字を頭に並べようとした。出てきた。だが続かなかった。目を閉じると、父の点線が来た——二十年前の手帳の等高線が、暗闇の中でそのまま残っていた。「急いだのは、ここが『今』でなければならないからだ」という一行が、数字の上に乗ってきた。消そうとした。消えなかった。


石の凹みのように、消えないものがある。


止まらない。続ける。


目を閉じる前、署名欄の凹凸が指先に戻ってきた。消えたのではない。消されたのだ。——誰が、なぜかは分からない。今は、まだ分からない。


だが凹みは残っている。インクは消えても、紙の圧痕は消えない。それを確かめる手段は——今はない。だが場所は分かっている。この丘陵の石の中に、二十年分の答えがまだある。明日、北の石垣の東端を測り終えたら、次の問いに手が届く。


土間の外では夜の虫が鳴き始めていた。カイは横になった。


背中に石の床のざらつきが来た。砂岩の粒。同じ感触のはずだった。だが今夜は、いつもより深くまで皮膚に食い込む気がした。


道具袋の重さが、少し増えていた。



あとがき: |

第3話です。グランから父の手帳を受け取る話を書きました。

手帳の末尾の署名欄——薄いインクの跡は、カイにも読めません。読者も読めません。誰が書いたのかは、まだ先の話です。

父が二十年前に引いた岩盤のラインと、カイが足裏で感じた地盤の固さが重なる瞬間——そこに全部入れたつもりです。

次話もどうかお付き合いください。

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