王城の視察
帳面の角が、掌に当たった。
ヴィルが差し出したものだった——薄い、片手に収まる帳面だった。表紙の革が擦れていた。ヴィルが走る間も袖の中に入れているからだった。カイはそれを受け取らなかった。机の上に置くよう目で示した。
「王城から視察官が来ます」
ヴィルの言葉が部屋に落ちた。
「日付は」
「七日後です。正確には——」ヴィルは帳面を開いた。「昨日の夜、移住者の一人から聞きました。王城の文書局に知り合いがいる男で——王城の商人として出入りしていた頃の繋がりだそうです。ハルムのことが評議にかかったらしいという話で、噂程度とは言っていましたが、視察官の派遣が決まった——それだけ確認しました」
カイは記録帳を出した。
七日。来週の半ばだった。
今日が何日目かを数えた。第二城壁の北東角では増し掘りが一昨日から始まっている——岩盤まで掘り下げる、石積み前の根幹工程だ。石積みの再開は三日後の予定だった。城門東側の基礎確認が明日に入っている。ヴィルが東街道の商人組合と交渉する予定が来週頭にある——それを前に動かすか、後ろに動かすか。
七日あれば城門東側は終わる。
「分かりました」カイは言った。「今の通りやります」
ヴィルは帳面を持ったまま動かなかった。前髪を一度払った。「カイさん、視察官に何を見せますか」
「数字を見せます」
「つまりこういうことですよね——記録帳の工程と、完成した部分の実測値を全部出す。嘘のない数字で案内する」
「それだけです」
ヴィルは帳面に何かを書いた。走り書きだったが、手が止まらなかった——ヴィルが次にやることを整理している手つきだった。
「視察官への説明は俺がやります。カイさんは図面と数字を持っていてください」カイが何も言う前に続けた。「王城の人間への言葉の出し方は、商家の方が慣れています。任せてもらっていいですか」
カイは記録帳に今日の日付を入れた。
「頼みます」
午前中にグランが来た。
増し掘りの現場から直接来たらしかった。作業着の膝に土がついていた。手ぬぐいで手を拭きながら、集会所の扉を開けた。
「視察官が来ると聞いた」
カイは机から設計図を出した。「はい。七日後です」
「ヴィルから聞いた。七日でどこまで終わる」
「城門東側の基礎確認を明日で終わらせます。北東角の増し掘りは四日かかります。石積み再開は三日後の予定です——視察の日までに一段は積めます」
グランは設計図の上に来た。老棟梁の目が城壁の全体図を読んだ——段数を見ていた。工程の進み具合を確認していた。
「北東角の増し掘りはわしが見る。石工を一人追加しろ」
「増し掘りの人員は今三人です」
「四人にしろ。一日縮められる」
カイは工程表を開いた。石工の名前を確認した。追加できる人員が一人いた。記録帳に人員変更を書いた。
「分かりました」
グランは設計図から目を離さなかった。城壁の北面、東面、城門の位置——順番に確認していた。カイはグランが何を見ているかを見ていた。老棟梁の目が止まる場所が、確認すべき場所だった。
「石材の手配は足りてるか」
「ヴィルが昨日確認しました。問題ありません」
グランは顎を引いた。承認の仕草だった。設計図から手を離した——触れなかった。目だけで確認して、目だけで終わらせた。
「視察官に見せるなら、今の段数で十分だ」
それだけ言った。集会所を出て行く手前で、グランは一度振り返った。
「飯は食ったか」
「まだです」
グランは鼻から息を出した。「ヴィルに言ってやる」
扉が閉まった。カイは記録帳に人員の変更を書き終えた。
ヴィルが戻ってきたのは昼前だった。
焼いた黒パンと干し肉を机の端に置いた。前髪を払いながら帳面を開いた。
「グラン爺に言われました」
「分かっています」
「分かっていて食べないのをグラン爺は怒っているんですよ」ヴィルは帳面から目を離さなかった。「東街道の商人組合との交渉は明日の朝に前倒しします。視察の前に資金の数字を揃えておきたいので」
「了解です」
「それと——」ヴィルは帳面を片手で持ち直した。指が表紙の端に固まった。「一つ、別の話があります」
カイは干し肉に手を伸ばした。聞いていた。
「移住者の中に、辺境伯の工作員がいます。北林の件とは別です——外からではなく、中に入り込んでいる」
手が止まった。
口の動きが止まった。
干し肉が舌の上にあった。噛めなかった。部屋の音が遠のいた——風の音も、外の石工の声も、すべてが一瞬だけ遠ざかった。
「確認しました」ヴィルは言った。声が低くなっていた。いつもの早口ではなかった。「三日前から気になっていた男がいます。移住者として先月から来ていて、仕事はしているんですが——動き方がおかしかった。夜に集落の端を歩く。城壁の壁際で止まって、段数を数える。昨日、偶然ですが北林、辺境伯領の方角に向けて何かを書いているのを見ました。紙の向きから、城壁を写し取っていると分かりました」
「何を書いていた」
「図です。城壁の形を書き写していました。紙を持っていて——俺が近づいたら隠しました」ヴィルは帳面の角を持った。声が一拍止まった。「……やっていいか迷ったんですが、今朝、その男が一人でいる時間を使って、宿の部屋を確認しました。このまま見ていてもいいのか判断するために——自分だけで動いてよい範囲を超えていると分かっていました」
カイは干し肉を口の中でゆっくり噛んだ。ヴィルが越権を自覚した上で踏み込んでいた。
「何が出た」
「紙の束が出ました。城壁の段数と高さの書き写し、移住者の人数の目算、出入りの商人の記録——全部手書きです。紙は戻しました。触れたことはばれていないと思います」
カイは炭筆を置いた。「次は先に言え」
「……はい」
ヴィルは帳面を持ったまま動かなかった。前髪に手が来て、止まった。払わなかった。帳面の角を握る指に力が入っていた——言うべきことを整理しているのか、答えを待っているのか、どちらかだった。
「どう動きますか」
カイは黒パンを手に取った。
「排除するな」
ヴィルの顎が少し上がった。帳面の角を握ったまま、静止した。唾を飲む動きが喉に見えた。カイの言葉の先を、頭の中で追っていた——消す、ではなく、使う。視線が机の隅に落ちた。何かを言いかけて、口を閉じた。
「監視しろ」カイは続けた。「毎日どこにいて、何をしているか。誰と話したか。記録してくれ」
「……排除しない、理由を聞いていいですか」
「向こうに何が見えているかを確認できる。消したら次の工作員が来る。今の男は、こちらが気づいていないと思っている」
ヴィルは帳面を開いた。書き始めた。手が早かった。前髪を払わずに書き続けた——監視計画の骨格を紙に落としている手つきだった。向こうに見せる情報を操作する。視察官が来ることも辺境伯の側に伝わるとしたら——
「有利です」
ヴィルは顔を上げた。
「視察官が来ることを辺境伯が知っている状態で、辺境伯が視察に割り込んでくるかどうかを見る。来るなら来て構わない——数字は揃っています」
ヴィルは帳面に書き続けた。一行、二行。書き終わってから、帳面を静かに閉じた。
「了解しました」
前髪を払わなかった。代わりに帳面を袖に入れた。
「工作員への監視は俺がやります。動きがあれば毎日報告します」
「頼みます」
ヴィルは立ち上がった。出て行く前に、一度机の上を見た——設計図と記録帳と、食いかけの黒パン。
「食べてください」
カイは黒パンを手に取った。ヴィルは扉を開けた。
昼過ぎ、カイは現場に出た。
北東角の増し掘りを見に行った。石工四人が掘っていた——グランが一人追加していた。グランは現場の端に立っていた。指示を出す必要がなかった。四人の動きが揃っていた。
カイは掘られた穴の縁に立った。
深さを測った。昨日より二寸深くなっていた。土の色が変わり始めていた——表土の茶から、岩盤に近い灰色に変わりかけていた。カイはその縁に膝をついた。指を穴の壁に当てた。
冷たかった。乾いていなかった。地下水脈の気配はなかった——ただ岩盤が近いときの湿り気だった。土が締まっていた。指先に来る圧が変わった。あと一尺ほどで岩盤に当たる。
「明日には届く」グランが横に来た。カイより一歩手前に立った。穴の縁には来なかった——膝のことを、誰も言わなかった。
カイはグランの足元を一度見た。古い傷のある右膝が、縁から遠い側にあった。老いを、老いと呼ばずに回避している。それだけだった。
「明日の午前中に測量します」
「ああ」
グランは掘っている石工の一人に目を向けた。「三番の男、削る角度が浅い」
石工が角度を直した。グランは何も言わなかった。正しくなったことを見た、それだけだった。
カイは記録帳に深さの数字を入れた。工作員の男については書かなかった——別の記録帳に分けるつもりだった。工程の記録と監視の記録は、別々に積む。
「視察官が来ることをご存じですか」カイはグランに聞いた。
「聞いた」グランは穴から目を離さなかった。「七日後じゃな」
「はい」
「何を見せる」
「建てたものを全部見せます。数字と一緒に」
グランは少しの間、何も言わなかった。増し掘りの音が下から上がってきた。土を削る音、石工の息遣い、測量紐が地面を引きずる音。
「案内は」
「ヴィルがやります」
「ヴィルか」グランは言った。「適任じゃ」
それだけだった。承認だった。カイは記録帳を閉じた。
夕方になった。
現場の音が一つずつ終わっていった。石工が道具を片付けた。測量紐が巻き取られた。グランの指示が終わった。
カイは集落の端を歩いた。
城壁の外から全体を見たかった。見張り台が二つ立っていた。城門が東と北に開いていた。第二城壁の北面が、今日の時点で三段積まれていた。北東角は増し掘りの途中で、まだ積み上がっていなかった。
頭の中で、図が開いた。
完成形が浮いた。第二城壁が五段まで積み上がった状態。北東角の張り出し部が完成した状態。城門の左右に射手台がある状態。石材の重さが地面に刻まれた状態——設計図の線が、岩盤の上に立っている。
足の裏から、その重さが来た。冷たかった。まだ土のままの外周を踏んでいたが、石の冷気が靴底を通してくる気がした。積まれていない石の重さが、もうここにあるような——岩盤がそれを待っているような、そういう感覚だった。
踏むたびに岩盤の気配が上がってきた。この丘は硬い。五段積んでも、十段積んでも、ここは揺れない。
その壁を、誰かが今夜も写し取りに来る。
段数と城門の位置。それだけだ。数字の中身が読めない人間に、この城塞の意味は届かない。
七日後には北東角の増し掘りが終わっている。石積みが再開されている。城門東側の基礎確認が完了している。工作員の男は監視下にある——向こうは気づいていない。どれを選んでも、工程は動いている。
集落から夕飯の煙が上がっていた。五百人分の炊煙だった。壁の外から見ても、集落は小さくなかった。東から入る商人の道に沿って建物が増えていた。市場区画の屋根が並んでいた。ヴィルが立ち上げた区画だった。
壁が立っていた。
立てた壁が、数字になっていた。
カイは踵を返した。集会所に戻る道を歩いた。今夜やることが頭の中に並んでいた。工程表の更新、視察官が来たときに出す記録帳の整理——どれも今日中に終わらせる。
道具袋が肩に当たった。革の感触が肩から腕まで来た。底の方に父の手帳があった。今日は触れなかった。触れなくていい夜だった。
夜、集会所に戻った。
机の上に、昼に食べ残した黒パンの端が残っていた。カイはそれを口に入れた。硬くなっていた。それでもよかった。
記録帳を二冊出した。
一冊目に工程の今日分を入れた。増し掘りの進行、石工四名の確認、明日の予定、視察官来訪の日付。ヴィルに任せた内容を書いた。
もう一冊は、今日初めて出した帳面だった。白紙の頁に日付を書いた。工作員の男の名前と移住者登録の日付、ヴィルからの報告内容、確認された行動。明日からの監視継続。
二冊が並んだ。
どちらも積まれていく。
炭筆を置いた。窓の外が静かだった。集落の灯りが一つずつ消えていた。石工の一日が終わった。ヴィルの一日が終わった。グランの一日が終わった。
カイは設計図を広げた。
第二城壁の全体図だった。北東角の張り出し部が今日の位置で入っていた。城門東側に明日測る予定の基礎ラインが細い炭筆で書いてあった。視察官が見る場所を順番に確認した——城門、城壁の段数、北東角の増し掘り跡、城塞の輪郭。
輪郭が見えていた。
まだ途中だった。それでも——父が「要衝になる」と書いた丘陵の上に、輪郭が立ち始めていた。
炭筆が動いた。
数字が刻まれた。
工作員の男は、今夜も集落の端を歩いているはずだった。辺境伯が動くかどうかは、七日後に分かる。その日まで、数字は積まれ続ける。
問題ない。来週には終わる。
あとがき: |
第19話です。移住者から「王城の視察官が来る」という情報が届き、七日後に来訪が決まります。同じ日、ヴィルが移住者の中の工作員を突き止めました。カイの指示は「排除するな。監視しろ」——向こうに何が見えているかを確認しながら、視察の情報が辺境伯に届くことを逆に利用します。工程は止まらない。数字は揃えていく。壁が積まれている。それだけが答えです。ここまで読んでくださりありがとうございました。




