第1話 knight to-night
その日は雨が降っていた。
暗雲が立ち籠めた空は不穏を伝え、時間さえも狂わせた。
昼か夜かも分からない程の暗さに……闇が落ちる。
背中に感じる冷たい雨が、僕の体温を奪って行く事に何も感じなくなった。
僕の前にはもう。
……朝は来ない。
どのくらいの距離を走っただろう。何故、走って来たのだろう。
だが、何故か振り返る事はしなかった。
息が切れ、走り疲れて立ち止まる。
何処に向かうとも知れずに、ただただ闇の中を走り抜けて来た。
まるで、迷い込んだ迷路から出口を探すかのように。
いや……僕は後戻りなどしていない、探そうとしているのも出口じゃない。
僕は……。
何かを忘れている。
迷い込んだのは以前は豪邸であっただろう邸宅が建つ敷地だ。
廃墟と化し、人を寄せ付けない不気味さを醸し出している。だが、行き場を失った僕に扉を開けるのを躊躇う事はなかった。
誰かがいるとは思っていない。誰かいたとしても、警戒心もなければ恐怖心もない。
何故か……引き付けられるような感覚がした僕は、足を踏み入れる事が自然だった。
まるで……呼び寄せられているかのようだ。
僕は、扉へと手を掛けた。
取り合えずでも、息をつける場所であればいい。
そう思って扉を開けた。
扉を開くと目の前の光景は一変し、眩しい程の照明で光に溢れている。
やはり、驚きはなかった。
なんだか……僕が忘れている事がなんなのか思い出せるような気がして、ここに辿り着いた事に安堵している。
まだそれがなんなのかは分かっている訳ではないが、探しているものを見つけたような気さえしていた。
暗い中を進んで来た僕には、煌びやかな照明が眩し過ぎる。
目を細め、ゆっくりとその明るさに目が慣れると、人の姿が目に捉えられた。
黒く長い髪を揺らして、出迎えるようにも僕へと近づいて来る女……。
妖艶な美しさは目線を逸らす事を許さず、その場を動かずにいる事までも強制した。
……この邸宅の主か……?
女は、歓迎するようにも笑みを見せて口を開いた。
「ようこそ。アンダーワールドへ」
「アンダーワールド……?」
どういう事だ……?
眉を顰める僕に、クスリと小さく笑うと女は言う。
「あなた……本当は気づいているんじゃないかしら? ここに辿り着いた理由を」
そう言いながら、興味深そうな目を僕に向け、僕の反応を窺っている。
「理由って……」
僕は戸惑う。
確かに……ここに辿り着く事は決まっていたように思えている。だが、何故、ここに辿り着かなければならなかったのだろう。
女は、僕に気づかせるようにも訊く。
「探しているんでしょう?」
「探している……」
女の言葉を口にしながら、僕は考える。
確かに僕は探していた。
だけどそれがなんなのか、はっきりしたものがなかった。
思い出せない。だけど、やはりなにか……感じるものがある。
彼女はクスリと笑みを見せると、僕の頬へとそっと手を触れる。
「冷たいわね……まるで氷のようだわ。その体も心も……全て。このままでは凍りついて動けなくなってしまいそう……」
揶揄っているようにも感じた僕は、不機嫌に顔を歪めた。
「答えるべきはそんな事じゃないだろう。ここはどういった場所なんだ?」
「ふふ……ここはね……あなたのように理由が分からない者が来るところよ。そして理由を知りたいと思う者が辿り着くところ……」
触れられても、この体には何も感じない。
僕の感覚がなくなっているのか、彼女の体温が感じられないからなのか。
ああ……そうだ。
微かにも思い出される記憶。
雨に体温を奪われ、何も感じなくなっていた。
冷えていく体。寒さに耐え切れず、その感覚から逃げ出すみたいに。
そして僕はここに迷い込んだ……。
探していたのは出口じゃない。
まるで体を脱ぎ捨てたみたいに、意識だけが彷徨っている感覚に今、はっきりと気づく。
そして、それを決定づける言葉を、彼女が興味深そうな笑みを浮かべて僕に言った。
「あなた……誰に殺されたのかしら……ね?」
探していたのはその理由だったのか、彼女が言ったそんな言葉も驚く事なく理解出来た。
普通とは言い難い不可思議を目にし、それでも恐怖など微塵も感じず足を踏み入れたのは、頭の何処かで気づいているものがあるからだ。
それが彼女の言葉で明らかになる。
「そして、何故殺されたのかしら……?」
クスリと漏らす笑みは、探るようにも僕の意識の奥に触れるようだ。
彼女は僕から手を離すと、ゆっくりと邸内の奥へと進んで行く。
僕は少しの間、彼女の背中をその場で目で追っていたが、僕を振り向く彼女が誘うように見せる笑みに、無意識にも足が動いた。
長い廊下だ。一体、幾つの部屋があるのだろう、重厚感のある扉はそれぞれに造りが異なっていた。
案内されるように進んだ部屋には、大きく長いダイニングテーブルに豪勢な料理が並んでいる。
「どうぞ、座って」
入り口から近い端の席を僕に勧め、彼女は僕から離れた向かいの端の席に座った。
僕が座った途端、空のグラスにワインが注がれていくが、そこに姿はない。
姿が見えるのは僕と彼女だけだ。
奇怪ともいえる現象に、彼女の言葉が事実である事を納得させる。
アンダーワールド……死者の世界、か。
「お好きなものを召し上がって」
「こんな心境で……口に出来るものなんか……」
そもそも、僕が既に死んでいるのなら、食事なんて必要ないだろ。
彼女はワインを一口飲み、グラスを置くと、ふふっと笑う。
「それは正しい選択ね」
「正しい選択? なにがだよ……」
「死者が空腹を訴えて、ここに並ぶ料理に手を伸ばし、口にすれば……」
クスリと漏らす笑みに思惑が感じ取れる。
「おい……お前……」
僕は訝しげに眉を顰めた。
彼女は、楽しげな様子でこう続けた。
「二度とオーバーワールドには戻れない。理由が分からなくても知りたくても、食事が進む度にそんな事は忘れていくわ。ここで私と永遠を過ごすのよ。可も不可もないこの世界で……ね?」
「それは、満足するって事なのか?」
「満足? それは違うわね。言ったでしょう? 可も不可もないって。ただの虚無よ」
ふうっと退屈そうに溜息を漏らす彼女に僕は言う。
「……あんたもなのか?」
彼女も僕のように彷徨って、ここに辿り着いたのだろうか。
「そうねえ……探しているのは私も同じって事かしらね」
「あんたも探してるって……? あんたはここの主だろ。死者を呼び込むだけが理由じゃないのか?」
「そうね……死者を呼び込んで探しているのかもしれないわね」
「会いたい奴でもいるのか」
「ええ、いるわ」
「それじゃあ悪かったな、意に適う相手じゃなくて」
呆れたようにもハッと溜息を漏らす僕に、彼女は答える。
「適っているわよ。例え扉を開こうとも条件が揃わないと、ここはただの廃墟にしか見えないわ」
強くも響いたその声に、僕は怪訝な表情で彼女を真っ直ぐに見た。
「条件?」
「そう……条件……」
彼女は僕の目線を受け止め、こう答えた。
「『ナイト』の条件よ」




