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氷葬の国

 ――凍てついた風が、皮膚の上をナイフのように滑った。


 レグナント王国から北へ北へ、さらに山脈を越えたその先。

 地図にもほとんど記されることのない極寒の地。

 古くは《セリュネム》と呼ばれた都市国家の跡地――現在は永久氷土に沈んだ禁断の領域。


 ディラン、セリナ、イリス、アルノルト。

 そしてラグランジェから同行してきた魔法研究官二名と、わずかな護衛騎士団。

 総勢十二名の小隊が、白い死の世界へと踏み入った。


 空は鉛色に曇り、太陽でさえ氷の膜越しのように弱々しい。

 足元は、踏みしめれば“キン”と鈴のような音が鳴る氷床。

 遠く、風が吹き抜けるたび、氷柱が砕け、小さくつややかな破片が舞った。


 ――美しくも、息をひとつ吸えば肺が凍りつきそうな世界。


 先頭に立ったセリナが、白い息を吐きながら指差した。


「……あれ、たぶん“建物”の残骸。氷で全部凍ってるけど」


 巨大な氷壁の下、透明な層の奥に――

 崩れた尖塔、石造りの街路らしき影、かつての街灯のような金属の曲線が見える。


 ディランは膝をつき、氷に手を触れた。

 ぞわり、と魔力が逆流する。


「……この氷、自然のものじゃない。“魔術式”の反応がある」


「セリュネの仕業か?」とアルノルト。


「可能性が高い。しかも……これ、千年単位の術式だよ。

 ここ一帯を巨大な“棺”のように――時間ごと封じてる」


 千年の時を閉じ込める氷。

 八魔将“氷葬”セリュネの名に相応しい歪み。


 イリスはその光景に、わずかな震えを覚えた。

 恐れでも寒さでもなく――ただ、その魔の規模への純粋な戦慄。


「セリュネは……こんなことをして、何を守りたかったのでしょう?」


「守りたい、ではなく“閉じ込めたい”……かもしれない」とディラン。


 セリナが首をかしげた。


「閉じ込める? 誰を?」


「都市そのものか、あるいは……“何か”を。

 セリュネ自身の力だけでこんな範囲は凍らない。

 となると――なにか、核があるはずだ」


 ディランが立ち上がり、氷床を歩き出す。


「探すよ。魔力の中心へ」


都市跡は、どこまでも白い迷宮だった。


 大小の崩れた建物の影が氷の中を漂い、地表に露出した部分は鈍い青を放つ。

 吹雪がときおり視界を白く塗りつぶし、足跡は十秒で風に消された。


 イリスが凍傷避けの御守りに魔力を込めながら周囲を見た。


「……静かすぎます。魔物の影もない」


「凍り付いてるんだよ、全部」

 セリナが握る双剣の刃も、すでに霜に覆われ始めていた。


 アルノルトは凍りついた槍を軽く叩き、氷の強度に眉を寄せる。


「この氷……普通の火炎魔法じゃ溶けません。

 ディラン様、中心部を探すにしても手間取るかと」


「分かってる。だが――感じる」


 ディランの魔力感知が、徐々に一点へと収束していた。


 氷の魔力の流れが、渦のようにひとつの方向へ集まっている。

 まるで巨大な心臓がゆっくりと鼓動しているかのように。


 ディランの言葉と同時に――

 ゴウ……ッ、と深い地鳴りが足元から響いた。


「っ!? 今の……!」


「氷の内部からだ。何かが動いている」


 氷床の奥、遥か彼方で青白い光が脈打った。


 “呼ばれている”のだ。

 氷葬セリュネがいる中心へ。



 さらに進むと、吹雪が少しずつ弱まり――やがて空気が変わった。


 視界の前に現れたのは、

 氷の柱が何十本も天に向かって伸びる巨大な“聖堂”のような空間だった。


 天井は氷のドームで閉ざされ、淡く光る魔術紋が広がっている。

 雪は一片も落ちず、風も吹かない。


 まるでこの場所だけが、世界と切り離されている。


「……すご……何この場所」


 セリナの声は驚きより、むしろ警戒の色を深めていた。


 ディランが氷の床に触れた瞬間、

 ドーム全体の魔術紋が淡く脈動する。


 その波動は“眠りを妨げられた”と訴えるように重かった。


「……起きるぞ」


「何が?」イリスが小さく息をのむ。


 答えは――遅れてやってきた。


 氷の祭壇。

 その中心の巨大な氷塊が、ゆっくりと、ヒビを走らせた。




 パキ……パキ……パキィン……!


 氷塊の表面が砕け散り、

 舞い上がった破片が光を反射して星くずのように輝く。


 そして――姿を現した。


 白銀の髪。

 氷の結晶を散らした黒い礼装のような衣。

 肌は透けるほど白く、瞳は深海の底の青。


 八魔将オクタヴォス――“氷葬”セリュネ。


 その存在だけで、空気は瞬時に凍りつき、

 小隊の誰もが息を呑むしかなかった。


 セリュネは閉じたまぶたをゆっくりと開き――

 ひとつ、深い吐息を漏らした。


「……眠りを、破る者たちよ。

 よくも、この静寂を……」


 その声は淡々としていながら、どこか悲しげだった。


 セリナが双剣を構える。


「……来るよ!」


 だがディランは手を上げ、皆を制した。


「待て――聞くべきだ」


 セリュネの瞳が、ゆるやかにディランへ向いた。

 その動きひとつで、氷の柱が震える。


「……声……その響き……

 貴様、魔王の力を、僅かに宿しているな」


 全員の背筋が凍った。


 セリナが怒鳴る。


「ば、ばか言わないで! ディランがそんなわけ――」


「……分かっている。これは“継承”だ」

 ディランはセリュネを見返し、一歩踏み出した。


「ザハリエルが言っていた。“血の鍵を集め、魔王の残滓を満たす”って。

 その影響が俺にも来ているのかもしれない」


 セリュネは細く息を吐いた。


「愚かな……あの仮面の狂信者が。

 魔王はまだ眠っている。

 だが――その抜け殻の力は、確かに貴様の中で蠢いている」


「なら聞きたい。

 あんたは、何を封じていた? この都市に何がある?」


 セリュネの表情が、わずかに陰った。


「……答える義務はない。

 だが――ひとつだけ言う。

 ここには“魔王の器”が眠っている。

 あの狂信者が求める、最後の欠片が」


 全員の血が一瞬で凍りついた。


「……魔王の器……?」


「魔王が復活するための、肉体そのものだ」


 その瞬間――


 氷の大聖堂を満たす魔力が、激しく波打った。


 セリュネが氷の杖を構え、冷たい宣告を下す。


「――これ以上近づくならば。

 貴様らを“氷葬”とし、この棺に封じる」


 氷の柱が震え、床が凍気を噴き上げる。


 あらゆるものを沈黙の中へ閉じ込める氷。

 八魔将の一柱としての圧倒的な力が、いま目の前に在る。


 ディランは深く息を吸い、静かに杖を握った。


「……セリュネ。

 俺たちはここで止まれない。

 イグナドを倒し、オルグラを封じた。

 ザハリエルを追っている。

 世界を壊させないために――」


 セリュネは穏やかに目を伏せた。


「分かっている。

 だがそれでも……私は譲れない」


 氷の風が吹き抜ける。


 対峙するのは、八魔将の中でも最も理知的で、最も残酷な氷の支配者。


 ――戦いは避けられなかった。


 


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