第五場
アルシャオ・イン/あの少女/姉のこと、妹のこと/授業料/フェアーウェル、マイ・リトル・シスター/決意と疑惑/意思なき石に用は無し/泥沼にはまる・その2/子犬が猫に叱られる/痴にいたる病/副長の落とし物
「僕はアルシャオ・インだ」
俺の前に立つ少年はそう言って、笑顔を見せた。
その笑顔はエイシアに似ていた。
そして、別の誰かにも。
「アルシャオ・インだと? 記憶が戻ったのか?」
「おやおや。その口振りからすると、あんたは僕のことを知ってるみたいだね」
「ああ、よく知ってる。俺はエイシアの……」
エイシアの名を口にした途端、彼女とアルシャオに似ている「別の誰か」の顔が脳裏に甦った。
もつれていた記憶の糸がほどけていく。
そうか……エイシアと初めて会った時に既視感を抱いた理由が判った。
彼女は似ていたんだ。
あの少女に。
俺に「正しいこと」をさせた少女に。
「姉ちゃんのなんなのさ?」
と、アルシャオが先を促した。
「友人だ。おまえの父親に会ったこともある。それにおまえの妹も知ってる」
「ミルちゃんのこと?」
「違う。本当の妹のことだ。おまえの妹は〈グレイノーモアの虐殺〉で死んだと思われているが、実は――」
「――ヤマネ団にさらわれて、奴隷商人に売られちゃったんだろ。妹のこともちゃんと思い出したよ。今なら、涙ケ淵で溺れた時に見た夢の意味も判る。あれはヤマネ団に生け捕りにされて、妹と一緒に運ばれてる時の記憶だったんだな」
涙ヶ淵で溺れた時云々というのがよく判らなかったが、説明は求めなかった。説明しなくてはいけないのは俺のほうだ。あの少女の安否について。
「今、おまえの妹はエルドリッチ市の中央教会の学舎にいる。そこで偽名を使い、無級真導師として生活しているはずだ」
「どうして、学舎なんかにいるの?」
「彼女はラークスパーという真導師に買い取られ、残魂転移の素体にされた。しかし、俺が救い出して、学舎に入れたんだ」
いや、「救い出して」なんて言葉を使うべきじゃないな。俺は免罪符が欲しかっただけなんだから。
首をかしげながら、アルシャオが確認した。
「なんだかよく判らないけど……とにかく、妹は無事なんだね?」
「そうだ」
「で、妹を助けてくれたのはあんたなんだ?」
「そうかもしれん」
「だったら、お礼を言わなくちゃいけないね。どうもありがとう」
アルシャオは深々と頭を下げて感謝の気持ちを示すと――
「じゃあ、そういうことで! あと、よろしく」
――くるりと背を向けて、そこから立ち去ろうとした。
「待て! どこに行くつもりだ?」
「行き先は決めてない。とりあえず、ここから逃げる。もっとも、あんたが僕を捕まえるというのなら、おとなしくお縄についてもいいよ。妹を助けてもらった恩もあるしね」
アルシャオは振り返り、エイシアに似た笑顔をまた見せた。
「だけど、あんたは見逃してくれるよね。だって、捕まえるつもりなら、とっくにそうしてるはずだ。妹の話を持ち出したりせずにさ」
「……」
「それとも、主人公を追い詰めておきながら、とどめを刺さずに長々と喋ったりする悪役の気分を味わいたかっただけかい? でもね、お兄さん。現実と芝居は違うんだ。仮にこれが芝居だったとしても、あんたは悪役じゃなさそうだし、僕は主人公じゃない」
アルシャオの顔から笑みが消え、声の調子も変わった。
「とか言いながら、僕もついさっきまでは芝居を演じているような気分だったんだ。記憶喪失の復讐者という役に酔いしれて、自分の置かれた状況を楽しんでいた。死ぬこともそんなに恐れちゃいなかった。でも、自分以外の誰かが死んでしまうことまでは想定してなかったんだな。この授業料は高くついたよ」
「おまえはもっと高い授業料を払ったことがあるはずだ」
「うん。〈グレイノーモアの虐殺〉だね。あの虐殺を体験しておきながら、バカな僕はなにも学べなかった。いや、学ぼうとしなかった。もしかしたら、本当は今も学んでいないのかもしれない」
アルシャオはもう俺を見ていなかった。奴の視線の先にあるのは、通路に横たえられた少女の亡骸だ。語りかけている相手も俺から少女に変わっている。
「ごめんよ、ミルちゃん。やっぱり、僕は嘘つきだね。『まっとうな人間になる』なんて言ったけど、それは無理だ。僕は無法者として生きていく。ただし、アレックスみたいな無法者じゃない。この先、僕の名を聞いて恐怖を覚えるのは、罪のない人々じゃなくて……ウォルラスのような奴らだ」
この少年と少女との間になにがあったのかは知らない。しかし、少年の言葉の意味はなんとなく理解できた。言葉に込められた意志の強さを感じ取ることもできた。
留置所でのジェイコブとのやりとりが思い出される。あの時はジェイコブの「正義の殺し屋になりたかった」という言葉を一笑に付したが、今はアルシャオの子供じみた決意を笑うことができない。それどころか、戦慄を覚える。
その戦慄が突飛な疑惑に変わった。
こいつは本当にアルシャオなのか? もしかして、アレックスがアルシャオを演じているんじゃないか? 人生を仕切り直すために……。
アルシャオ/アレックスは悲しげな目で少女の亡骸を見ていたが、やがて意を決したように顔をあげ、腰から短剣を抜いた。
「もう、これはいらないな」
短剣を額まで持っていき、石の縁に切先をあてがった。
俺は思わず叫んだ。
「なにをするつもりだ!」
「なにって……この石を取るんだよ」
「本気か?」
「うん。なにか問題でもあるの?」
問題はある。もし、残魂転移が実在するなら……そう、この少年がアルシャオではなく、アレックスなのだとしたら、額の石を剥がすのは自殺行為だ。少年の肉体を動かしているのは石の中の精神であり、肉体の本来の精神は既に失われているのだから。石を剥がした瞬間に精神と肉体との繋がりが絶たれ、少年はその場に倒れ伏すだろう。糸の切れた操り人形のように。
もちろん、それはクリケットの考え方だ。残魂転移などというものを信じない人間からすれば、杞憂でしかない。
しかし……。
〈獣〉が吠えた。一際大きな声で。
少年が顔を引き締め、俺には理解できない言葉を口にした。
「僕に関するメモ、その九――」
石と肌の狭間に短剣がゆっくりと差し込まれていく。
「――僕は真導なんか信じない」
石が抉り取られた。
それは床に落ち、副長の死体の傍で跳ね、短銃の脇を転がり、色とりどりの飴玉の中を通り過ぎ、横たえられた少女にぶつかって止まった。
〈獣〉はまだ吠えている。
吠え続けている。
静めることはできなかった。
もっとも、静めるつもりもなかった。今の俺にとって、〈獣〉の咆哮は耳障りなものではなかったから。
俺は教会の中庭に出た。
宿坊から煙が立ち昇り、鐘楼の鐘が激しく鳴り響き、真導師や衛士や参拝客が右往左往している。
バケツリレーの列を断ち切り、野次馬の群れを貫き、避難者たちに何度もぶつかりながら、俺はあてもなく歩き続けた。
体が重い。だるい。怪我をしているわけではないのに、ぎこちない足取りで歩くことしかできない。ゼンマイ仕掛けの人形みたいだ。それも泥沼に首までつかった人形だ。このままだとゼンマイがほどけきって、泥沼の底に沈んでしまう。だが、それも悪くない。俺は知っている。泥沼の温かさを。とても優しい温かさを。
「レイス!」
喧騒にまぎれて、懐かしい声が飛んできた。
足を止め、声の主を探した。
すぐに見つかった。エイシアだ。こちらに駆けて来る。
「レイス! レイス! レイス!」
彼女は俺の前まで来ると、踵で地面を抉るようにして止まった。
「どこに行ってたの? っていうか、なんでここにいるの? いったい、なにがあったの?」
「エイシア……」
次々と投げかけられてくる質問に答えを返すことなく、俺は両膝を地に落として彼女の腰にすがりついた。やっとの思いで母を見つけた迷子のように。
「……君の弟に会ったよ」
「え!?」
「君の弟はアレックス・ザ・ミディアムじゃなかった」
そうだ。あの少年はアレックスじゃなかった。俺は見た。この目で見た。奴が額から石を剥がすところを。
石を剥がしても、奴は死ななかった。
死ななかったんだ。
しかし、俺は確信を抱けずにいた。あの光景を目の当たりにしたにもかかわらず、残魂転移を否定することができずにいた。心の奥では疑惑がまだくすぶっている。あいつはアレックスではなかったのか、と。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
エイシアは俺を腰から引き剥がし、厳しい声音で尋ねた。
「本当にアルシャオに会ったの?」
「ああ、本当だ」
「なぜ、アルシャオがアレックスでないと言い切れるの?」
「なぜって……」
『なぜもなにもない。残魂転移なんて実在しないから、君の弟がアレックス・ザ・ミディアムであるわけがないんだ』
昨日までの俺なら、そう応じていただろう。だが、俺はそんな言葉を口にする代わりに左手をのろのろと差し出した。
「これが証拠だ」
指を一本ずつ開けると、琥珀色の小さな球体が現れた。
エイシアは掌を覗きこみ、眉間に皺を寄せた。
「なによ、これ?」
「アルシャオが額から抉り取った石だ」
「はぁ? ふざけないでよ!」
「……え?」
俺はただ呆然とエイシアを見た。飼い主に叱られた子犬のような気分だ。なぜ叱られているのかが判らない。
「もしかして、冗談のつもりなの? ぜんぜん面白くないよ」
冗談なんかじゃない――そう言おうとしたが、口がもごもごと動くだけで声は出なかった。
エイシアが肩を激しく揺さぶってくる。
「もぉー! なにがあったのか知らないけど、しっかりしてよ」
「ああ……すまない……」
「じゃあ、改めて訊くよ。どこでアルシャオと会ったの?」
「聖堂だ。そこでアルシャオと話した。でも、俺が石を拾ってる間に奴はどこかに消えてしまった。たぶん、この混乱にまぎれて、教会の外に逃げたんだろう」
「ふーん。まだ遠くには行ってないかもしれないね」
エイシアは俺の頭を軽く叩いた。
「ほら、立ちなさい。そして、一緒にアルシャオを探すのよ。アルシャオは本当にアルシャオなのか、それともアレックス・ザ・ミディアムがアルシャオの振りをしているだけなのか――それを自分の目で確かめなくちゃいけない」
「嫌だ。アレックスのことなんか、どうでもいい。もう、なにも考えたくない」
「貴方、おかしいよ。どうしちゃったの?」
「どうもしてない。ただ、そっち側の住人になっただけさ」
それを認めた途端、心が軽くなった。
〈獣〉の咆哮が祝歌に聞こえる。
「そうだ。俺はそっち側の住人になった。クリケットになったんだよ。世界という名の水面に天使が残した航跡を辿り、笑いながら生きて、笑いながら死んでいくんだ」
「……なに言ってんの?」
「君もクリケットなんだろう? だったら、アレックスだかアルシャオだかのことを自分の目で確かめる必要はない。自分の頭で考える必要もない。大いなる意思にすべてを委ねればいいんだ。俺と同じように……」
微笑を浮かべて、石を持っていないほうの手をエイシアに差し伸べる。
だが、その手は払いのけられた。
「本気でそんなことを言ってるわけじゃないよね?」
「いや、俺は本気だよ」
「なーんてこった。残念ながら、今回ばかりは小隊長の人物評が正しかったみたい」
エイシアは嘆かわしげにかぶりを振り、大袈裟に溜息をついてみせた。あきらかに挑発している。
しかし、俺は微笑を消さなかった。
エイシアの口からまた溜息が漏れた。今度は本物の溜息だ。
「貴方にはがっかりだよ、レイス・シンガー」
微笑む俺を押しのけるようにして、エイシアは立ち去った。
俺はそれを止めなかったし、振り返って後ろ姿を見送りもしなかった。彼女はもう必要ない。いや、必要としたことなど一度もなかったのだ。
微笑を浮かべたまま、膝をついたまま、俺は視線を落とした。
手の上の球体をじっと見つめる。
そして、ようやく理解した。
猫に似た女(もはや名前も思い出せない)が怒ったわけを。
その球体は残魂転移の石ではなかったのだ。
「これは……」
風が俺の呟きをかき消し、琥珀色の飴玉が手から転がり落ちた。
どこか遠くからアルシャオの笑い声が聞こえてきたような気がした。
あるいはアレックスの笑い声だろうか?




