ミルの夢
アレックス・ザ・ミディアムが拷問を始めてから一刻以上が過ぎた。
拷問の対象であるタンチャイ・ルォはまだ生きていた。最初のうちは命乞いをしていたが、今は逆のことを頼んでいる。アレックスに向かって。アレックスの仲間たちに向かって。
そして、ミルに向かって。
ミルは目を閉じ、耳を塞いでいた。それでも、ルォの悲鳴や哀願は聞こえた。アレックスの哄笑や怒号も聞こえた。
「こら、ミリアム! 目を閉じてんじゃねえよ。これはおまえのためにやってることなんだぜ」
ミルは耳を押さえる手に力を込めた。
「兄貴……もう、やめてよ……」
「こんな面白いこと、やめられねえよ。さあ、おまえも楽しめ。目を開けて、このゲス野郎の情けない姿を見ろ」
誰かの手が肩に置かれた。〈吼え猛るヤマネ団〉の一人だろう。
「ほら、ミル。兄貴もああ言ってることだし、ちゃんと見てやんな」
別の誰かに手首を掴まれ、耳を塞いでいた掌を引き剥がされた。横から伸びてきた第三の手に顎を押し上げられた。それらの手は目的を果たすと、すぐにミルから離れたが、手の持ち主たちが発している優しいプレッシャーは消えなかった。
そのプレッシャーに対抗する術をミルは知らなかった。
半ば自棄になって、目を開く。
待ってましたとばかりにアレックスがルォの頭髪を掴んで首を捻り、こちら側に向けた。
ミルは慌てて顔を伏せたが、少しばかり遅すぎた。一瞬、ルォと目が合ってしまった。
それは目というよりも、血塗れの顔の上部に生じた白と黒の亀裂だった。ただし、その数は一つだけだ。片方の目は既に潰されていた。
「おい、ルォ! 詫びろ! 俺の妹に詫びろ! 心を込めて詫びろ!」
アレックスの咆哮に殴打の音が重なり、ルォの呻き声がその後に続いた。
「す、すいませんでした……許してください……許してく……だ……さ……お、お、お願いですから……もう……こ、殺して……」
ミルは再び耳を塞いだ。
悪夢というのはクライマックスに達した瞬間に目覚めると相場が決まっているものだが、彼女の悪夢はその後も延々と続き、ルォが完全に息絶えたところで終わった。
ミルは布団の中で目覚めた。
薄汚れた天井が視界を占領している。
ここが街道沿いの木賃宿であることを思い出すまで少し時間がかかった。シュペングラー金貨の一件の後、テイパーズ・デンには戻らず、この宿に泊まったのだ。
「おはようございます」
声をかけてきたのは、部屋の中央で胡坐をかいているアンゲラだ。隅のほうではアレックスが眠っている。他に客はいない。
ミルは蛇のように体をくねらせて布団から這い出ると、四つ足の獣じみた動きで土間に降りて手水場に行き、人真似をする猿さながらの所作で顔を洗った。洗い終える頃には人間への進化を遂げていた。
部屋のほうを振り返り、猫のように体を丸めて眠っているアレックスを睨みつける。
この得体の知れぬバカはアンゲラと共に敵地に向かうらしい。それに付き合う義理はない。そもそも、アレックスと行動を共にしていたのは、安全な隠れ家を得るためだ。彼やアンゲラが隠れ家に留まらないのであれば、一緒にいるメリットはない。
にもかかわらず、ミルはまだアレックスから離れる気になれなかった。彼に好意や興味があるわけではない。罪悪感に引きずられているのだ。
兄への罪悪感に。
「随分とうなされていましたが、悪い夢でも見ましたか?」
トップハットの手入れをしながら、アンゲラが訊いた。
「悪い夢なんてもんじゃないわ。ルォが殺された時の夢よ」
「ルォ? もしかして……」
「そう、シュペングラー金貨の持ち主だったタンチャイ・ルォのこと」
「彼が殺された場に居合わせたのですか?」
「まあね。子供の頃、あたしはルォのところで女中奉公をしていたの。だけど、すぐに逃げ出した。ルォにひどいことをされたから」
ミルは「ひどいこと」の具体的な内容を語らなかった。アンゲラもそれについて深く追及しなかった。
「ヤマネ団に加わった時、ルォにされたことを兄貴に言ったの。ちょっと懲らしめてもらおうと思ってね。だけど、兄貴の懲らしめは度を越えていた。その日のうちにルォのところに押し入り、金目のものを奪って、ルォの家族や使用人を皆殺しにした挙句、本人をさらってきた。そして、あたしの目の前で殺した。たっぷりと時間をかけて……」
感情を押し殺しているつもりだったのが、声が震えた。
「あたしは、兄貴がそんな人間だということを知らなかった。いえ、薄々気付いてはいたけど、知らない振りをしていた」
「でも、知ってしまったわけですね」
「そうよ。だから、兄貴と縁を切って、ヤマネ団を抜けたの。だけど、縁を切ったからといって、この世から兄貴が消えてなくなったわけじゃない。どこにいても、兄貴の悪事に関する噂は耳に入ってきた。その度になぜか自分が責められているような気がした。だから……」
ミルはなにかに憑かれたような調子で喋っていたが、途中で我に返り、言葉を断ち切った。もう少し遅かったから、罪悪感を抱いてる理由を吐露していただろう。それが悪い結果を生むとは限らないが、今の彼女に真実を話す勇気はなかった。
臆病な少女は土間から部屋に上がり、アレックスの能天気な寝顔を見下ろした。
恐怖混じりの罪悪感が怒りに変わっていく。なぜ、こんな奴のために罪悪感に苛まされなくてはいけないのか? だいたい、この男が兄だと決まったわけではない。よしんば兄だとしても、こちらが罪悪感を覚える謂れはないはずだ。自分は正しいことをしたのだから。
アレックスの頭を蹴飛ばしたい衝動に駆られた。
だが、その衝動が行動に変わる前に――
「……うぅ~んんんん」
――呻き声と唸り声が入り混じったものが響き、アレックスの体が蠢動した。
寝癖のついた頭がむっくりと起き上がり、寝惚け眼がミルに向けられ、寝起きのけだるげな声が喉の奥から這い出てきた。
「おはよぉ、ミルちゃん」
「……」
「あれ? どうかした?」
蹴飛ばしたいという衝動がブチ殺したいという衝動に変わったが、なんとか堪えることができた。
仁王立ちでアレックスを見下ろすミルに代わって、アンゲラが挨拶を返した。
「おはようございます、アレックスさん」
次回は2015年8月22日頃に投稿予定。




