第三場
現実を受け入れる/芸人魂/油断大敵/世界は二つ/ノックの作法/ゴシップ収集/局長のファーストネーム/レイス、死を身近に感じる
〈愛しきデライラ亭〉から中央教会に帰る道すがら、俺はエイシアに語った。
「事例が少ないから断言することはできないが、トリークル・ウェルによる記憶喪失は恒久的なものじゃないらしい。数日から数ヶ月で記憶は回復する。わずか半日で回復した者もいるそうだ」
「ふーん」
「いずれ、617の記憶も回復するだろう。トリークル・ウェルの効果は不安定だから、最初から記憶が消えていないという可能性もある」
「なにが言いたいの?」
「君はクリケットだが、妄信者や狂信者ではないようだ。だから、記憶を取り戻した617を目の前にした時、悟るかもしれない。彼がアレックス・ザ・ミディアムではなく、旅芸人のホーホー・ホイだということを……」
「それは残魂転移の真導が実在しないという前提に立った話だよね」
前提もなにも本当に実在しないんだよ! ……と、叫びたい気持ちを抑えて、俺は彼女に調子を合わせた。
「そうだ。その前提に立って考えてくれ。もし、残魂転移が実在しないことを確信できたら、君はどうする?」
「悔しいけど、現実を素直に受け入れて復讐を諦めるよ。そして、可哀想なホーホーくんとやらを見逃してあげる。でも、貴方は見逃さないでしょうね」
「当然だ。君が617を救おうとすれば、俺は君を敵と見做す。それを胆に銘じておけ」
「はーい。銘じておきまーす」
エイシアはスキップするような足取りで俺の前に行くと、くるりと振り返った。だが、足は止まっていない。後ろ向きに歩いている。後頭部に目があるかのように他の通行人や障害物を避けながら。
「あたしは617がアレックス・ザ・ミディアムだと思っているし、貴方は617がアレックスじゃないと思っているけど、当の617は自分が何者だと思ってるのかな?」
「もしかしたら、君と同じように残魂転移の真導を信じ、『僕はアレックス・ザ・ミディアムだ』とでも思っているかもな。しかし、本来の記憶が回復すれば、その幻想も崩れるさ」
「でも、思い込みが強すぎたら、回復した記憶のほうを幻想だと見做すんじゃないかな。それに幻想だと自覚した上でアレックスになり切る可能性もあるよ。617は旅芸人なんでしょ? どんな芸を売りにしていたのかは知らないけど、役者や講釈師の類だとしたら、他者を演じるのはお手の物。本物のアレックスよりもアレックスらしく振る舞うことができるかもね」
「面白い考えだ」
「ぜーんぜん面白くない! 残魂転移が実在するなら、これとは逆のことが起きるかもしれないんだよ!」
駄々をこねる子供のようにエイシアは腕を振り回した。街路に立つ肉包売りがその様子を面白そうに眺めている。
「見世物じゃねえぞ!」という意をこめて肉包売りを睨みつけてから、俺は駄々っ子に尋ねた。
「逆のこととは……つまり、アレックス・ザ・ミディアムが無害な旅芸人の振りをするということか?」
「うん。だから、617と対峙する時は油断しちゃダメ! 相手をただの旅芸人だと決めつけて事にあたると、足をすくわれちゃう」
「起こりえない事態を警戒するのは無意味だ」
「そっち側の世界では起こりえなくても、こっち側の世界では起きるかもしれない」
「どういう意味だ?」
「もう忘れちゃったの? さっき、カーペンター先生の話を聞かせてあげたでしょ」
「先割れスプーンのことか?」
「違う、違う。二つの世界のほうよ」
「ああ、あの戯言か……」
「そう。あのザレゴト」
エイシアは頷き、正面を向いた。
「あたしがいるのは、真導が存在する世界。貴方がいるのは、真導が存在しない世界。貴方がこっち側の世界に迷い込んだら、あたしみたいに真導を信じるようになるでしょうね。それとも、逆かな? こっち側の世界に来たから真導を信じるわけじゃなくて、真導を信じるようになった時、こっち側に来るのかもしれない」
「だとしたら、俺は永遠に君の世界には行けないな」
「ふーん。『行かない』じゃなくて『行けない』なんだ」
「そうさ。べつに行きたいとは思わないが、行きたくなったとしても絶対に行けない。こっち側の世界に俺は引き留められているんだ」
歩く速度を上げて、エイシアを追い抜く。
「誰が引き留めているの?」
彼女が背中に問いかけてきた。
(こいつだよ)
心の中で答え、自分の胸に手をあてる。
〈獣〉の咆哮が伝わってきた。
俺は教会に戻ると、自室に篭もり、スルーフィールドやその弟子たちに関する調書を読み始めた。
しかし、中程まで読み進めたところで無遠慮なノックの音が室内に響き、中断を余儀なくされた。
溜息をつき、扉を睨みつける。
「また暇つぶしに来たのか?」
扉が少しばかり開き、その隙間からエイシアが顔を覗かせた。
「どうして、あたしだと判ったの?」
「扉の叩き方に特徴がある」
「どんな特徴?」
「室内の人間に対する敬意が感じられない」
「はぁー。そんなものですかねー」
「それで、用件は?」
「これを返しに来たんだ」
エイシアは部屋に入り、聴取録を差し出した。
俺はそれを受け取った。
だが、エイシアの手は聴取録から離れない。
暫しの間、聴取録の上端と下端を掴んだ状態で俺たちは見つめ合った。もっとも、若い男女が互いの想いを推し量るような視線の交錯じゃない。他者の縄張りの境界付近で挑発的な眼差しを送る山猫と、それを睨みつける縄張りの主――そんな光景に近い。
先に沈黙を破ったのは「縄張りの主」である俺のほうだ(べつにこの空気に耐えられなくなったわけじゃない)。
「用が済んだのなら、もう出て行ってくれ」
「はーい」
エイシアの手が聴取録から離れる。
俺は投げ捨てるように聴取録を机に置いて、スルーフィールド一党の調書をまた読み始めた。
視界の隅でエイシアが動いた。向かった先は扉ではなく、部屋の隅に置いてある寝台だ。
その寝台に彼女は腰を降ろした。居座るつもりか?
「おい……」
と、抗議の声をあげると、それにエイシアの言葉が重なった。
「あたしね、この教会にいる真導師の皆さんから、貴方に関する噂をいろいろと仕入れさせてもらったんだ。貴方、粛正省のお偉いさんのお気に入りなんだって? なんて名前のお偉いさんだったかな……ああ、そうだ。ディミック局長だ」
「局長じゃなくて、副長だよ。近い将来、局長になるだろうけどな」
いや、近い将来どころか、今だって局長みたいなものだ。
本物の局長であるラインバーガー二級真導師は昼行灯もいいところ。輝かしい前歴もなければ、肩書きと釣り合うだけの才覚もない。ディミック副長のように特異な容貌でもないから、印象も薄いと来たもんだ。正直、俺は局長の顔や声を覚えていないし、ファーストネームも知らない。
「念のために言っておくが、『副長のお気に入り』というのはヘンな意味じゃないぞ」
「ヘンな意味って?」
「副長は男色家なんだ」
「あら、素敵じゃなーい。ねえねえ、そういう意味のお気に入りでないとはいえ、一度くらいは誘われたことがあるんじゃないの?」
その言葉にはさすがに俺も吹き出した。
「口説かれたことも襲われたこともないよ。幸運にも俺は副長の好みに合わないらしい」
「副長はどんな男が好みなの?」
「若いチャオ人さ。あの変態親父は黄色い尻にしか興味がないんだ」
「ふーん。そういえば、貴方もチャオ人が好きなんだってね」
「なに?」
「最近までつきあっていた相手はチャオ人だったんでしょ。名前はシャンメイだっけ?」
その不意打ちを俺はもろに喰らった。躱す暇も受け流す余裕もなかった。それが言葉ではなく、銃弾や刃だったら、即死していただろう。
「うふっ!」
エイシアが笑った。
くそっ! 平静を装いたいのに上手くいかない。顔が引き攣っているのが自分でも判る。
「……誰に聞いた?」
「駐留審問官のテニエルさん。とても楽しそうに語ってくれたよ。貴方が副長の美人秘書官に捨てられちゃったっていう話をね」
「捨てられた覚えはない。俺がシャンメイを見限ったんだ」
「はいはい」
「本当だぞ。俺のほうが彼女を捨てたんだ」
「むきにならなくてもいいじゃん」
「むきになってなんかいない!」
はらわたが煮えくり返るような思いをしているというのに、心の中の〈獣〉はなぜか黙り込んでいた。
次回は2015年7月18日頃に投稿予定。




