プロローグ いつかのきみへ
「俺、ちょっと向こうで遊んでくる」
高い天井から吊り下げられた水晶のシャンデリアが輝く。
磨き上げられた床の上には、格式高い礼服や華やかなドレスをまとった純血貴族たちが集まり、グラスを片手に談笑を交わしている。
あちこちから聞こえてくるのは、耳障りな社交辞令ばかりだった。
黒髪の少年は、そうした大人たちの輪から距離を取り、壁際に並べられた長いビュッフェテーブルの前へと足を運んだ。
卓上には色とりどりの果実や繊細な前菜が所狭しと並んでいたが、少年はそれらには目もくれず、大皿に盛られた肉料理の前で立ち止まった。
手にした銀のトレイへ、切り分けられたばかりのローストビーフを手慣れた様子で何枚も載せていく。皿の上が赤身の肉だけで埋め尽くされると、少年は満足そうに小さく頷いた。
近くの小卓へ皿を運ぶと、少年はナイフとフォークを迷いなく動かし始めた。
一切れ口に運ぶたびに、少年は退屈そうだった表情をわずかに緩める。グラスに残っていた冷たい果実水を一息に飲み干し、空になった皿を近くを通りかかった給仕へ預け、ナプキンで口元を拭った。
「坊ちゃん!……坊ちゃん!」
側仕えの呼ぶ声が聞こえる。
少年は逃げるように大広間の喧騒をすり抜け、テラスへと続く重いガラス扉を静かに押し開けた。
外へ出ると、夜の冷たい風が少年の黒髪を揺らした。
大広間の熱気と香水の匂いから解放され、少年は石造りの手すりに両肘を預けて夜空を見上げると、淡い月と星が瞬いていた。
「はぁ……まったく嫌になるよ」
少年がため息をひとつ吐き出したとき、テラスの隅から微かな衣擦れの音が彼の耳に届いた。
少年は鮮やかな赤い瞳を細め、音のした方へ視線を向けると、柱の影にひとりの子どもが立ち尽くしていた。
仕立ての良い上着を身にまとったその子どもは、少年よりも少し年下に見える。綺麗な金色の長い髪を夜風になびかせ、手すりの縁を小さな指で強く握りしめていた。
「君、そんなところでなにしているの」
声をかけられた金髪の子どもは、弾かれたように肩を跳ねさせ、勢いよく振り返った。
その真紅の双眸には、突然の来訪者に対する警戒と、隠しきれない動揺が浮かんでいた。子どもは少年が同年代の客であると気づくと、少しだけ警戒を解いたが、ぎゅっと唇を噛みしめて視線を逸らした。
「……別に、なんでもないよ」
強がるような返答。しかしその声はかすかに震えていた。
少年は深く追及することなく、子どもの隣の手すりに並んで寄りかかった。大広間の方からは、かすかに弦楽の調べが漏れ聞こえてくる。
「中、退屈だった?」
少年の問いに、金髪の子どもは驚いたように目を瞬かせた。それから、胸の内に溜め込んでいたものを吐き出すように、ぽつりと言葉を零し始めた。
「……息が詰まるんだ。父上も母上も、会う人みんな同じことばかり言うんだ。家の後継として高貴な純血種らしく振る舞えって。人間種や下位の者と馴れ合うな、あんな者たちを見下ろして支配するのがボクたちの誇りなんだって。……君もそう思う?」
子どもはすがるような眼差しを少年へ向けた。
投げかけられた問いに対し、少年は小さく首を横に振った。
「思わない。君の好きなようにしたらいいよ。俺も今、逃げ出したばっかりだもん」
「そう、なの? ……でもボクが両親の言うような純血種にならないなら、何になればいいんだろう……」
子どもの声には、どこか迷いが滲んでいて。
親の言いなりになることは苦しい。
けれど、家の定めた生き方を拒絶してしまえば、自分はいったい何者として生きていけばいいのか分からない。
敷かれたレールを外れることへの恐怖が、その小さな身体を縛りつけていた。
「何の家に生まれたとか、どんな血を持ってるとかは変えられないけど、どういう奴になるかまで親に決めてもらわなくていいんじゃない?」
その言葉を聞いた瞬間、金髪の子どもは大きく目を見開いた。
そんな考え方をしたことなど一度もなかったのだろう。
驚きと困惑を浮かべて立ち尽くす子どもへ、少年は穏やかに笑いかけた。
「迷っているなら、ヴェストバート寄宿学校に行けばいいよ。きっと君にいい出会いをもたらしてくれる」
「学校……?」
「そう。まあ俺を信じて飛び込んでみなよ」
少年は少し得意げに胸を張り、言葉を重ねた。
「吸血種も人間種も一緒に学ぶ、家柄ではなく自分がどうありたいかで寮を選ぶ学校だ」
生まれ持った血統や階級で人を縛るのではなく、自らの意志で選んだ道を歩むための場所。
少年の語る学校の姿に、子どもは息を呑み、夢を見るような眼差しで夜空を見上げた。
親の言葉にただ怯えるだけでなく、新しい可能性を前にして真剣に思考を巡らせるその横顔を見つめる。
「……いい表情じゃん」
そのとき、大広間へと続くガラス扉が開き、廊下の奥から声が響いた。
「おい、どこへ行った。もうすぐ乾杯の時間だぞ!」
少年を呼ぶ、聞き覚えのある声。
少年は小さく顔をしかめ、肩をすくめてテラスの扉を振り返った。これ以上姿を隠していれば、本気で怒られてしまう。
「呼ばれちゃったみたいだ。俺、もう行くね」
「あ……うん。ボクも、戻らなきゃ」
子どももハッとしたように姿勢を正した。
両親が自分を探し始める前に、広間へ戻らなければならなかった。
「じゃあね。話、聞いてくれてありがとう」
子どもは少年に向かって小さく頭を下げると、急ぎ足で扉へ向かって駆け出した。
少年はテラスに残り、遠ざかっていく金髪の後ろ姿を静かに見つめる。なんだか妙に、目に残る子だった。
――また会えたら、今度は名前くらい聞いてみよう。




