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第3話:霧幻の白樺林の死闘



足元を這うように流れる霧が、いつの間にか膝の高さまで膨れ上がっていた。霧幻の白樺林、またの名をミスト・ヴェイル。王都の天然の防壁とされるその森は、奥へ進むほどにその悪名を剥き出しにしていった。

白い白樺の幹が、まるで行く手を阻む無数の青白い腕のように立ち並んでいる。前後左右、どちらを向いても同じ景色が広がり、完全に方向感覚を失っていた。

「お兄さん、気をつけて。このあたりの霧は、ただの水蒸気じゃないです。微弱な幻惑の魔力が混ざっていて、侵入者の感覚を狂わせるんです」

肩の上のポムが、周囲を警戒するように身体を固くしながら念話を送ってくる。

そのとき、どこか遠くで、獣が土を引っ掻くような低い音が響いた。一つではない。十、二十、いや、それ以上の圧倒的な数の足音だ。

霧の向こうから、無数の赤い眼光が浮かび上がる。それは、鋭い牙と強靭な四肢を持つ狼型の魔獣、ミスト・ウルフの群れだった。彼らは霧に紛れて獲物を追い詰める、この森の狂暴な捕食者たちだ。完全に包囲されていた。


「お兄さん、右から三匹、距離は十メートル! その直後に左後方からさらに五匹来ます!」

ポムの鋭い念話が頭の中に響く。しかし、視界を遮る濃霧のせいで、肉眼では彼らの正確な姿を捉えることができない。

「なるほどな。見えないなら、見えるようにすればいい」

龍騎は冷静に呼吸を整え、体内の魔力を頭部へと集中させた。身体能力を高めるだけが付与魔法ではない。五感を極限まで引き上げることもまた、付与術師の領域だった。

「付与魔法――視覚強化、三十重スタック。さらに、聴覚強化、三十重スタック」

二つの術式が龍騎の眼球と鼓膜に何重にも重ねられていく。彼の瞳が、霧の闇の中で一瞬だけ鋭く金色に輝いた。

世界が一変した。

三十倍に強化された視覚は、濃霧の粒子を透過し、その奥に隠れたミスト・ウルフの毛並みの一本一本、さらには筋肉の動きまでを鮮明に映し出した。三十倍の聴覚は、獣たちの荒い息遣いや、草を踏み締める微かな音から、彼らの正確な位置と距離を立体的に弾き出す。

「見えたぜ……。ポム、完璧な索敵だ」

「へへん、ボクの目に狂いはないですよ! お兄さん、正面の一匹が跳びかかってきます!」

霧の障壁は、龍騎の前で完全に無効化されていた。


ガルルルッ、と獰猛な唸り声を上げ、先頭のミスト・ウルフが鋭い爪を剥き出しにして龍騎の首筋へ跳びかかってきた。

だが、龍騎はそれを避けない。むしろ、あえて無数の魔獣がひしめく群れの中央へと足を踏み出そうとしていた。

「囲まれて戦うなら、まずは絶対に倒れない前提を作っておくか。付与魔法――硬化、五十重スタック。ついでに、自己再生、五十重スタック!」

皮膚の表面が鋼鉄を遥かに凌駕する密度で固定され、同時に、万が一の負傷を瞬時に癒やす治癒の術式が細胞の奥底へ幾重にも埋め込まれる。

ガキィィィン!!

ミスト・ウルフの鋭い牙が龍騎の首元に突き立てられたが、響いたのは肉を裂く音ではなく、金属同士が激突したような硬質な音だった。ウルフは自分の牙が砕け散ったことに驚愕し、苦悶の声を上げる。

「次から次へと、遠慮すんなよ!」

龍騎はそのまま群れの中心へと突撃した。背後や側面から、容赦なく別のウルフたちの爪が背中や太ももを切り裂く。通常の戦士なら一瞬で血だるまになる波状攻撃。しかし、五十重に重なった硬化のバフは彼らの攻撃をすべて弾き返し、かすかに擦り傷がついたとしても、次の瞬間には自己再生の光がその傷をゼロ秒で完全に塞いでいた。

一切の傷を負わない無敵の肉体。龍騎はただの歩行のような動作で、群れの包囲を内側から強引に押し広げていった。


「お兄さん、一番奥! 岩の上にいる一際大きいやつが、この群れのボスです! あれを叩けば群れは崩壊します!」

ポムの指示通り、霧の奥の巨大な岩柱の上に、通常の三倍はあろうかという巨体を持つミスト・ウルフ・ロードが鎮座していた。ロードは部下たちが全く龍騎を傷つけられないことに焦りを感じたのか、喉を鳴らして強大な魔力を練り始めている。

「指示通りに動くさ。一撃で終わらせる」

龍騎は右拳を引き絞り、体内の魔力を一気に爆発させた。重ねるのは筋力ではない。拳を突き出した瞬間に生じる空気の圧力を付与魔法で固定し、指向性の衝撃波へと変換する術式だ。

「付与魔法――衝撃付与、八十重スタック!」

龍騎の右拳の周囲で、空間がバリバリと音を立てて歪み始めた。

「はああぁぁっ!」

気合と共に、龍騎は前方の空間へ向けて拳を真っ直ぐに突き出した。

ドゴォォォォォン!!

それは打撃の音ではなく、大砲が至近距離で炸裂したかのような爆音だった。拳が空気を強烈に押し潰し、八十回重ねられた衝撃の術式が一挙に解放される。目に見えるほどの白い空気の塊が、巨大な津波となって前方の霧と白樺の木々、そして襲いかかろうとしていた魔獣たちをまとめて呑み込んだ。

岩柱ごと、ミスト・ウルフ・ロードの巨体が吹き飛ぶ。背後の木々が何十本も巻き込まれて粉砕され、森の奥深くまで続く直線状の荒野が出現した。ロードは戦うことすらできず、衝撃波の圧力だけで絶命していた。

ボスを失った群れの生き残りたちは、恐怖に尻尾を巻き、一斉に霧の奥へと逃げ去っていった。

「ふぅ……。これで片付いたな」

龍騎が息を吐くと、五感や防御のバフが静かに解除されていく。

「すごいですお兄さん! ボク、衝撃波だけで森を削り取る人間なんて初めて見ました! あ、見てください、ロードがいた場所に綺麗な魔力結晶と、ウルフたちの貴重な毛皮が落ちてますよ!」

ポムが跳ねながら教えてくれる。ロードの死体があった場所には、深く澄んだ青色をした大粒の魔力結晶が転がっていた。ミスト・ウルフの毛皮や結晶は、防寒具や魔導具の素材として街で非常に高く売れる代物だ。

「これだけの量があれば、王都のギルドでも無視できない額になるはずだ」

龍騎は落ちている結晶と上質な毛皮を手際よく回収し、袋に詰めていく。無一文で追い出された彼にとって、これがこの世界で自立し、あの傲慢な王国を見返すための確かな第一歩、生還の足がかりとなる富だった。

「よし、ポム。これを軍資金にして、次は街のギルドに乗り込むぞ」

「はい! お兄さんの本当の恐ろしさを、街の人間たちにも教えてあげましょう!」

夜明け前の微かな光が霧の隙間から差し込む中、龍騎とポムは確かな手応えを胸に、森の出口へと歩き始めた。



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