第5章:愛の救済
霊界のゲートを抜け
俺たちが降り立ったのは
都内の閑静な住宅街にある一軒家だった。
外見は立派だが
家全体からどす黒い瘴気が溢れ出ている。
「……ここだ」
俺の心臓が
生きていた頃のように激しく脈打つ。
神様の配慮か
俺たちは杏奈が死を迎える「2週間前」の
今まさに暴力が振るわれようとしている
その瞬間に到着したのだ。
壁を透過して中に入る。
リビングの奥にある寝室から
男の怒鳴り声と
何かがぶつかる鈍い音が聞こえた。
「――この尼がッ!
まだあの死んだ男の写真を隠してやがったのかッ!!」
「……いや、やめて、龍矢さん……お願い……っ!」
杏奈の声だ。掠れて、泣き濡れた、悲痛な叫び。
俺は寝室のドアを蹴破るようにして中に入った。
そこは、地獄だった。
床に散乱した、俺との思い出の写真。
破かれたクッション。
そして、その中心で、一人の男が
うずくまる女性に馬乗りになり
拳を振り上げている。
「――杏奈ッ!!」
俺の声に、男――龍矢がピクリと動きを止めた。
馬乗りになられた女性が
ゆっくりと顔を上げる。
ボロボロのパジャマ。
頬には青あざ。口角からは血。
だが、その瞳は
間違いなく俺が愛した、杏奈の瞳だった。
「……と、しや……くん?」
杏奈が、信じられないものを見るかのように呟いた。
「……誰だ、てめぇッ!
どこから入ってきたッ!!」
龍矢が俺を睨みつけ
杏奈から離れて立ち上がった。
その瞬間、俺の背後にいた二人の天使
サファエルとラファエルが前に出た。
「……人間の分際で、
主が愛した魂を汚すとは。
言語道断」
サファエルが冷徹に告げ
ラファエルが聖なる杖を龍矢に向ける。
聖なる光が龍矢を包み込み
その動きを完全に封じた。
「が……あ、あ、身体が動かねぇ……ッ!」
龍矢が恐怖に顔を歪ませる。
俺は、床にうずくまる杏奈の元へ、
ゆっくりと歩み寄った。
「杏奈……。遅くなって、ごめん」
俺は20歳の、あの日の姿で
彼女の前に跪いた。
「……夢? 私、もう、死んだの……?」
杏奈の手が、震えながら俺の頬に触れた。
温かい、俺の頬に。
「夢じゃない。……俺だ。敏也だ」
「敏也くん……敏也くん、敏也くんッ!!」
杏奈が俺の胸に飛び込んできた。
ボロボロの身体で、俺を強く、強く抱きしめる。
俺も彼女を抱きしめ返した。
その背中が、あまりにも細く
傷だらけで、胸が張り裂けそうになる。
『ワンワンッ! 杏奈お姉ちゃん!』
「……マルル? マルルもいるの……?」
マルルが杏奈の足元に寄り添い
涙を流しながら鳴いた。
「……杏奈。俺、神様にお願いして
死神になったんだ。……お前を、迎えに来た」
俺は彼女の目を見て、静かに告げた。
「お前は、2週間後に
あいつの暴力で死ぬ運命だった。
……でも、神様が許してくれたんだ。
これ以上、お前を苦しませたくないって。
……だから、今、俺と一緒に、行こう」
杏奈は少し驚いたように目を見開いたが
すぐに穏やかな
本当に安らかな微笑みを浮かべた。
「……うん。敏也くんと一緒なら
どこへでも行く。……もう、疲れたの」
「……ああ。行こう。
あいつのいない、幸せな場所へ」
俺は杏奈を横抱きにした。
サファエルとラファエルが
俺たちの周りに光の結界を張る。
俺たちは、龍矢の呪詛の声を
聞き流しながら、家を出た。
「敏也くん……。
あのね、敏也くんが死んでから
一度も散歩に行ってないの」
俺の腕の中で、杏奈が小さな声で言った。
「……そうか。じゃあ、行こう。
俺とマルルと、三人で。最後の散歩だ」
俺たちは、2週間後の死の日時を待たず
今まさに、現世を後にした。
俺が抱きかかえる杏奈の肉体からは
静かに魂が離れ
俺の腕の中で、あの日と同じ
20歳の美しい姿へと変わっていった。
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次回も楽しみに♡




