プロローグ 二隻の船
「各計器、正常値。航路、異常なし」
独り言のように呟き、俺は操舵席の背もたれに体を預けた。
この船は今、とある目的地を目指して航行している。といっても、海を渡っているわけじゃない。進んでいるのは、四次元空間だ。
周囲には海もなければ、空もない。それどころか、上も下も定かではなかった。絵の具を水に溶かしてかき混ぜたようなマーブル模様の景色が、船の背後へ向かって凄まじい速度で流れていく。まともに見続けていれば、方向感覚どころか、めまいまで起こしそうな奇妙な空間だ。
目的地は、惑星アーク。生命が死に絶えてしまった星。俺の仕事は、崩壊してしまったその星を再生させることだ。
隕石の衝突か、はたまた戦争か。理由は忘れた。滅んだのは、アークの暦でいう何年だったか――それも、忘れたな。
まぁいい。目的地と到達年代のインプットは、すでに済んでいる。あとは船が勝手に連れていってくれる。
この船はオートドライブだ。船内のAIが、一千万分の一秒単位で全てを制御している。だから、計器がぴたりと安定しているのは当然だった。船体に揺れはなく、異様な静寂の中、ただエンジンの低い唸りだけが操舵室に響いている。
退屈だ。きわめて退屈だ。
目的地を入力してからというもの、正直なところ何もしていない。通算千回目の欠伸を噛み殺し、目尻に浮いた涙を指でぬぐう。あまりにもやることがなさすぎるので、操作盤をカタカタ叩いて、仕事をしている雰囲気だけ出してみる。
すると、船内AIの無機質な声が響いた。
『自壊シーケンス起動。反応炉、炉心解放準備。十秒、九、八――』
待て待て待て待て!
慌てて制御盤に飛びつき、キャンセルボタンを連打した。
『自壊シーケンス、中断』
赤い警告灯が消え、操舵室は何事もなかったかのような静けさを取り戻した。
「ふぃー……危ないところだった」
もう少しで、うっかり船を消し飛ばすところだった。額に浮かんだ冷や汗をぬぐい、ほっと息を吐く。
その直後、腹の奥から、ぐぅぅ、と情けない音が鳴った。
ひと仕事終えたせいか……腹が減ったな。確か、保管庫にプリンがあったはずだ。
「よっこいしょういち」
四次元世界で大流行している掛け声とともに、俺は操舵席から立ち上がった。
俺のプリンは特製だ。カラメル八、カスタード二のごく甘仕様。それにさらにカラメル一をかけて食べる。全体を十で見れば、カラメル八・一八一八、カスタード一・八一八一八……。
もはやプリンというより、ほぼカラメルだ。
そういえば、生クリームもあったよな。一緒にかけて食べよう。そう思いつつ、鼻歌混じりに保管庫の扉を開ける。
「……え?」
あるはずのプリンがない。それどころか、他の食い物まで消えている。空っぽになった棚を見つめたまま、俺はしばらく固まった。
代わりに、一枚の紙切れが置かれている。何だこれ、とつまみ上げて広げてみると、そこには雑な字でこう書かれていた。
『甘すぎ。死ね』
「…………」
船内の食料を食い漁った上に文句まで残す。こんなことをするのは、あいつしかいない。ふつふつと怒りが湧いてくる。
「あんの、くそロボが……」
低く吐き捨て、俺は怒りに任せて保管庫の扉を力いっぱい叩き閉めた。
直後、けたたましい警報が操舵室に響いた。
いくつもの電子音が重なり合い、赤い警告灯が激しく明滅する。さっきまでの静けさは、一瞬で吹き飛んだ。
保管庫の扉を強く閉めすぎたのがAIの気に障ったのかと思い、もう一度扉を開け、今度はそっと閉じてみる。だが、警報は鳴りやまない。
訳が分からずにいると、AIの音声が流れた。
『警告。前方より船影出現。現在、衝突コースを航行中』
「なに!?」
慌てて操舵席へ戻り、制御盤を操作する。目の前に淡い光が走り、空中に薄いモニタが展開された。
そこに映し出されたのは――一隻の船だった。
外装は大きく剥がれ、船体のあちこちから破片が散っている。半壊した船は、その残骸を引き連れながら、凄まじい速度でこちらへ迫ってきていた。
このままじゃ、ぶつかる。
俺は通信回線を開いた。
「こちらCW256。未確認船へ告ぐ。現在、衝突コースにある。直ちに進路を変更しろ!」
返事はない。嫌な汗が背中を伝う中、さらに声を張り上げる。
「おい、聞こえてるか! 応答しろ! 応答しないなら、破壊するぞ!」
だが、通信は沈黙したままだ。
「この恥ずかしがり屋が……」
歯噛みしながら操作盤を叩き、レーザー砲の起動シーケンスを呼び出した。
操舵席の左右に、新たなモニタが浮かび上がった。主砲制御、照準補正、エネルギー充填、安全ロック解除――起動に必要な項目が、次々と画面に現れる。
船体の奥から、低い唸りが伝わってきた。制御盤の出力ゲージがじわじわと上昇し、充填率を示す数字が八十、九十、九十五と跳ね上がっていく。やがてゲージが上限に達し、白く点滅した。
制御盤の中央に、発射ボタンがせり上がる。あとは、これを押すだけだ。
「おい、撃つぞ。撃つからな!」
もう一度だけ呼びかけてみるが、やはり返事はない。
『回避可能限界、通過。破壊可能限界通過まで、十秒』
もう迷っている暇はない。俺が発射ボタンに指をかけた、そのときだった。
『接近船の解析完了。識別コード――CW256』
「……は?」
思わず声が漏れた。
聞き違いか。それとも、解析ミスか。
だって、そうだろう。あれが――俺の船のわけがない。俺は今、この船に乗っている。
呆然としながら顔を上げた。
先ほどまで小さな点にすぎなかった船が、みるみるこちらへ迫ってくる。
このままじゃ死ぬ。早く押せ。
頭ではそう思っているのに、発射ボタンにかけた指は動かなかった。
『破壊可能限界、通過』
『衝突まで、十秒、九、八……』
無機質な声が、操舵室に響き渡る。
『五、四……』
頭の中が真っ白になっていく。甲高い警報音が、水の底から聞こえるみたいに鈍った。胸の奥で鳴る鼓動だけが、異様にはっきりと響いている。
『三、二……』
迫りくる船の窓の向こうに、人影が見えた気がした。
『一』
警報音が、ふっと途切れた。
『グッドラック』
その声を最後に、船体そのものが砕けるような衝撃が走った。
正面の窓が砕け散り、操舵室の壁が内側へひしゃげる。床が跳ね上がり、天井が裂け、制御盤が火花を散らしながら吹き飛んだ。
「ぐあっ――!」
身体が操舵席から浮き上がる。
次の瞬間には、俺は船外へ放り出されていた。
周囲では、四次元空間の異様な色彩が、ぐちゃぐちゃに引き伸ばされながら流れていく。自分がどちらを向いているのかさえ分からない。それでも、何とか体勢を立て直そうと手足を動かす。
だが、つかめるものは何ひとつなかった。身体はただ、荒れ狂う流れに押し流されていく。
船体から剥がれた装甲片が、音もなく次々と視界の端をかすめていった。銀色の破片がマーブル模様の空間を切り裂き、そのたびに細い亀裂が走っていく。
一本。また一本。
白い傷のような亀裂は四方へ伸びながら次々とつながり、見る間に一つの大きな裂け目へと変わっていく。その奥から、白い光が漏れ出した。
まずい。
そう思った瞬間、裂け目が一気に大きく開いた。
まばゆい光があふれ出し、視界を真っ白に染めていく。伸ばした手の先が、光の中に消えた。
俺は抗うこともできないまま、意識ごと、その白い光の奥へ引きずり込まれていった。




