第1話 種と呼ぶにはあまりにも大き過ぎる
陽が沈むと響き渡っていたひぐらしの音色は、夜が涼しくなる季節が近づくにつれて聞こえなくなっていた。僕の部屋着もハーフパンツから長めのジャージに衣替えを終えている。
中総体と勉強づくめの夏休みを終えたと思えば、カレンダーはいつの間に十月のページになっていた。今年はもう三ヶ月ない。僕が中学生でいられるのもあと半年もない。ちょっとばかし感傷に浸りたくなるけども、目の前にある問題集の数々を前にそうは言ってられない。
「く……あー」
大きく背伸びして腕を三回ほど回す。
部活をしていた頃は毎日へとへとになるまで走り回っていたけれど、机に向かっているのもこれはこれで別の疲れが溜まるものだ。
部屋に立てかけてある時計は夜十時を指している。あと一ページ分の問題を解いて、答え合わせまでしてから今日のところは切り上げるとしよう。明日も普通に登校日、肝心の授業の内容が頭に入らなかったら元も子もない。
「よしっ」
ペンを指の上でくるりと一回転させて問題集と向き合う。
前のページには所々要点や補足が書き込まれていて、いつでも振り返りが出来るようにしてある。特に間違えた問題に関しては、間違えた理由や次への反省も付け加えてある。
書き込むだけが勉強じゃないと知った上で、僕にしては中々うまいこと学習できていると思う。夏休み明けの実力テストもまずまずの出来だったし、学力は向上していると思っていいだろう。
「ここは確か……」
頭を捻らせて記憶を辿りながら問題を解いていく。
こうして進路のために勉強していると、自分の将来を嫌でも考えてしまう。
僕の第一志望は至って普通の高校だ。進学志望半分、就職志望半分のいい意味で幅が広い、悪い意味で中途半端な学校。家から徒歩で通えて学力的にもちょうどよく、何より波風に通う過半数がそこに通う。僕もその中の一人で、多分進学しても今とそう変わらない学校生活を送れるだろう。
至って普通で、至って平凡。目立ちすぎず目立たなすぎずの立ち位置。野球を辞めた今の僕に大きな変化はいらない。
しかし、最近はそこから先のことが見えてこない。高校で三年間勉強して、僕はそこから何を目指す? クラスメイトの何人かは将来何をしたいか、どんな仕事に就きたいか明確な夢や目標が見えている。
僕はこれから先、やりたいことや目標を見つけられるのかと不安になる時がある。このまま何も見つからないまま、それこそ中途半端なままふらついた人生を歩むのでは? と悲観してしまいがちだ。大きな変化は欲していないが、目標を見つけるのも大事になってくる。
もっとも、勉強しないと将来の幅を狭めてしまうらしいので、今はただひたすら机に向かうしかない。
「あれ……? どこに置いたっけ?」
問題の答え合わせをしようとしたところで回答がないことに気づいた。答え合わせを明日に回すのもモヤモヤするし、何より終わった気がしない。早いとこ見つけて終わらせたい。
「……うわ」
机の上をくまなく探しても見当たらない……。まさかと思いベッドの方を振り返ると、僕の嫌な予感は的中した。将来に関する不安もだけど、ここ最近の僕にはもう一つ大きな悩みの種がある。
「ねえ、もう十時だよ。おじさん達心配するんじゃない?」
「……」
「……聞いてる?」
「んー」
「明日も学校なんだからさ、そろそろ帰ったら?」
「今いいとこ。話かけないで」
「僕もう少しでお風呂入るんだけど」
「いってら」
「あのさ、もう遅いから帰った方がいいって」
「……」
僕がこれ以上なく気を遣って、ものすごく言葉を選んで帰るよう催促しても、ベッドは別勢力に占領されたまま。
何時間も前からベッドを占領しているこいつの明日も未来も、正直言って僕にとってはどうでもいい。ただ、僕が探し求めていた問題集の解答が、あらぬことにこいつの下敷きになっているのだ。勉強中は干渉しないうようにしていたけれど、この状況じゃそうも言ってられない。
「あのさ、非常に言いにくいんだけど、問題集の解答がさっきからずっと下敷きになってんだよ。帰らなくてもいいから少し退いてよ。少しでいいからさ」
「話しかけんなって言った」
「ぐ……っ」
ベッドをグチャグチャにされているのも、音を出してピコポコとゲームをしているのも目を瞑ってやったのに、たった数センチ退いてもくれないとは……。
おまけにこの態度……、同級生がみんな受験勉強に明け暮れているというのに、なんて怠惰で自堕落な奴なんだ。
「触んな」
どうにか隙間から解答を取ろうとしたが、素早く手を引っ叩かれる。
「あのな、僕の話聞いてた?」
「聞いてない」
「じゃあもう一回頼むから」
「聞かない」
体勢を変えられたせいで解答は手の届かないところに埋め込まれてしまった。つーか寝返りを打てるなら少し退くくらい出来るだろ!
「言っても意味ないかもしれないけど、念の為言っとく。ここは僕の部屋だからな」
「知ってるうるさい」
知った上での行動と態度ならば、こいつにとって僕の立ち位置って地べたを這いずり回っているに等しいのだろう。こいつとは一体前世でどんな因縁を持っていたんだろう。
「……はあ」
「ため息うるさい」
「はいはい」
だらしなく寝そべっている姿に今一度目を向ける。
少し癖っ毛の混じるボブカットヘアーは地毛が若干茶色いのが特徴的だ。ぽーっとした表情をしてるのが多いからか、周りの人間から天然系だと思われがちで、身長百五十センチにも満たない小柄さで小動物を彷彿させてはいる。
僕が通う波風中学の制服に、三年のトレードマークの緑色のリボン。本来女子はそういうとこには気を使って慎むべきなんだけど、スカートは完全に捲り上がり、中に履いている学校指定のハーフパンツが丸見えだ。
「見過ぎ。変態」
「誰が見るか変人が——うごっ!?」
枕が腹に直撃する。大して痛くはないのだけど、突然のことだったのでオーバーなリアクションになってしまう。
「クソ雑魚変態」
これが今の最大の悩みの種。放課後にはこうして幼馴染が部屋に押しかけて来てマイベッドを占領している。これはもう占領なんて生優しいものじゃない、乗っ取りだ。
深刻さが理解できない人には羨ましいとか呑気なこと思われるんだろうけど、でも一度先入観を無しにして想像してみてほしい。こんなのでも相手は女の子だ。
態度や言動はアレでも一応は女の子。同じ部屋に二人きりの状況、勉強に集中するのはそんなに簡単だろうか? 容易いだろうか? 少なくとも僕は最初の数日は頭に入ってこなかった。
それだけじゃなく、今みたいに勉強道具を背中で押し潰しているのも立派な妨害だ。僕の受験勉強に良くない影響を与えている。
僕の涙ぐましい努力と精神力の末、どうにか受験勉強として成り立ってはいるが、環境としては普通に悪い部類に入るだろう。
「もういいや……僕お風呂行くから後は適当にどうぞ」
「ん」
見た目の可愛さや声の愛くるしさ、その全てを帳消しにしてしまうレベルの態度と性格の悪さ。そんな奴と同じ空間に長時間一緒にいればストレスは確実に溜まっていく。
「あ、そうだハル」
「なに?」
「シャワー終わったらカルピス持ってきて」
「……まだいるつもりかよ」
女の子と二人きりという状況と、繰り返される暴挙の数々、二つの精神的負担は間違いなくこの幼馴染が原因だ。 僕の幼馴染『小鳥遊麻央』は、種と呼ぶにはあまりにも大き過ぎる悩みだ。




