第29話 ノンデリカシーでいいよ
「楠君楠君、ちょっと」
「え? 僕ですか?」
出ようとしたところで唐突に七海さんのお母さんに呼び止められた。手招きに従って近寄ると、ますます二人の顔が似ているのを実感する。
お世辞とか一切抜きで親というより少し歳の離れたお姉さんにしか見えない。なんの情報もなければ大学生と紹介されても信じて疑わないだろう。
「今日は遊びに来てくれてありがとね」
「僕のほうこそ急にお邪魔しちゃってすみません……」
「綾香が友達連れてくるのなんて久しぶりだからつい嬉しくなっちゃって。もしかして二人の邪魔しちゃった?」
「そんなことないですよ。学校の時以外のあ……七海さんを知れてよかったです」
名前を言いかけたが、突如迫り上がってきた恥ずかしさに押されて普段の呼び方に軌道修正。そんな葛藤が丸わかりだったのか、七海さんのお母さんは口元に手を当ててクスクスと笑っている。
「楠陽也君。これからも綾香と仲良くしてあげてくださいね」
「はい。もちろんです」
考える間もなく応えてみせた。違う学校に通うことになっても、僕は七海さんとは仲良くしていきたいし、連絡も取り合いたい。言われなくともそうするつもりだ。
「楠君、私途中まで送ってく……あ! お母さん!」
七海さんが二階からパタパタと降りてくる。通学の時とは違うデザインのコートを羽織っているのがすぐに目に入った。
「あれ綾香? 新しいコート着ちゃってどうしたの?」
「うるさい。お母さんには関係ない」
「はいはいはい、お洒落して楠君送るのね。どうぞごゆっくり〜」
度々ちょっかいをかけられたせいで、七海さんが完全に反抗モードに入っているが、お母さんは慣れた様子だ。この親子にとってはこれが平常運転なのだろう。
「いこ」
「あ、お邪魔しました」
振り返って軽く頭を下げる。七海さんのお母さんは胸の前で両手を小さく振って返してくれた。仕草も中学生の娘がいるとはとても思えないんだよな。
******
今朝見た天気予報では、今晩は雪が降る可能性があると話していたのをふと思い出した。真っ暗な夜の空は、分厚い雲が完全に覆い尽くしてしまっている。二月の半ばなのもあって、いつ雪が降り始めても何もおかしくない。
「七海さんのお母さんすごく若いんだね」
「幼稚なだけだよ」
面白くないと言いたげな声のトーンで七海さんから返ってくる。どうやらまだ家でのことを気にしているようだ。
「でもさ、僕は二人のこと楽しそうでいいなって思ったよ。一緒にお弁当作ってるのも、仲がいいからできるんだなって」
「ねえ楠君。そんなことより、また学校で一緒にお弁当食べたいね」
「へ? あ、うん……」
自分では中々気の利いたフォローをしたつもりだったのに、当の本人からバッサリ流れを切られてしまう。七海さんらしくない実に強引な切り方だ。
「あれ? 楠君はそんなに乗り気じゃない? 一緒にお弁当食べるの。ハンバーグ作ってくるよ?」
「いやいやいや! もちろん一緒に食べたいよ? 楽しみだよ? でも今はお互い色々と余裕がないだろ? 受験とか終わって落ち着いてからじゃないとね?」
「なんだかなあ……必死に取り繕ってるようにしか見えないんだよな〜」
「そんなこと……え? 七海さん?」
僕がどう返すのがいいか考える間もなく、七海さんは足を止めて顔を覗き込んできた。
「なーに? 楠君」
「え……その……」
『それはこっちの台詞だよ』と言いたいけど、思いの他距離が近くて言葉が上手く出てこない。
いきなりだったのもあるが、久しぶりに間近で七海さんの顔を見て頭の中が大渋滞を起こしている。『目だけじゃなじゃなくて、顔も綺麗だ』とか『眼鏡外して欲しい』とか『ヘアピン全然付けてくれないな』とか『地味だけど可愛いのは未だに誰も知らないんだよな』と一度に溢れてきてしまったのだ。
何度も何度も気づかないフリをしてきたものが浮かんできて、自分に歯止めをかけるのが難しくなってくる。ずっと考えないようにしていたけど……。
——七海さんは。
「七海さん……もしかして何か悩んでる?」
「っ!」
ほんの一瞬だが、七海さんの瞳が大きく揺れたのを見逃さなかった。タイミングとして適切だったのか、最悪だったのか……。
このタイミングじゃなければ切り出せないと直感した。
七海さんの頭にも間違いなく僕と同じ光景が浮かんでいるだろう。
放課後に一組で起こっていた揉め事、あの渦中に七海さんは確かにいた。
今日あと一ヶ月もしないうちに卒業するのだから、気にしなくていいと投げ出すのは簡単だ。しかしだからこそ、この問題をほったらかしにして受験に悪い影響が出たり、後味の悪い卒業になってしまっては始末が悪い。
だがそれ以上に、こんなノンデリ男に良くしてくれた七海さんが悪く言われるのが許せなかった。
すぐに問題解決とはいかないけど、話くらいなら僕にだって聞ける。これまで何回も相談に乗ってくれたのだから、僕にできることならなんだってやってみせる。
「やっぱ見ちゃったんだ……さっきのあれ」
「ごめん……見るつもりはなかったんだ。職員室からの帰りに偶然ね」
「はあ……なんでこんな時ばっかり気づいちゃうのかなぁ……」
「え? もしかして今までも同じようなことあった?」
「こっちの話。気にしないで」
「いやいや、気にしないってのは無理があるよ」
目を逸らそうとした七海さんを真っ直ぐに見据えて逃げられないようにする。
かなり強引かもしれないが、こうでもしないとはぐらかされてしまうし、ここまで踏み込まないと僕も後戻りしてしまう。
「楠君、前に小鳥遊さんと色々あった時は関係ないって突き放してきたのに……自分はいいんだ」
「あの時は喧嘩どころか幼馴染とのいざこざ程度だっただろ? そんなことにわざわざ七海さんの手を焼かせるのは違うよ」
「違う違わないは私が決めることだよ」
「そうだとしても、今は七海さんが抱えている悩みを解決するのが最優先だよ」
「……なんか今日の楠君変。自分勝手過ぎ……」
散々な言われようだが、ちっとも帰る素振りを見せないあたり、まだ打ち明けてくれる余地があると思っていい。
「女子の間ならよくあることだよ。小鳥遊さんから何も聞いてない?」
「いや……僕は何も」
どういうことだ? 麻央も何か知ってるのか?
「ふーん……小鳥遊さんそこらへんはちゃんとしてるんだ。意外」
「ちょっと待って。全然話が見えてこないんだけど、もしかして冬休み前の噂がまだ響いてるとか?」
「それも含まれてるけど、もっと根本的な部分からとでもいうのかな……」
放課後のあの状況でも事態がかなり深刻だと思っていたけど、もっと大きな問題ってこと? だとしたら先生達も黙っちゃいないだろ。それに女子の間だけなのも引っかかる。
「とにかくさ、私はもう慣れてるから全然平気なんだ。楠君はこれまで通り普通にしてて」
「普通って……そんなの無理に決まってるだろ」
ここまで聞いて普通ではいられない。せめて何が起こっているかくらい教えてもらわないと今日は帰れない。
「だめだよ。受験までもう一ヶ月ないんだよ?」
「知ってるよ。でも受験を控えているのは七海さんも一緒だ」
「私は大丈夫」
「ここで油断しちゃダメなのは自分が一番わかってるだろ?」
「あのね? 本当は自分で気づいて欲しかったけど、良い加減しつこいから言うね? 女の子がここまで教えたくないって拒んでるんだよ? ここまで言わないとわからない?」
「う……それは……」
冷たい声音が胸の奥に突き刺さる。優しい七海さんからの目一杯の拒絶。普通に考えたら、一度断られた時点で聞き入れるのが常識であり、マナーだろう。僕にだってそのぐらいのデリカシーはある。ここから先に踏み込まない方が、僕にとっても七海さんにとっても波風立たないのも理解している。
「楠君、今の謝るとこだよ?」
「……だよね」
「ノンデリカシーだよ」
謝って聞かなかったことにするのが正解。それでいいはずなのに、それしかないはずなのに、今だけは認めたくなかった。
「でも僕は……七海さんが悪く言われるのが嫌だ。悲しい思いして欲しくない。辛そうな顔見たくない」
「……言ったよね? しつこい。やめて」
ついさっきまでの楽しい雰囲気は跡形もない。明日七海さんに声をかけても口を利いてもらえないどころか、これから先、一生僕と関わろうとしなくなるかもしれない。想像しただけで苦しくなる。
心臓が嫌な鼓動を刻み始める。寒いはずなのに、不可思議な暑さが身体の内側に広がっていって気持ちが悪い。
これ以上踏み込んだら、言ってしまったら全部終わる。本当に終わってしまう……。
「七海さんが悲しんでいるのを見過ごすくらいなら、僕はノンデリカシーでいいよ」
「……っ」
言ってしまった。
一度口から出てしまったら取り返しはつかない。時間が巻き戻るような都合のいい現象は作り物のお話だけだ。
「じゃあ……もういいや」
自然と視線が足下に落ちた。口元に持ってきた手が僅かに震えているのが、しでかしたことの大きさと七海さんが何に対して『いいや』と呟いたのか答えを示している。
「あの……僕」
「うん。バイバイ」
七海さんの足音が少しずつ遠くへ遠くへと離れていく。後ろ姿を追いかけるどころか、顔を上げて目に焼き付けることすらできない。去り際に置いていった言葉が、僕達の確かな決別を意味していた気がしたから。
相談に乗りたかった、少しでも助けになりたかった。その気持ちに偽りはないのに、その気持ちが僕の独りよがりだと受け入れるのに、あとどれぐらいの時間が必要なのだろう。
現実に気持ちが追いついたら、多分僕はそこはかとなく落ち込んで何日も引きずるんだと思う。こんなに簡単に切れてしまうほど、僕と七海さんの間には何もなかったのかと問いかけ続けるのだろう。
**
重たい息を吐き切ってようやく顔をあげる決心をする。
いつまでもこうしているわけにもいかず、両手を膝に合わせて立ち上がった。
「……え? あれ? 七海さん?」
「ばぁか」
間違いなく僕の元を離れた筈なのに、
「普通追いかけてくるのに……なんで追いかけてこないの。ノンデリカシー」
七海さんはいじけた子供みたいな顔をして僕の前に戻っていた。




