さよならの次に
西校舎の窓を細く開けると、少しひんやりとした風が勢いよく入ってくる。
その風と共に、薄紅の花弁がひらりひらりと教室の床に落ちる。
後ろのドアが勢いよく開いて、入ってきたのは私がずっと会いたかった人。
「やっぱり、ここか」
息苦しいくらい強く抱き締められる。硬く温かい胸に頬を擦り付けると、彼の匂いが体に染み込むように満たされる。
「……会いたかった、ずっと。でも、ビックリしたよ。教頭先生の前であんなことして」
「いいんだ、俺のだってわかるだろ?……誰にもさわらせたくないから。……何で来なかった?……心配した」
「……うん、ごめん。ちゃんとしてから会いたかったし、……怖かった、もう全然、私のこと忘れてるかなって……、会いたいって思ってるのは私だけなのかなって……。だから、嬉しかった」
「……ずっと会いたかった、ずっと探して、送っていけばよかったと後悔した。……驚いたな、まさか事務員で会うとは思わなかった。……髪も随分、短くしたんだな」私の髪は彼の指をすぐにすり抜けてしまう。
「うん。渚に間違われるとダメだから。事務員じゃないし、ちゃんと教頭先生の話し、聞いてなかったでしょ?図書室の非常勤なんだけど、この夏に講習受けて、司書になりたいから、頑張るよ」
「そうか。司書か、いいな。よかった。……渚に会った」
「ええっ!本当に?あの子何にも言ってなかったよ?」
胸から顔を離して見上げると、彼は困ったように微笑み、はぁっと息を吐く。
「3月の半ばくらいだった……コンビニで偶然、会って、アパートに連れていかれて、死んだって言われた。花の飾ってある棚の前で……」
渚の得意気な顔がすぐに頭に浮かんだ。
「あぁ……、ごめん。渚そんなことしたんだね。渚は恭平さんのこと、ただのヤリ逃げだって、怒ってて……。その……、私の体の痕……見て、それもあり得ない、変態って怒ってて……。お姉ちゃんは騙されてるって、そんな男、おっぱらってやるって言ってた」
「……騙されたってことか」
「……ごめんなさい」
「……まぁ、いいさ。……遺影も位牌もないなんておかしいしな、すっかり騙されたな。…………真保、真保も騙されてるって思ったか?」
彼の声で名を呼ばれ、私はじっと目を閉じて胸に頬を寄せる。
「……真保ってもう一度呼んで?」
「何度でも。……真保、もうどこにも行くな」
「うん」
彼の腕が私を強く抱きしめる。私は思うように、力の入らない左腕を彼の背中に回した。
ピッピッピッピッピッ……。
規則正しい電子音が聞こえる。
『わかりますか?手を握って下さい』
声が聞こえるけれど、体はベッドに縫いとめられたように動かない。気分が悪く、吐き気がする。頭も肩も首も痛いけれど、それを言葉にすることもできない。自然に落ちてくるまぶた、遠退く意識、私はそれに抗うことはできなかった。
「お姉ちゃん?今日はだいぶ、良さそうじゃん?」
「……渚、毎日来なくても大丈夫なのに」
「来たくて来てるんだから、いいの。今日はバイト夕方からだし、家に居たって暑いだけたし、病院は涼しいし。リハビリ、一緒に行くからね」
「……渚、大丈夫だから、ちゃんと頑張ってるよ?」
「キョウヘイちゃんに会いたいしね?……絶対に身体目当てのヘンタイ野郎だって!騙されてるだけだよ?……手術の直後のあの恥ずかしかったことっ!思い出しただけでも腹が立つ!普通、噛む?まぁ、キスマークくらいは多少……、いやでもあれはやり過ぎでしょ?ないっ!絶対にないわ!お姉ちゃんは男に免疫ないから、おかしいのわかんないかもしれないけど、ありえなくない?」
「……たぶん、ないよね」
「笑ってるしっ!」
渚は高校を結局、辞めてしまった。そうなったのは私のせいだけれど、渚は何も言わない。「大学には行くから、その時はよろしく」と微笑みを浮かべる。
手術の後、腫瘍は全て摘出することができ、追加の化学療法も放射線療法も必要ないことがわかり、渚と二人で泣いた。
けれども、左半身に麻痺が残り、私の左手と左足は思うように動かない。
座っていてもいつの間にか、体は左に傾き、言葉も前のようにはっきりとは発音できない。歩くことはもちろん、階段も小さな段差にもつまずいてしまう。
リハビリを続ければ、動くようになるのだろうか。
こんな体に苛立ち、先を思うと不安で鬱ぎがちになる私を渚は励まし、助けてくれる。
「ありがとう、渚」
「何が?……そう思うなら、早く退院して、わたしにご飯作ってよ。……料理ってマジ無理だからっ!」
彼は私を待っていてくれるのだろうか。もう、忘れてしまっただろうか。
まだ、名前を教えるという約束は果たせていない。
また、会えるのだろうか。
また、会いたい。
「……お姉ちゃん、わたしアパートまで行ってきてもいいよ?あの酒屋の裏なんでしょ?……でも、遊びだったって言われても知らないからね」
「……いい。会いたいけど、こんな姿、見られたくないし」
手術のために、髪を切った。切ったというよりは剃った。じょりじょりする頭を見られたくはないし、動かない身体を見られたくはない。
「また、腹立ってきた。ちゃんと連絡先を教えてれば、こんな思いしなくていいのにっ!……手だけ早いって、あり得ないって!」
「ほんと」
「また、笑ってるしっ!そんなこと、思ってないよねっ!絶対!」
渚は頬を膨らませている。ふっと肩を弛めて言った。
「……お姉ちゃん、キョウヘイちゃんに会うためにも、がんばろ」
「そだね」
病室は、空調によって暑くも寒くもない。窓から見える空は、抜けるように青く高く澄んでいる。
病院の前庭に植えられている木は強い光に照らされて、ぐったりと葉を垂らせている。その葉がゆらりと揺れて、わずかに風が吹いていることがわかる。
きっと、蝉時雨が響いているのだろう。
「絶対に送ってくると思ったし、初出勤、お疲れ様」
アパートの前で渚は仁王立ちをしていた。
「ただいま」
車から降りる私に渚は手を出し、顔をしかめて、彼を睨む。
「睨まれる覚えはないな。……しっかり騙された恨み言くらい言ってもいいだろう?」
「わたし、嘘ついてないから。お姉ちゃんは死んだって言ってないもん。手を合わせてって言っただけだからね。……絶対にぎゃふんって言わせたかったのっ!」
「渚、全然知らなかった。そんなことあったんだね」
「言うわけないじゃん?どれだけお姉ちゃんが頑張ってたか……、どれだけ大変な思いしたか……、それを何にも知らないでぼんやりしてるキョウヘイちゃんだよ?わたし、絶対に認めないから。お姉ちゃんはキョウヘイちゃんのこと好きかもしれないけど、キョウヘイちゃんは全然、そんなことないかもしれないよ?騙されて適当に遊ばれて捨てられて、傷つくのはお姉ちゃんなんだよ?」
「……渚のほうがしっかりしてるって、前に言ってたな」
彼はクツクツ笑って、渚に近づきポンポンと肩を叩く。
「すまなかった。……もういいから、もう大丈夫だから、肩の力抜けよ?……お前のお姉ちゃんは俺が一生守る、ずっとそばにいる。だから、もう一人で頑張らなくていいぞ?……これからは一緒だ。二人でお姉ちゃんのこと守っていこう」
渚は呆然と立ちつくし、目を見開き、彼を見つめている。
「お姉ちゃんの左手も左足も上手く動かないよ?生活には不自由ないくらいになるまでに回復はしたけど、走ったり、跳んだりできないし、すぐに痛むのに痛いって言わないんだ。それに、お姉ちゃん、……赤ちゃんだって産めないって言われてるよ?後になってやっぱり要らないって思うなら、今すぐ帰って」
「……思わない、真保が好きだから」
「……お姉ちゃん、辛くても苦しくても、大丈夫って笑うんだよ。……無理しないでって、笑うんだよ。……もう、私のこと、忘れてるかもって泣きそうな顔するくせに、リハビリ頑張っちゃうんだよ?」
言葉を紡ぎながら、渚は頬を濡らす。
「わかった。……大事にする」
彼の手が渚の頭をポンポンと撫で、彼は私を見て微笑む。
彼の顔はすぐに涙で歪んで見えなくなってしまった。
「俺は、真保が好きだから、ずっとそばにいる。大事にする」
渚は私をぎゅっと抱きしめて、「お姉ちゃん」と小さく呟く。
その声は私の胸に染み込み、記憶を呼び覚ます。
宿題を終わらせることが出来ずに泣きべそをかいていた渚。
叱られて、拗ねて泣いて押入れに閉じこもっていた渚。
ーーずっと無理させてたんだな。
「渚、ありがとう」
柔らかな日射しを受けて、木々の若葉はキラキラと光る。明け方まで降り続いた雨は止んで、雲の切れ間から青い空が見える。
「野崎さん、新しい本が届いてたんで、あっちに置いておきました」
「あっ、ありがとうございます。助かります」たくさんの書籍を一度に運べない私を他の先生たちは優しく助けてくれる。
「……新之助江戸日記の新刊が出るって噂、聞きました?出ますかね?」
「前の新刊からもう二年ですから、読みたいですよね〜。また出たらすぐに図書室に入れますね。そうしたら、先生にすぐ連絡しますよ」
「……二番目でいいっす」ちらりと私の後ろに視線を投げて、慌てて踵を返す。
「はい?二番目??」
「俺が一番って」
「きょ……野崎先生、びっくりしますよ。いつもいつも、急に声をかけてくるんですね?」
「……真保」
「仕事中なんだから、名前で呼ばないで。それに、そんなに心配しなくても大丈夫って、もうとっくに安定期に入ってるし」
私は少し服の上からでもわかるようになってきた、お腹の膨らみにそっと手を乗せる。
「今日は、渚がうちに寄るって言ってたから、早く帰ってきてね?」
「大学生はまだ春休みか?……長いな」
「バイト、お休みなんだって。一緒にご飯食べよう。恭平さんの好きなチキン南蛮だよ?」
「……タルタル多めで」
「わかった」
彼は掴んでいた手に素早く唇を押し当てて、黒く深い瞳が私を捕らえる。
私はゆっくりと廊下を進む彼の背中を見つめていた。
これにて完結となります。
たくさんの心残りが溢れております。
あまりの拙さに、ちょっと心折れてしまいそうです(;´д`)
『毒を食らわば皿まで』
毒皿!毒皿!!と唱えながらの更新となりました……。
読んでいただきまして、ありがとうございます。
また、お会いできますように( ´∀`)




