一話
※史実では戦国前期の大掾氏当主として大掾忠幹らの活動が確認されていますが、本作では綾が生まれた時点ですでに史実とは異なる歴史を歩んでいる設定です。
一話
父が死んだ。
戦で討たれたわけではない。
いや、ある意味では戦に殺されたと言ってもよいのかもしれない。
若い頃から幾度となく戦場に立ち、槍傷を負い、矢を受け、馬から落ちて骨を折り、それでも大掾家を立て直すためだと休むことなく働き続けた。
治りきらぬ傷を抱えたまま次の戦へ向かい、戦から戻れば今度は政務に追われる。
母上や常陸介が何度休むように申し上げても、
「これしきで寝ておっては、水戸など取り戻せぬわ」
そう笑っていたらしい。
その積み重ねが、とうとう父の身体を壊した。
数月前から床に伏せることが増え、最後には起き上がることすらできなくなった父は、それでも死の間際まで大掾家のことを考えていた。
『信幹』
最後に呼ばれた日の声を、俺はおそらく一生忘れない。
『我が家は……古き名ばかりを誇って生きてゆく家ではない』
骨ばった手で、父は俺の手を握った。
『かつて我らが持っていたものを、ただ懐かしんでおるだけでは何も戻らぬ。だが……儂は取り戻したかった』
水戸を、大掾家の威名を、誰からも侮られぬ力を。
そして、いつの日か常陸中部を再び大掾家の下にまとめることを。
『すまぬな』
父はそう言った。
『重きものを、お前に残す』
俺はその時、何と答えたのだったか。
必ず果たします。
どうかお任せください。
おそらく、そんなことを言ったのだと思う。
今になって考えてみれば、十三の子供がよくもまあ、あれほど大それたことを口にできたものだ。
父が死んで七日。
俺――大掾信幹は、父から大掾家の家督を継いだ。
「若殿」
「……うむ」
「これより先は、若殿が大掾家の御当主にございます」
「分かっておる」
「されば———」
「分かっておると申しておろう」
府中城の一室。
俺の前で額賀常陸介が深々と頭を下げている。
もう六十近いはずだが、背筋は妙に真っ直ぐだ。
白髪交じりの髪、日に焼けた顔、頬から顎へと走る古傷。昔はそれはもう手のつけられぬ荒武者だったと父から何度も聞かされたが、俺が物心ついた頃には、口うるさいながらも穏やかな爺だった。
もっとも、怒ると恐ろしいことに変わりはない。
「……爺」
「はっ」
「皆、もう下がったか?」
「奥方様も姫様方も、すでに御退出なされました」
「そうか」
それを確かめてから、俺は大きく息を吐いた。
「……疲れたな」
「御当主」
「二人きりなんだからいいだろ」
「いけませぬ。これよりは二人きりであろうと、いつ何時———」
「爺」
「……何でございましょう」
「今日くらいは勘弁してくれ」
俺がそう言うと、常陸介はしばらく黙り、やがて深いため息を吐いた。
「本日だけにございますぞ」
「助かる」
俺は座ったまま畳へ倒れ込みたくなるのを何とか堪えた。
葬儀に家臣達への挨拶、近隣への使者に寺への礼と、そして家督継承に伴うあれやこれや。
父が死んだ悲しみに浸っている暇などなかった。
もっとも、それは俺だけではない。
母上———依は、父が死んでからずっと顔色が悪い。
元々気が弱く、戦があるたびに父の帰りを祈っていたような人だ。それでも幼い妹達の前では気丈に振る舞い、今日の葬儀でも最後まで涙を見せなかった。
葵は珍しく大人しかった。
七つになったばかりの妹は、普段なら城の中を駆け回って誰かに悪戯しているような娘なのに、今日はずっと母上のそばにいた。
五つの琴は何度も泣いていた。
一つになったばかりの幸だけは何も分からず、母上の腕の中で眠っていた。
そして。
「……姉上は?」
「綾姫様でございますか」
「うむ」
「先ほどまでは奥方様と御一緒でしたが」
「そうか」
ならばよい。
父が死んでからというもの、姉上も珍しく静かだった。
俺より二つ年上の姉、綾。
生まれた時から妙な姉だった。
本人曰く、自分はこの時代より遥か未来の日本という国から生まれ変わってきた人間なのだという。
何百年も未来には空を飛ぶ巨大な乗り物があり、馬より速い鉄の車が道を走り、遠く離れた人間同士がその場で話せる道具まであるらしい。
普通ならば、狂人の戯言としか思えぬ。
だが、俺は姉上の言葉を信じている。
というより、信じざるを得なかった。
姉上は幼い頃から、この時代の者では知り得ぬことをあまりにも多く知っていた。
農作物の育て方に病を防ぐ方法。
物の数え方、便利な道具、そして未来に起こること。
もっとも。
『だからね、輪作っていうのは三圃式とか四圃式とか色々あって、いや三圃式はヨーロッパだからそのまま持ってきても駄目かな? でも豆科植物の窒素固定は使えるし———』
何を言っているのか、本人の説明ではほとんど分からない。
知識は確かにすごい。
だな説明は壊滅的だ。
そんな姉だった。
その姉が静かなのだから、やはり父の死は堪えたのだろう。
「若殿」
「何じゃ」
「そろそろ御家の現状について、お話しいたしてもよろしゅうございますかな」
「……うむ。頼む」
俺は背筋を伸ばした。
疲れたなどとは言っていられない。
今日から俺は大掾家の当主なのだ。
「まず、我らが本拠、府中城については若殿もよう御存じでしょう」
「無論じゃ」
常陸府中。
古くは国府が置かれた土地であり、大掾家が長く本拠としてきた場所だ。
府中城そのものは、巨大な山城ではない。
平地に近い場所へ築かれ、周囲の川や低地を利用して守る構えになっている。城だけを見れば天下に名高い堅城というわけではないが、府中という土地そのものが大掾家最大の財産だった。
古くから人が集まり、道が通り、市が立つ。
少し東へ進めば霞ヶ浦へと続く水運にもつながる。
米ばかりではない。
魚も、塩も、布も、鉄も、様々な品が人の手から人の手へ渡ってゆく。
「府中の市はいまだ健在。また近隣には、大掾家を支える古くからの家臣も多くおります」
「つまり、それが我が家の強みということじゃな」
「左様。しかし———」
常陸介が少し言葉を止めた。
「昔ほどの力はございませぬ」
「……うむ」
それも知っている。
大掾家は古い。
古さだけなら常陸でも屈指と言ってよい。
だが、古いことと強いことは同じではない。
「かつて我らの勢威が及んだ水戸は、とうに江戸氏の手にございます」
水戸。
父が何度も口にした土地だ。
「江戸氏は今や、我らにとって最も大きな敵の一つ。加えて西には小田氏、北には佐竹をはじめとした勢力もおります」
「……見渡せば、厄介な相手ばかりじゃな」
「皆が今すぐ刀を抜き、襲いかかってくるわけではございませぬ」
「それくらいは分かっておる」
ただ、安穏としていられる状況でないことに違いはない。
今は群雄割拠の戦国時代。
弱みを見せればいつどこが攻め込んでくるのか分からぬのだ。
「さらに周辺には、いずれへ付くとも知れぬ小領主も多うございます。大掾家が弱しと見られれば、昨日まで頭を下げておった者が、明日には敵となることもありましょう」
「……父上が無理をなされた理由も分かるな」
「先代様は、御家を支えんと御自身にあまりにも多くを背負われました」
常陸介の声が少しだけ低くなる。
責めているわけではない。
悲しんでいるのだ。
爺にとって父は主君であると同時に、長く見守ってきた子供のような存在でもあったのだろう。
「兵はいかほど動かせる?」
「動かせぬことはございません。しかし大軍を幾度も出せるほどの余裕はございませぬ。兵を集めれば、その間田畑を耕す者が減ります」
「銭は?」
「余っておれば、先代様もあれほど苦労なされておりませぬ」
「……そうであろうな」
思わず額を押さえる。
大掾家は確かに常陸の地を古くから治めてきた名門だ。
府中という良い土地もあり、まとまった家臣団もある。
そこまではよい。
だが、領地は昔より狭い。
兵は多くなく、銭も足りない。
水戸は敵の手に及び、周囲には油断ならぬ勢力が並んでいる。
「……思っていた以上に、苦しいな」
「ようやく御理解いただけましたかな」
「爺、最初から俺が分かっておらなんだように申すな。知ってはおった。ただ……」
今までは父がいた。
だから、どこか他人事だったのだ。
大掾家が苦しい。
父が忙しい。
家臣達が頭を悩ませている。
それは知っていた。
だが最後には、父が決めてくれた。
今は違う。
「これよりは、俺が決めねばならぬのだな」
「左様にございます」
「俺が誤れば?」
「御家が傾きます」
「……爺よ。もう少し言いようというものがあるであろう」
「では、若殿が御賢明な御判断をなされれば、大掾家は栄えましょう」
「言い換えただけではないか」
それでも、それが現実なのだろう。
十三だから。
経験がないから。
父を亡くしたばかりだから。
そんなことを敵は考えてくれない。
俺は立ち上がると、廊下へ出た。
「若殿?」
「少し外を見てくる」
府中城の高みから城下を眺める。
見慣れた景色だ。
何度見たか分からない。
家々が並び、その先には田畑が広がっている。
道を荷を背負った者が歩き、遠くでは百姓達が働いている。
昨日までと何も変わらぬ景色。
なのに、今日はまるで違うものに見えた。
「あれらすべてを……俺が守らねばならぬのか」
口に出すと、急に重みが増した。
父上。
本当に、このすべてをずっと背負っておられたのですか。
俺などにできるのだろうか。
槍なら振れる。
弓なら射られる。
同年代はもちろん、大人にもそうそう負けぬ。
だが田畑を豊かにすることと、敵兵を槍で倒すことはまるで違う。
「……父上なら、いかがなされたであろうな」
「先代様であれば———」
常陸介が答えようとした、その時だった。
「信幹ちゃーーーーん!」
聞き慣れた声が城内へ響いた。
俺は目を閉じた。
常陸介も目を閉じた。
「……若殿」
「何も言わなくていい」
足音が近づいてくる。
速い、それはもうものすごく速い。
「信幹ちゃん!」
「姉上! 廊下を走るなって何度言えば分かるんだ!」
曲がり角から飛び出してきたのは、両腕いっぱいに紙や木板を抱えた姉上だった。
長い髪を後ろでまとめ、葬儀のための装いのままだというのに、顔だけは数日前までの沈んだ様子が嘘のように輝いている。
「弟君!」
「せめてどっちかにしてくれ! あとちゃん付けもやめろ!」
「そんなことより!」
「そんなこと!?」
姉上は俺の前まで来ると、抱えていたものを床へ置いた。
紙。
紙。
さらに紙。
そして、何かの図。
意味の分からない数字に畑らしき絵と水車らしき絵。
……何だこれ。
「何なんだよ、この大量の……」
「領地改革案!」
「……は?」
「ずっと考えてたの! いや、前世から考えてたと言ってもいい!」
姉上は胸を張った。
「せっかく戦国時代に転生したんだよ? やるしかないでしょ、内政チート!」
「ないせいちいと?」
「あ、そこから説明いる?」
「全部いるよ!」
「じゃあまず農業からね! 肥料でしょ、輪作でしょ、種籾選別でしょ、農具の改良、それから水車をもっと使って、衛生環境も改善して石鹸とか作りたいし、紙も安くしたいし、読み書きできる人間増やしたいし、市場も整えて、あっ、そうだ度量衡も———」
「姉上」
「それから保存食! 漁業も霞ヶ浦があるんだから絶対伸ばせるよ。船だって改良できるかもしれないし———」
「姉上」
「あと硝石! 硝石丘法とか記憶曖昧だけど一応———」
「姉上!」
「何?」
「一つずつ話してくれ!」
姉上がきょとんとした。
「何の話をしてるのか全然分からない!」
「えー?」
「えー、じゃない!」
「昔から信幹ちゃんは分かってくれたじゃん」
「俺が毎回、姉上の話を一刻くらいかけて整理してたんだよ!」
「あれ? そうだったっけ?」
「そうだよ!」
頭が痛い。
父が死んだ。
俺が当主になった。
大掾家は弱っている。
敵は多い。
銭も兵も足りない。
そんな日に姉上は何を始めているんだ。
「綾姫様」
「何、爺?」
「本日は先代様の御葬儀を終えたばかりにございます」
「あ……」
姉上の表情が止まった。
そして、少しだけ俯く。
「……分かってるよ」
声が小さくなった。
「私だって、お父上が死んで悲しい」
その声を聞いて、俺も何も言えなくなった。
姉上は転生者だ。
昔は本当に、この時代へ遊びに来たような感覚だったのかもしれない。
城を見るたび喜び、武士を見るたび目を輝かせ、俺の知らぬ有名な武将の名を聞けば一人で興奮していた。
でも、父は姉上にとっても父だった。
「……だから」
姉上が顔を上げた。
「だから、やるの」
「何を?」
「お父上がやりたかったこと」
姉上は床に広がった紙を指した。
「大掾家を立て直す。領地を豊かにする。皆がお腹いっぱい食べられて、簡単な病気で死ななくて、戦があってもちゃんと家族を守れるくらい強い家にする」
「姉上……」
「お父上にはできなかった。でも、お父上が駄目だったんじゃない」
姉上は妙に真剣な顔をしていた。
「知らなかっただけだよ。未来にどんなものがあるのか。どうすればもっと良くできるのか」
そして、自分の胸を指す。
「私は知ってる」
次に俺を指した。
「信幹ちゃんは、私の話を皆に分かるようにできる」
「いや、だからちゃん付けを———」
「だから二人でやればいい」
聞け、頼むから俺の抗議を聞いてくれ。
そう思ったのに、口からは出なかった。
「……本当にできるのか?」
「全部は無理」
「そこはできるって言えよ」
「だって私、詳しい作り方まで覚えてないものいっぱいあるし」
「駄目じゃないか!」
「でも方向は分かる!」
姉上は再び元気になった。
「後は職人さんとか百姓の人とか、詳しい人に聞けばいいじゃん!」
俺は反論しかけて、止まった。
「……詳しい人に、聞く」
「うん」
それなら、姉上がすべて知っている必要はない。
畑なら、毎日畑を見ている百姓の方が詳しい。
鉄なら鍛冶屋。
船なら船大工。
商いなら商人。
姉上が未来にある便利なものを知っていて、俺が何をしたいのか皆に分かるよう説明し、それをこの時代の職人達と共に考える。
「……待って」
「何?」
「さっき言ってた農業の話」
「輪作?」
「その……種籾をどうこうするやつ」
「種籾選別?」
「それ」
「ああ、塩水選ね」
「また知らない言葉が出た」
「塩水に種籾を入れて———」
「待った」
俺は手を上げた。
「まず普通の水でもできる?」
「精度落ちると思うけど、できるはず」
「じゃあ、少しだけ試してみよう」
「え?」
姉上が目を丸くする。
「今年使う種籾を全部いきなり変えるのは怖い。でも一部だけなら、駄目でも大した損にはならない」
「信幹ちゃん……」
「それで本当に出来が良くなるなら、次から増やせばいい」
言いながら、頭の中で考える。
父ならどうしただろう。
たぶん、すぐには信じなかった。
だが、俺は姉上を知っている。
説明は下手だ。
落ち着きはないし、妙なことを言い出す。
でも、嘘はつかない。
「常陸介」
「はっ」
「明日、農事に詳しい者を何人か呼んでくれぬか」
「農事に、でございますか」
「うむ。姉上の申しておることが本当に使えるものか、実際に畑を耕しておる者達にも聞いてみたい」
「私が説明するの!?」
「俺が説明する」
「だよね!」
そこは少し悔しがれ。
常陸介はしばらく俺と姉上を見比べていたが、やがて苦笑した。
「承知いたしました。ただし」
「何じゃ?」
「何をなさるにも、まず小さくお試しくだされ」
「そのつもりじゃ」
「綾姫様も」
「分かってるって!」
「姫様は特にでございます」
「なんで私だけ!?」
さっきまで静かだった城に、姉上の声が響く。
その声を聞きながら、俺は床に散らばった紙を一枚拾った。
何かの畑の図だ。
意味の分からない文字に数字が書かれている。
正直、まだ半分も分からない。
でも、父上。
俺には、父上のように一人ですべてを背負うことはできそうにありません。
おそらく、これからも姉上には振り回されるでしょう。
家臣にも助けてもらう。
百姓にも、商人にも、職人にも教えてもらうことになる。
それでも。
もし、それで大掾家をもう一度立て直せるのなら。
父上が見たかったものを、俺も見てみたい。
「よし!」
姉上が拳を突き上げた。
「大掾家、内政革命開始!」
「だから、その内政革命って何なんだよ」
「領地をめちゃくちゃ豊かにする作戦!」
「最初からそう言ってくれ」
「弟君は理解力がないなぁ」
「姉上が分かりにくすぎるんだ!」
父から家督を継いだその日。
俺、大掾信幹、十三歳。
大掾家を背負うことになった新当主は———。
なぜか、十五歳の姉が始めた奇妙な領国改革へ、盛大に巻き込まれることになった。
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