第1話:その男、清掃員につき
深夜二時、新宿御苑の地下に広がる公認ダンジョン『新宿大迷宮』の空気は、地上よりも数度は低い。湿り気を帯びたコンクリートの壁には、冒険者たちが放った魔法の焦げ跡や、魔物の返り血が染み付いている。
葛西正夫は、使い古された作業着の袖を捲り上げ、鼻をつく悪臭の前に立っていた。目の前には、昼間にBランクパーティが仕留めたとされる大型の猪型魔物、ワイルドボアの死骸が転がっている。
「……あーあ。素材だけ剥ぎ取って、肉は置き去りか。最近の若いのはマナーがなってないっすね」
葛西は独り言をこぼしながら、腰に下げたポリバッジを弄った。三十八歳。独身。黒沢株式会社に務めるダンジョン清掃員。それが今の彼の肩書きだ。かつてこの場所で剣を振るっていた自分を思い出すことは、もうほとんどない。
彼は死骸の前に屈み、右手をそっとかざした。
「ライフスティール――設定出力、零点一パーセント。消去開始」
掌から淡い、それでいてどこか透き通った光が漏れ出す。本来ならば敵の生命力を吸い取り、術者の糧とする最上位の吸収スキル。だが、葛西が放つそれは、対象を分子レベルで分解し、魔力へと還元して自身の体内に取り込む『究極の掃除術』へと変貌していた。
巨大な死骸が、光に触れた端からさらさらと砂のように崩れ、消えていく。血溜まりも、飛び散った内臓の破片も、葛西の手が通った後は新築の家のように磨き上げられた。
「ふぅ。これでよし」
数分で作業を終えた葛西は、額の汗を拭った。この清掃作業こそが、今の彼の平穏を守るための儀式だった。
ダンジョンから這い出し、詰所に戻る途中のことだ。ギルドのオフィスから、聞き慣れた野太い声が聞こえてきた。
「葛西か。今戻ったのか」
振り返ると、そこには厳格な面持ちの男、和泉康介が立っていた。この探索者ギルドのトップであり、葛西にとっては数少ない『過去』を知る人物だ。
「ギルド長、お疲れ様っす。三十層までの清掃、完了しましたよ」
「相変わらず手際がいいな。……だが葛西、いつまでそうして泥にまみれているつもりだ。お前の傷は、もう癒えているはずだろう」
和泉の視線は、葛西の脇腹、かつて魔王の呪いを受けた場所へと向けられていた。葛西は苦笑して、首を横に振る。
「勘弁してくださいよ。俺はもう、ただのおっさん清掃員です。光の勇者なんて名前、とっくにダンジョンの底に捨ててきましたから」
「……お前がそう言っても、世界は放っておかんぞ。近頃、ダンジョン内の魔力の歪みが激しくなっている。もしもの時は……」
「もしもの時は、和泉さんがなんとかしてください。俺は明日も朝早いんで」
葛西は適当に手を振り、和泉の言葉を遮るようにその場を去った。
帰り道、深夜営業のコンビニで半額の弁当を手に取る。レジの横に置かれたモニターでは、今をときめく『三勇者』の特集が流れていた。
氷冠の勇者、赤坂優美。
雷撃の勇者、鮫島勇樹。
業火の勇者、望月香苗。
画面の中で、制服姿の赤坂優美が、カメラに向かって不遜な笑みを浮かべていた。
『凍てつきなさい。私の絶対零度が、この理不尽な世界の理を書き換えてあげるわ』
「……今の勇者は大変だな。セリフの練習までしなきゃいけないんだから」
葛西は、弁当の入った袋を揺らしながら、独りアパートへの道を歩く。
自分はこのまま、誰にも気づかれずに汚れを消し続けていければいい。
本気でそう思っていた。
しかし、運命の歯車は、翌日の清掃スケジュールに『三十層・緊急メンテナンス』の文字が書き込まれた瞬間に、音を立てて回り始めた。
翌朝、葛西が清掃道具を担いでダンジョンに潜ったのと時を同じくして、一人の少女がスマートフォンを片手に、同じフロアへと足を踏み入れていた。
「はい!みなさんこんにちは!配信探索者の松浦かなでーす!今日はなんと、三十層の未踏エリア近くまで潜っちゃいまーす!」
明るい声が、静かなダンジョンの奥へと響いていく。それが、惨劇の引き金になるとも知らずに。




