第三話 左派の思想と体育の授業の共通点
これまで私が連ねてきた、エッセイと称するも烏滸がましい駄文によって主張したい事柄は、以下の一文に尽きる。
「体育という教科はそもそも子どもたちを皇軍の兵士として、忠実に殺して死ぬ『天皇陛下の赤子』として育てるための基礎訓練の場である」
まぁ、否定できるもんなら、してみればいい。
能力的に劣る者どもを、『連帯責任』という甚だ意味不明かつ理不尽な理由によって、その存在そのものの尊厳を根底から毀損する、その行動に対する説明を、万人が納得する形で説明できるのであれば、だが。
とまれ、体育という教科の本質がこういった代物だったとしたら…
戦後日本における教育を牛耳ってきた日教組なる団体の存在意義と行動、それに絶大なる矛盾が生じることになるのだ。
日教組の終極的な目標は、『教え子を戦場に送らないこと』だそうである。
真偽の程は定かではないが、日教組に所属していた教師が自衛隊員の子弟を評して、『この子の父親の仕事は、人殺しです』と言い放ち、そのことによってその自衛隊員の子弟をいじめの標的にしたことすらあったという。
それほどまでに戦争やそれを想起させる物を蛇蝎の如く忌み嫌い、徹底的に排除しようとしている日教組とそれに所属している教師たちが、軍事教練の基礎たる体育の授業を俎上に上げることなく、放ったらかしにしているのだ。
一体これは、どういうことであろうか?本来なら、日教組は軍事教練の基礎である体育の授業を真っ先に廃止するように行動するべきではないのか?
然るに、日教組は軍国主義の残滓たる体育の授業を、廃止するように主張することもなく、そのまま野放しにしているのだ。
このことから導かれる結論は、唯一つ。
結局日教組は、『教え子を戦場に送らぬ』ために尽力することは決してなく、寧ろ『教え子たちを積極的に戦場に送り込むために行動している』、そのために行動していると解釈するべきなのだ。
さてその『戦場』とは、どのような場所であろうか?
日教組をはじめとする左派の面々にとって、『絶対悪』である国家権力、それに対する抗争の場という『戦場』である。
更には、何がどうしてそうなったのは全く判然としないが、その『抗争』は自分たちと志を同じくする者たちとのそれに変化していった。
その結果、左派の思想を最鋭化した集団である『連合赤軍』、彼らが起こした山岳ベース事件。そこで彼らは、『天皇陛下』ならぬ『自分たちの指導者』の意に沿わぬ者たちをリンチにかけ、次々と殺害していったのだ。
その様態は、『自分たちの足を引っ張る者、自分たちよりも劣る者』をいじめの標的にし、最終的にはその尊厳や生命すら徹底的に毀損する行為と、何ら変わらないように思えるのは、私の歪んだ偏見であろうか?
◇◆◇
とまれ、かの音楽クリエイターの『魂の慟哭』によって猛烈に惹起された、訳の判らぬ衝動によって私が思う様書き散らしたこの駄文によって主張したいことは、『体育という教科の根底に人間の唾棄すべき本質が根差している以上、体育の様態が変わることもなければ体育という教科がなくなることもない』ということだ。
である以上、体育の授業によって人間の尊厳が毀損されることがなくなることや、況してや体育の授業がなくなることは絶対にあり得ない。
斯くて、かつてのかの音楽クリエイターや私のような体育が苦手な子どもたちは、未来永劫変わることなく事あるごとに嘲笑され、罵声を浴びせかけられ、スクールカーストの最下層に叩き落とされてクラス全員の嬲り者にされ続けるのだ。
その動かし難い運命を押し付けられるのが嫌だったら、それを免れるために取り得る一つの手段がある。或いはそれは、最善の手法ではないかもしれないが。
自分が通っている小中学校、もしくは高校に包丁を携えて行って、そこで「今すぐ体育の授業を廃止しろ!!」と喚き立てながら手にした包丁を振り回すのだ。或いは、自分を屈辱と絶望のどん底に叩き落とした体育教師の一人か二人、その包丁で血祭りに上げるのもいいかもしれない。
何しろ、この世界は勇者ヤマガミが悪の大魔王アベをテロることによって統一教会の闇を暴くことに成功したように、暴力がなくては何も動かない―つまり、暴力によってのみ事を動かすことが可能なのだから。




