10,『手を伸ばすことすらできない』
周囲の騒がしさに、冬月の意識は、闇からふわりと浮上した。自分の名を、何度も呼ばれているような気がする。困惑のような、追及のような。それに加えてなぜか、喜色交じりの声と、相反する怒声も聞こえる、ような。そして、そのどれもが知っている声だと思った。
状況が全く把握できない。覚醒と眠りのはざまを揺蕩うような感覚で、冬月はぼんやりと、意識を失う直前のことを思い出す。
そう、自分の記憶が正しければ、先ほどまで南西龍王に対峙していたはずだ。行動を誤ってしまった自分は、何らかの力に操られた、南西龍王の人型に、首を絞められて意識を失った。……助かったのだろうか。あの状況から? どうやって? あんな上空まで、阿星も世悧も来ることはできない。留剛や、麗々だってそうだ。南西龍王は完全に操られていたし……。
(ああ、そういえば)
意識が落ちる直前、羽音を聞いた気がしたのだ。
そこまで思い出して、はっと、完全に覚醒した。パッと目を開く。
そして、冬月は絶叫した。
「ひっ、うわあああああああああ!?」
なぜならば、自分を抱きかかえているらしき、ジェタの顔面が、あまりに近いところにあったからである。反射的にこぶしが出たのは、許してほしい。それが、龍珠の籠手をまとって、渾身の力で、ジェタの顎を下から打ち抜いたとしてもだ。だってお前、なんでこんなところにいるんだお前!!!?
「ごふっ」
さすがのジェタも、まさか寝起きでそんな攻撃が飛んでくるとは思わなかったらしく、防御もせずに食らっていた。そのおかげで腕が緩んだので、冬月はすかさず飛びずさり、ジェタの拘束から逃れる。ぜいぜいと息を荒げ、なんで彼がここに、との晴れぬ疑問もあらわにしながら、周囲を見渡した。
——そうして、この時、ようやく冬月は、周囲の状況を把握した。自分の一番近くにいるのは、所在なげに手を宙にさまよわせ、ぽかんと口を開けている麗々。その彼女のすぐ後ろには、呆然と顔色を悪くしている、阿星と世悧がいた。
「え」
遅れて、……しかし当然のように、己の体の違和感にも、気づいた。
(っ、じゅじゅつ、が、)
解けて、いた。しかも、おそらくは治療のためだったのか、衣服が緩められて、その体が男ではないことが、あまりにも明確になっている。気づいてすぐに衣服を整えたが、もう遅すぎる。誤魔化しなんて聞かないほど、冬月は『女』だと、知られたのだ。
意識を失ってから今まで、何があったのか、どうしてジェタがいるのか、なぜ留剛がいないのか、冬月にはわからない。理解ができない。でも、ふと気づく。先ほどまで、意識が覚醒しきらない中で、おそらくはもめていたらしき、騒がしい声。あれは、つまり、冬月のことで、……もめていたのか。
心臓が止まるような心地に陥った。なぜ、どうして、どうすれば、と疑問符が脳内を駆け巡り、答えを探せずに墜落し、ぐしゃぐしゃになってわだかまる。のどがひきつる。呼吸が早くなる。何度も瞬きを繰り返してしまう。
「あっ、……」
言葉が出てこない。
全部、全部、話そうと思っていたのだ。嘘じゃない。ちゃんと覚悟を決めていた。阿星と世悧には、すべての秘密を話そうと、決めていた。だけど、でも、まさかこんな。……自分の意志に関係なくさらされて、どうすればいいのか。
足がすくむ。震えているのを自覚する。どんな顔を、今自分はしているんだろう。
「冬月……」
一歩。ひどく気遣ったような控えめさで、阿星がそう声をかけて、一歩踏み出した。そこが、限界だった。
「っ!」
身をひるがえして、冬月はその場から、逃げ出した。何の意味もないとわかっていても。それが、信頼を損なう行為だと、理解していても。
『待て!』と、背を追いかける声がする。追ってくる足音がする。音は二人分だ。阿星と世悧だろう。麗々は戸惑いから出遅れたのかもしれない。ジェタがとどまったのは、何か意味があるのだろうか。
いや、今はそんなことはどうでもいい。むしろ、なんで逃げ出してしまったのか。ちゃんと話しあえ、と自分の中で声がするのに。覚悟を決めたんだろう、と。そもそも逃げてどこに行くのか。
どこにも、逃げ場なんてないのに。
——でも。
だって、どうしても。どうしても。……どうしようもなく。
(彼らに否定されるのが、こわい? ちがう、だって、ぼくは)
信じている。阿星も世悧も、まっすぐに伝えれば、冬月に寄り添ってくれると。
ならばどうして、今自分は逃げているのだろう。震えが、止まらないのだろう。二人だけではなく、麗々もいるから? 最後に会った時、関係を断ち切ったと思っていたジェタがいたから?
きっとどちらでもない。……ただ、どうしようもなく。
許されるのが、怖いだけ。
気づいて、足が止まった。
(……バカか、僕は……)
呪いが胸中に渦巻いている。今も、罪を知れと。罰を負えと。償え、贖えと。
その呪いの主は、冬月の存在を許さない『誰か』なのだろうか。千年、殺され続けた赤子たちだろうか。
ほんの短い間、目を閉じれば、紅い色が散っていた。
人を殺したことならある。傭兵として、龍使いとして。良くも悪くも、慣れてしまうくらいには。でも、ただそう生まれてしまっただけの『彼女』たちの、純粋無垢な紅色は、いつまでたっても色あせやしないのだ。
「……ごめん。ごめんなさい」
口先の謝罪は無意味だ。死んでいった『彼女』たちには、どうしたって償えない。冬月が生まれた後だって、殺されていった『彼女』たちはいる。それを知っていて、口をつぐんでいた自分自身を、冬月が一番理解しているのだ。
吐き気がするような自己保身も、ただの被害者ぶるには身勝手すぎることも。
それでいて、冬月は救われた。信じてくれる仲間ができた。
生きている、……生かされて、救われた冬月には、『彼女』たちの生きるはずだった人生も、あるはずだった未来も、返せない。言いくるめられてわが子を失った親たちの悲しみも、絶望も、手を伸ばすことすらできない。
「面と向かって、『許してもらう』のが怖いって? ……ほんと、」
ずるいにもほどがあるだろ。
それこそ、自己保身じゃないか。
ぐっと、こぶしを握り締める。歯を食いしばる。深く呼吸を繰り返す。震えは、止まっていた。背後から、自分を呼ぶ声がして、草をかき分ける音が迫っている。
「「冬月!」」
阿星と世悧が、ひどく焦燥をあらわに、自分の名前を呼んだ。
「……」
ゆっくりと振り返ったその時の自分は、いったいどんな顔をしていたのだろう。
何度か深呼吸して、右手でペンダントを握り締める。それでようやく、冬月は完全に振り返った。
「冬月……大丈夫か?」
そうして、何より先に冬月を案じる言葉をかけたのは、世悧だった。その隣の阿星も、困惑よりも、怒りよりも、ただ心配をその表情に映している。
(……優しすぎるな、僕なんかに)
今まで男だと思っていた仲間が、実は女だった、なんて、受け入れがたいことだろうに。裏切られたと、感じているに違いないのに。……だましていたのは、事実なのだから。
だけど、彼らは優しい。この身には余るほどに、優しいのだ。
冬月は息を深く吸い込んで、答えた。
「もう、大丈夫です。……すみません。もう、逃げませんから」
まっすぐ顔をあげて、阿星の翡翠と、世悧の紅玉の瞳を見つめ返した。彼らは大きく目を見開いて、そうしてわずかに苦笑する。
「……いいのか?」
問うてきたのは阿星だ。彼のほうこそ、ひどく迷うように、眉を下げてどこか、罪悪感に苛まれているような顔をしている。それを不思議に思いながら、冬月はしっかりとうなずいた。
「うん。いろいろと……驚いただけ。逃げて、悪かった。全部話すよ、僕の隠していたこと」
そんな彼女に、ゆっくり世悧が近づき、頭をなでた。その感触も、ひどく優しい。
「……お前が、話していいと思うなら、教えてほしい」
そっとほほをなでる世悧の大きな手に、安堵を覚えながら、冬月は微笑んだ。きっとぎこちなかったけれど、それでも。
もう、逃げない。