第一章 散歩道
「コロ!」
「ワン!」
犬が顔を上げた。
立った耳が、声のしたほうへ向く。少し離れた場所にいる男の子を見つけると、犬は身体の向きを変えた。前脚が地面を蹴り、後ろ脚が続く。細かな足音が、朝の乾いた地面を駆けてくる。
犬は速かった。男の子が両手を広げるより先に、足元まで来ていた。
急に止まった身体が前へ少し伸びる。尾が大きく左右に振られる。犬は男の子の周りを一度回り、それから正面へ戻った。前脚を上げ、胸元へ飛びつく。
「わっ」
男の子が一歩下がった。犬の鼻先が顔へ近づく。舌が伸びた。
「やめてってば」
男の子が顔を横へそらす。犬も顔を追う。もう一度、舌が伸びる。
「くすぐったいよ」
男の子が笑った。
犬の尾がさらに速く動く。男の子が両手で犬の肩を押さえると、犬は前脚を地面へ戻した。顔だけを持ち上げ、男の子の手を嗅ぐ。指先から手のひらへ、鼻先がゆっくり動いた。
男の子の指が犬の首元へ触れる。毛の下から首輪が出てくる。金具が小さく鳴った。
「今日は走ろうね」
「ワン!」
男の子が立ち上がる。
犬も立つ。
二人は公園の奥へ歩いていった。
朝の公園には、まだ人が少なかった。広い芝生の向こうに、低い柵で囲まれた犬用の広場がある。入口には扉が二つあり、その間には、小さな板に利用時間や注意書きが並んでいた。
男の子が外側の扉を開ける。犬が入る。男の子も続き、後ろの扉を閉める。それから、首輪の金具に付いているリードを外した。
犬はすぐには走らなかった。鼻を地面へ近づける。入口の近くを一周するように歩き、杭の根元、柵の下、草の生えているところを順番に嗅いでいく。
男の子が小さなボールを取り出した。
「コロ、いくよ」
腕が振られる。
ボールが飛んだ。
犬の頭が動く。四本の脚が一斉に地面を蹴った。ボールへ向かって走り、途中で少し速度を落とす。地面の匂いを嗅ぎながら進み、ボールの前で止まった。
鼻先で一度、ボールをつつく。
それから、口にくわえた。
男の子が両手を広げる。
「持ってきて」
犬が振り返る。
だが、すぐには戻らない。
ボールをくわえたまま、反対側へ走る。柵際まで行くと急に向きを変え、また中央へ戻ってきた。男の子が追いかける。犬は前へ走る。男の子が止まる。犬も少し先で止まり、振り返る。
「こっちだよ」
男の子がしゃがむ。
犬が近づく。
前脚を少し開いて立ち、男の子の顔を見る。ボールは口にくわえたままだ。
「それ、ちょうだい」
男の子が手を出す。
犬が顔を横へ向ける。
「もう」
男の子が笑う。
しばらくして、犬はボールを足元へ落とした。男の子が拾う。
「えらいえらい」
犬の頭が撫でられる。耳が少し倒れる。手が離れると、耳が戻った。
またボールが飛ぶ。
犬が走る。
広場を何度も往復するうち、犬の舌が口の横から少し出るようになった。男の子も息を弾ませている。
最後の一投を追いかけた犬が戻ってくる。男の子が首を撫でる。
「いっぱい走ったね」
犬は口を開け、舌を出したまま立っている。尾はまだゆっくり動いている。
男の子がリードを拾った。
「そろそろ行こう」
犬の首輪へ金具を掛ける。小さな音がした。
扉を開ける前に、男の子がリードを軽く引いた。犬が一歩近づく。扉の外へ出る。男の子が扉を閉める。
公園の道に戻ると、男の子はリードの輪を手にかけた。
犬は男の子の少し前を歩いた。
右へ草があれば、顔を向ける。左に木があれば、その根元を嗅ぐ。ベンチの脚の近くでは立ち止まり、鼻先を地面へ寄せる。しばらくして顔を上げると、また歩き出す。
男の子はそのたびに歩く速度を合わせる。
「コロ、行くよ」
犬が振り返る。
男の子が歩いている。
犬は前を向く。
しばらくすると、また振り返る。
男の子がいる。
犬はまた前を見る。
公園を出るころには、走る人が増えていた。犬を連れた人とすれ違う。犬の耳が向こうへ動く。相手の犬がこちらを見た。コロも顔を向ける。
男の子が少し立ち止まる。
「こんにちは」
犬同士が数秒、向かい合う。
コロが鼻を少し前へ出す。相手の犬も近づく。互いの鼻先が近づいたところで、飼い主に引かれて距離が開く。
コロが振り返る。
男の子が笑っていた。
「またね」
犬は相手の犬を見ている。リードが少し張る。男の子が手元を緩める。
犬が歩き出した。
道の端には、朝露の残った草があった。犬の鼻が動く。歩く速度が落ちる。
地面に鼻を近づけたまま、右へ少し寄る。
リードが伸びる。
男の子がその場で止まった。
犬が前へもう一歩出た。リードが張る。犬が立ち止まる。男の子がしゃがんで、リードを少し長く持ち直した。
「ここ、気になるの?」
犬は草の根元を嗅いでいる。
しばらくして顔を上げる。
男の子を見る。
男の子も立ち上がる。
「行こう」
犬が歩き出した。
公園の外には、小さな商店や住宅が並んでいる。車道の向こうを車が通るたび、犬の耳が動いた。大きな音が近づくと、身体が少し道路から離れる。車が通り過ぎると、また歩道の中央へ戻る。
男の子は車道側へ少し寄り、犬を反対側へ置いて歩いた。
「こっちね」
犬が男の子を見る。
そのまま横へ移動した。
二人の影が並んで伸びる。
犬は時々、前へ出る。リードが張る。男の子が歩く速度を落とす。犬も速度を落とす。張っていたリードが少しゆるむ。
また歩く。
道の先から、自転車が近づいてきた。ベルの音が鳴る。
犬の耳が後ろへ動いた。
男の子が端へ寄る。犬も寄る。
自転車が横を通り過ぎる。
犬が振り返り、後ろへ遠ざかっていく自転車を目で追う。男の子が犬の背中を軽く撫でる。
「大丈夫だよ」
犬は男の子を見る。
男の子の手が離れる。
犬は再び前を向いた。
しばらく歩くと、建物の間から水の音が聞こえてきた。
犬が歩みを緩める。
鼻が上を向く。
耳が前を向く。
男の子が道の先を見る。河川敷へ続く道が、その先にあった。
「河、見に行ってみようか」
犬が男の子を見る。
男の子が歩き出す。
犬も歩く。
道が少し下り始める。
風が強くなった。犬の首まわりの毛が風に揺れる。鼻を上げ、風の向きを確かめるように顔を動かす。
河はまだ見えない。
男の子が歩く。
犬がその少し前を歩く。
三歩。
四歩。
五歩。
犬が振り返る。
男の子がいる。
犬は前を見る。
その先に、広い空が見えていた。




