序章
「人生百年時代……なんて、嘘っぱち。アタシの人生は、たったの四十二年で強制終了だった……」
視界の端で、パルスオキシメーターの警告音がうるさく鳴り響いている。
遠のいていく意識のなか、アタシの魂は、あのがらんとしたリビングの食卓へ引き戻されていた。
テーブルの向こうには、誰もいない。
少し前までは、そこに息子の空が座っていた。
夕飯を作れば、文句を言いながら箸を動かした。
学校の様子を聞けば、「別に」とぶっきらぼうに返しつつも、そのうちポツポツと今日あったことを喋り始めた。
脱ぎっぱなしの制服を拾うのも、食べ散らかした菓子の袋を片づけるのも、朝になって何度も布団を引っぺがすのも、全部アタシの役目だった。
「まったく……お母さんがいなくなったら、アンタどうすんのよ」
何度、そう言って笑ったか分からない。
なのに――。
先にいなくなったのは、息子のほうだった。
アタシは空が十歳の時に、夫の亮と離婚した。
それから四年間、女手一つで空を育ててきた。亮から面会の連絡が来ても、『空が嫌がっているから』とその都度突っぱねた。元夫は言い返してくるような男じゃなかったし、離婚してからの四年間、一度も空を会わせなかったけれど、家へ押しかけてくることもなかった。
空はアタシとの生活を選んでいる。アタシがこの子のすべてなんだ。
疑いもしなかったその傲慢な自信は、一年前、あっけなく崩れ去る。
空はアタシに黙って、父親の元へ会いに行っていた。
「何話したの?」
「お父さんに、何か変なこと言われた!?」
問い詰めるアタシの声を、空は完全に無視した。
冷めきった目でアタシの横を通り過ぎ、そのまま自分の部屋へ入って、二度と鍵を開けなかった。
あの、実の母親を『異物』を見るような空の瞳が、今でもアタシの胸をズタズタに突き刺している。
単純に、激しい怒りが込み上げた。
何も言わずに父親の元へ行った空にも、アタシに無断で息子を引っ張り込んだ亮にも。
それまでアタシに反抗することすら一度もなかった従順な空は、その日を境に、アタシの前で完全に心を閉ざし、一切の口を利かなくなった。
「ご飯できたわよ」
声をかけても、返事すら戻ってこない。分厚いドア一枚を隔てて、私たち親子は完全に遮断された。
空の帰宅時間は日に日に遅くなり、ついには学校から信じられない連絡が届くようになった。
『空くんが、先生に激しく掴みかかりまして』
『今日は同級生を殴り倒し、怪我を負わせました』
そのたびにパートの手を止めて学校へ駆けつけ、髪を振り乱して頭を下げた。
「何があったの? お母さんに話してみなさい。お母さんはいつでもアンタの味方よ」
そう語りかけても、空はアタシの顔を見ようともしなかった。
「何も言ってくれなきゃ、お母さんだって分からないでしょ! これじゃまるでお母さんが悪いみたいじゃない!」
何度ヒステリックに問い詰めても、返ってくるのは冷たい沈黙だけだった。
そしてとうとう、決定的な事件が起こる。
空が教室で突然暴れ、止めに入った六人のクラスメイトを病院送りにしたのだ。骨折や重傷者まで出す、凄惨な事件だった。
連絡を受けた時、アタシはスーパーの暗い休憩室にいた。
携帯の向こうで担任が取り乱した声で何かを叫んでいたが、頭には何一つ入ってこなかった。
あの空が。
アタシに怒鳴り返すことさえ怯えていた優しい息子が、どうしてそんな化け物みたいな真似をしたのか。
空はそのまま児童相談所へ収容され、それから一年が経った今も、この家には戻ってきていない。
面会が許されたのは、保護されて間もない頃の一度きりだった。
「空、元気? ちょっと痩せたんじゃない? お母さん、心配で夜も眠れなくて……」
机の対面に座った空は、深く俯いたまま微動だにしない。
「ちゃんとご飯は食べてる? 辛いことがあったら、お母さんに何でも言って。お母さんが全部、解決してあげるから」
長く伸びた前髪の奥から、空がゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、かつてアタシに向けられていた怯えも従順さもなく、ただ、底冷えするような深い蔑みだけが宿っていた。
「――全部、お前の都合だろ?」
それが、最愛の息子から向けられた最後の言葉になった。
それから空は、アタシとの面会を一切拒み続けている。
「……なんなのよ、一体」
空になった缶チューハイを、テーブルへ叩きつけるように置いた。
「アタシ、何か悪いことした? あの子のために、どれだけ尽くしてきたと思ってるのよ」
どうしてアタシがこんな風に拒絶され、悪者扱いされなければならないのか、逆立ちしても理解できなかった。
空がおかしくなったのは、あの男に会ってからだ。それまでは、部屋を少し散らかす程度の、手のかからない可愛い子だった。学校で暴力を振るうような凶暴な血は、あの子には流れていない。
だったら、原因なんて一つしかない。
「……亮が、何か吹き込んだに違いないわ」
会わせないって言っているのに、空が訪ねてきたからと勝手に囲い込み、アタシの悪口を吹き込んで洗脳したのだ。あの陰湿な男ならやりかねない。
「あはは……生き甲斐も、何もありゃしない……」
もう一本アルコールを煽ろうとして、伸ばした手を止めた。
冷蔵庫の奥には、空が大好きだった3個パックのプリンが、賞味期限を切らしたままひっそりと眠っている。
スーパーの棚で見かけて、無意識にカゴに入れてしまったものだ。
あの子が帰ってくる予定なんて、もうどこにもないのに。それでも、捨てることだけはできなかった。
パートから帰れば、適当な惣菜で夕食を済ませ、テレビの砂嵐を眺めながら度数の高い酒を煽る。
今の家には、制服を脱ぎ散らかす人間も、菓子の袋を放っておく人間も、朝うるさく起こさなければならない相手もいない。
ずっと求めていた、静かで、楽な暮らし。
それなのに、どうしてこんなに息ができないほど苦しいのだろう。
空がいた頃より片づいているはずの部屋が、色彩を失って妙に荒れ果てて見えた。
その夜も、いつの間にかリビングの椅子に座ったまま、浅い眠りに落ちていたらしい。
冷え切った玄関のほうから、バタバタと慌ただしい足音が聞こえ、アタシは薄く目を開けた。
……誰かが、いる。
(空が……帰ってきたの?)
淡い期待が脳裏をよぎった瞬間、玄関の扉が激しく閉まる金属音が響き、アタシのほうへ駆けてくる足音が急速に近づいてきた。
「……誰?」
身体を起こそうとした、まさにその刹那。
背中の奥、心臓の裏側を容赦なく抉られるような、凄まじい衝撃と激痛が走った。
「うぉっ……あ、っ……!?」
肺の中の空気が一瞬で弾け飛び、アタシの胸はテーブルへ強く押しつけられた。
一ミリでも動けば、胸の中を錆びた刃物で激しく掻き回されるような痛みが全身を駆け巡り、呼吸をすることさえ恐怖に変わる。
逃げる間もなく髪の毛を乱暴に掴み上げられ、背中から引き抜かれた刃物が、何度も、何度も、容赦なく肉を割いて突き刺さった。
ガチガチと震える顎を引き、ゆっくりと視線を下に向ける。
アタシの胸の中心には、見覚えのある我が家の台所の包丁が、根元まで深く突き刺さっていた。
柄の周りからドクドクと溢れ出した鮮血が、お気に入りの服を赤黒く染め上げ、太腿を伝って床へボタボタと落ちていく。
流れ出る血は生温いはずなのに、指先から急速に体温が失われ、身体の芯から凍りつくような冷たさが侵入してくるのが分かった。
ぽた、ぽた、と血の滴る音だけが、不気味に静まり返ったリビングに響いている。
(声が出ない……寒い……痛みが、消えていく……)
身体が、痛みを感じる力さえ失いかけている。
ぼんやりと霞む視界の端に、古ぼけた冷蔵庫が映った。
あの中には、まだあのプリンが入っている。
(……何やってんだろ、アタシ)
帰ってくるかも分からない息子のプリンなんて買って。
もし帰ってきたら、これまでの文句を一つ残らず言ってやろうと思って。
そのくせ、一年間、一度も帰ってこなかった。
つまらない夫と別れ、元彼だってすぐにアタシを受け入れてくれて、空と二人で何不自由なく暮らしてきた。
順風満帆な、勝ち組の人生だったはずなのに。
どこでアタシは間違えた。
元彼に突然、別れを告げられたあの時?
空が亮に会って、アタシを『お前』と呼んだ時?
それとも――。
《ラ・エル・ノア・フィス……契約の門を開け!》
突如、頭の中に厳かな、まるでお経のような声が響き渡った。遠のきかけていた意識が、その妙に響く声にわずかに引き戻される。
(はあ? なに、今の……誰の声……?)
《汝、契約の理を受け入れよ》
また聞こえた。
先ほどよりもはっきりしているが、受け入れろと言われても、瀕死の重体で何をどうすればいいのか分かるはずがない。
(『受け入れよ』って……何をだよ、ふざけんな……)
心の中で悪態をつきながらしばらく待ってみたが、何も起こらない。
すると、頭の中の声は、先ほどまでの威厳をどこかへ放り投げ、困ったように沈黙した。
《ん〜、おかしいなぁ……。いつもコレで出てくるんですがねぇ》
《なんでじゃろう。……もしかして、詰まってんのかな?》
《そんな、便器じゃないんだから》
クスクスと、緊張感のない小さな吹き出し声が脳内に響く。
(ちょっと待てぇい……っ!)
こちとら背中を滅多刺しにされて死ぬ寸前だというのに、なぜ見知らぬ声に「便器の詰まり」みたいな扱いをされなければならないのだ。
天国か地獄かも分からないというのに、これでは死後の世界へ行く前から不安しかないじゃないか。
《こりゃ……ププッ。真剣にやらんか、怒られますよ》
《いや、だって笑ってるじゃないですか。あ、はい。それじゃあ、気を取り直して》
笑いを堪えきれていない軽い声が、わざとらしくゴホンと咳払いをした。
《汝、契約の理を受け入れよ……。なお、詰まりの原因が便の場合は――》
《そこまでじゃ! ギャーハッハッハ!》
(コイツら、絶対に許さない……!)
人が人生の幕を閉じようとしている文字通りの修羅場のなかで、いつまで便器の話を引っ張るつもりだ。
アタシは血に濡れて震える指をすぼめ、魂に残されていた最後の力を、その拳へと込めた。
「人の死を……なんだと思ってんだぁぁぁ!」
叫んだ瞬間、アタシの身体が爆発的な赤い光に包まれた。
椅子に押しつけられていた背中の痛々しい感触が消え去り、血に濡れた服も、冷え切ったリビングも、急速に遠ざかっていく。
(う、浮いてる……!? これが死ぬってことなの……!?)
何もない無限の空間へ吸い上げられるように身体が浮上し、アタシの意識と視界は、怒り狂うような赤い光の中に完全に塗り潰されていった。




