第44話 前線基地にて
――鍋の中身が、いい具合だ。
船の甲板は慌ただしい。クレーンが唸り、コンテナが次々と下ろされ、資材が人の流れに乗って消えていく。前線基地の建設は、文字通り爆速だ。設営部隊は無駄な動きが一切なく、ここが“想定通りの場所”であることを雄弁に物語っている。
そんな喧騒のど真ん中で、俺は鍋をかき回していた。
「次、いけるぞ」
声をかけると、血と泥にまみれた探索者が一人、恐る恐るといった様子で近づいてくる。鎧の継ぎ目からは、まだ乾ききらない血。顔色も、正直よくはない。
「……本当に、食って大丈夫なんですよね」
「今さら何言ってんだ。さっきまで前線立ってたんだろ」
そう言って、器を差し出す。
中身は見た目こそ地味だ。具沢山の煮込みに、香味野菜を効かせたスープ。だが、《かくりよの手》で調整したこれは、治癒力の底上げに特化している。
即効性はない。
代わりに、“これから回復する力”を強化する。
「熱いから、気をつけろ」
探索者は一口すすると、目を見開いた。
「……あ」
その声だけで、十分だ。
体内で何が起きているか、本人が一番分かる。傷口がじんわりと温かくなり、鈍かった感覚が戻っていく。ポーションとは違う。無理やり押し上げるんじゃない。自分の身体に、ちゃんと治れって言ってるだけだ。
「次!」
呼ぶと、また一人、また一人。
腕を押さえたやつ、肩を庇っているやつ、膝に不安を残したままのやつ。誰もが疲れている。だが、全員立っている。
――それでいい。
無理に治す必要はない。
倒れない身体を、今ここで作れればいい。
「店主……」
声をかけられて顔を上げる。
そこにいたのは、さっきまで前線で踏ん張っていた日本の近接だ。さすがに息は荒いが、目はまだ死んでいない。
「助かります。正直、ポーションより……」
「言うな。効き方が違うだけだ」
ぶっきらぼうに返して、器を渡す。
周囲では、基地の骨組みがもう立ち上がり始めている。氷の防壁を背に、通信アンテナが設置され、医療区画のテントが張られていく。
……早いな。
想定してたとはいえ、この速度は異常だ。
それだけ、上が本気ってことか。
「お、ユート!」
聞き覚えのある英語混じりの声。
振り返ると、アレクサンダーがいた。相変わらず元気そうで、どこも怪我してないように見える。実際、怪我はないんだろう。
「食うか?」
「念のためな! 投資みたいなもんだ!」
意味はよく分からんが、器を渡す。あいつは豪快に飲み干して、満足そうに親指を立てた。
「いいねぇ。これなら次も稼げる」
……本当にこいつはブレない。
その向こうで、趙天嵐が静かにこちらを見ていた。怪我はない。疲れも、見えない。
「……必要ないか?」
そう言うと、彼は一瞬考えるように視線を落とし、首を横に振った。
「不要だ。だが……」
言いかけて、少しだけ間を置く。
「後方が安定している。これは、良い」
それだけ言って、踵を返した。
褒め言葉なんだろう。たぶん。
そして。
「店主」
聞き慣れた声に、俺は自然と顔を上げた。
刹那が立っている。
血はついているが、傷はない。呼吸も乱れていない。刀を下げた姿勢に、微塵の疲れも見えなかった。
「……食うか?」
「今回は、いいです」
即答だった。
「まだ、前に立てますから」
そう言って、少しだけ視線を基地の外――氷の壁の向こうへ向ける。
「ここができたなら、次に行ける」
……まったく。
「無理はするな。戻ってきたら、用意してやる」
「はい」
短く頷いて、刹那は前線へ戻っていった。
俺はその背中を見送り、また鍋に向き直る。
ここは後方だ。
だが、戦場の一部でもある。
前で刃を振るうやつがいて、
後ろで飯を作るやつがいる。
それだけの話だ。
「次、来い」
器を並べ、俺は声を張った。
――前線基地は、もう動き始めている。
――――――
治癒用の鍋が空になった頃には、前線基地の輪郭はもう“完成形”に近づいていた。
俺は鍋を火から下ろし、手を洗うと、そのまま氷の防壁へ向かう。階段代わりに組まれた仮設足場を登り、壁の上に立つと、視界が一気に開けた。
――うようよ、だ。
氷壁の外側。押し返されたはずの地表に、もう黒い影が蠢いている。数はまだ多くない。だが、確実に“戻ってきている”。
「……もうこんなに戻ってきたのか」
誰かが、呆れたように呟いた。
俺は返事をせず、足元に視線を落とす。
「ヒース」
小さな影が、俺の足元で尻尾を振った。
今はドラゴンパピー――丸っこい幼体の姿。つぶらな目で外を覗き込み、喉の奥で小さく鳴く。
「解除だ」
短く言う。
ヒースは一瞬だけ首を傾げ、それから――空気が変わった。
膨張する魔力。幼体の輪郭が歪み、骨格が引き延ばされ、鱗が重なり合っていく。可愛げのある姿は消え、代わりに現れたのは、壁の上に収まるぎりぎりの戦闘形態のドラゴンだ。
周囲が、静まり返る。
「……おい、嘘だろ」
「後方支援要員、だよな……?」
誰かの声が震えているのが分かった。
ヒースは俺の隣で翼を畳み、低く唸った。視線の先は、氷壁の向こう。群れをなすモンスターたち。
「ヒース。前方、扇状。威嚇はいらない」
俺がそう言うと、ヒースは一度だけ頷いた……ように見えた。
大きく息を吸う。
胸郭が広がり、喉の奥が白く輝く。
次の瞬間――
轟音。
圧縮された灼熱が、一直線ではなく扇状に解き放たれた。ドラゴンブレス。地表を舐めるように走り、瘴気ごと空間を焼き払う。
爆ぜる肉。溶ける甲殻。逃げる間もなく、群れがごっそり消える。
熱風が壁を越えて吹き上がり、探索者たちが思わず腕で顔を覆った。
……これでいい。
ヒースは息を整え、ゆっくりと口を閉じる。周囲に敵意は向けない。ただ、そこに立っているだけだ。
俺はその首元に手を置いた。
「上出来だ」
ヒースは喉を鳴らし、満足そうに尾を揺らす。
背後で、誰かが小さく息を呑む音がした。
「……前線があると思ってたけど」
別の誰かが、乾いた笑いで続ける。
「後ろにも、線があったんだな」
違う。
俺は氷壁の外を見下ろしながら、心の中で首を振った。
線じゃない。
ここに、壁がある。
前で刃を振るうやつがいる。
後ろで、回復と補給を回すやつがいる。
そして――俺の傍には、ヒースがいる。
「しばらくは、寄せつけない」
そう言って、俺は壁の上に腰を下ろした。
ヒースが、俺の横で翼を畳む。
前線基地は動いている。
モンスターは、また来る。
――だが、ここはもう、簡単には崩れない。




