第七章 甘い人生は、これから
ダンスパーティの一件は、王都中の噂になった。
第一王子が、公の場で謝罪したこと。男爵令嬢が虚偽の告発を認めたこと。そして、かつての公爵令嬢が、平民の菓子店を経営していること。
けれど、私の中では、もう過ぎたこと。
あんなことがあっても、朝がくれば私たちはお菓子を焼く。朝早くからオーブンを温め、バターを練り、砂糖を量る。トムが生地を仕込み、ミアは店先を掃除している。私は焼き上がったシュークリームを皿に並べる。
「……うん!」
こんがりとした生地。たっぷり詰まったカスタードクリーム。甘い香りが、店いっぱいに広がる。
「お嬢様、今日のシュークリームも、いい出来ですね」
ミアが笑った。
「ええ。トムが頑張ってくれているおかげよ」
「へへっ。まあな」
トムは、照れくさそうに笑っている。彼はもう、パンの耳を拾って空腹を凌ぐことしかできなかった少年ではない。読み書き、計算も覚え、今では新しい菓子の開発にも参加している。
この間、いつか自分の店を持ちたいと打ち明けてくれた。その夢を、私は応援したいと思っている。
扉が開いて、常連の老婦人が、笑顔で入ってきた。
「いらっしゃいませ!」
ミアの明るい声が響く。
「いつものクッキーをいただけるかしら?」
「もちろんです!」
「ここの焼きたてのお菓子をお茶と一緒にいただくのが私の楽しみなの」
私はクッキーを袋に詰め、老婦人は、代金を払いながら言った。
「……ありがとうございます」
その言葉は、私の一番欲しかった言葉だった。
お菓子は人を笑顔にする。それは、前世でも、この世界でも変わらない。
そして、私はようやく理解した。
この世界に転生した意味なんか考える必要はない。この世界で精一杯生きればいいのだ。悪役令嬢として生きる必要なんかない。
誰かの恋物語のハッピーエンドのために私が犠牲になる必要なんてないのだ。
王子様に選ばれなくても、貴族社会で認められなくても不幸ではない。自分の幸せは自分で決める。
私にとってはその手段が、たまたまお菓子だったということ。ただ、それだけのことだ。
夕方。閉店後の店で、私たちは一緒に夕食を食べた。
焼きたてのパン。野菜たっぷりのスープ。そして、食後には、少し形の崩れたシュークリーム。
「……おいしい」
今日もミアが幸せそうだ。
「うん。うまいな」
トムも、口いっぱいにクリームを頬張っている。
私は二人を見つめ、笑った。
「ねえ。明日は、新しいお菓子に挑戦してみようと思うんだけど?」
「新しいお菓子ですか?」
「ええ。レシピ集に、面白そうなものがあって」
私は本を開いて、カラフルでおいしそうなお菓子の写真を見せる。
まだ作っていないものも、たくさんある。チョコレートケーキ。フルーツタルト。プリン。
そして、いつか作ってみたい、何段にも重ねた華やかなケーキ。
この世界には、まだ知られていない甘いものがたくさんある。
それを、私が一つずつ形にしていきたい。
みんなが美味しそうに食べる顔を想像するだけで、胸が弾む。
「お嬢様、また変なことを考えていますね?」
「失礼ね。素晴らしい計画よ」
「どんな計画だよ?」
2人のあやしむ顔を私は、見ながら。
「お店を、もっと大きくするの」
「……もっと?」
「ええ。いつか、大陸中の人が知っているお店にするの。そして、もっとたくさんの人に、おいしいお菓子を食べてもらいたいの」
「素敵です!」
ミアが目を輝かせたて言う。
「やろうぜ」
トムも笑っている。
窓の外は夕暮れの空に、一番星が輝きはじめていた。
かつて、私が読んだ物語の結末に悪役令嬢の幸福など書かれていなかった。
彼女は断罪され、居場所を失い、誰にも顧みられずに生涯を終える。
けれど、それはあくまで物語の中の話だ。
もう、あの物語に出てくる悪役令嬢はいない。
自分の手で生地をこね、自分の手でお菓子を焼き、自分の手で自分の幸せをつかみとっていく。
そして、そばには信頼できる仲間がいる。
それ以上に、何が必要だろう。
「……さあ、明日も頑張りましょう!」
私は立ち上がった。
「まずは、明日の仕込みを終わらせないとね!」
「はい、お嬢様!」
「おう!」
二人の声が重なった。
厨房へ向かう途中、私はふと、手元のレシピ集を見下ろした。
ほんとにこの本には助けられたわね。
「……さて、次は何を焼こうかしら?」
私はこれからも、この世界で、私自身の人生を、甘く、楽しく、焼き上げていくわ。
――END――




