87 ある男の、とびきり素晴らしい日
キッシュの宮殿の中、与えられた自室のベッドの中で、アイは上体を起こし、月明かりが差し込む窓を見ていた。
スティルが無事だったことは、よかった。
シードルたちのことは、キッシュがなんとかしてくれる。
だったら自分にするべきことは無い。
メルカとかいう女の子の、異常な術を見るに、これは自分が出ていくスケールの話ではないのだろう。
「はぁ……」
それでも何となく、自分の無力さに嫌気がさして、アイはため息をついた。
この世界に来てからというもの、魔法が使える自分に喜んで強くなった気になっていたものの、いろいろ振り返ってみると、何かに巻き込まれては皆に助けられるという結果ばかりだった。
いや、これでいいんだ。
バッドエンドみたいな死だけを避けて、もう終わったと何度思ったかわからないけど、それでもこうして生きている。
それで十分だ。
余計なことは考えずに、寝よう。
アイは布団をかぶり、深い眠りについた。
アイが眠ってからしばらくしてから、その部屋の窓に、一人の黒い人影があった。
「ようやく見つけた……」
その影が、窓枠からアイの部屋の中に、飛び降りようとした瞬間……
部屋の中からもう一つの影が、跳躍し、ぶつかって、その人物を部屋からはじき出すように一緒に外へ飛び出した。
「メイド殺法、”飛び蹴り”」
部屋から跳躍し、不審人物を窓の外に蹴りだしたのは、サーシャだった。
侵入者の気配を感じて、いついかなる時でも駆け付け、アイを守るのが彼女の仕事だったが、実際に子の素早さで気配を察して追い出して見せるのはやはり、人間技ではない。
「おっと……これは驚きました。警備がザルだったので、あとで文句を言いに行こうと思っていたところでしたが、一応見張ってはいたのですね」
その男はゆっくりと立ち上がり、服に付いた埃を払った。
執事服に身を包んだ、その男は、サーシャの強烈な蹴りをものともせず、優雅に振舞った。
「お嬢様の貞操を狙う変態にしては、身なりがいいので驚きました」
サーシャは余裕そうに率直に感想を述べた。
「お嬢様の貞操は確かに私のものだが、変態というレッテルは憚られますね……」
「お前……何者だ。お嬢様の何を知っている?」
「おや自己紹介がまだでしたか。申し遅れました。私、スクリーム家の執事、エスと申します。以後お見知りおきを」
「なるほど。しかし寝込みを襲うような変態執事は、どちらにしろ成敗ですね」
サーシャはエスの自己紹介を信じたかどうかは別として、そのままエスのほうへと突進した。
そして目にもとまらぬ速さで蹴りを繰り出す。
その連撃を、エスはサーシャの脚を手で払い、威力をそらしながら、避ける。
「ふっ!はっ!!」
サーシャの蹴りは、エスの急所をとらえることなく、エスは身をひるがえしてその攻撃を捌いていく。
「困りましたね……さすが第三王子の私兵。けっこうお強い」
そう言いながらも余裕しゃくしゃくでエスは戦いを続ける。
「でも、本気じゃありませんね。信じてくれたんですか?私のこと」
エスはそう言うと、懐からナイフを取り出し、サーシャの蹴りを防ぐ手に持った。
サーシャはとっさにぴたりと脚を止め、ナイフに脚が刺さらないようにしたが、そのせいで一瞬動きが止まった。
エスはそれを見ると、正面に踏み出すように、サーシャの腹へまっすぐに蹴りを繰り出した。
「ぐっ?!」
サーシャは軽々と吹っ飛ばされ、庭を転がり、庭を手入れする道具に突っ込んだ。
ガラガラと音を立てて、バケツやブラシが転がり落ちた。
「申し訳ございません。私少々……昂っておりまして……今の私の気持ちが、あなたにわかりますか?」
エスはゆっくりと歩いて、サーシャのほうへと近づいた。
「自分が大事に育てた、あと少しで花を咲かすつぼみを……突然誰かにひったくられて、何日もかけてはその在処を探し、ようやくたどり着いた。そしてそれをまさに手にしようとした瞬間……あなたに邪魔をされた。そんな感じです」
「よくわかりませんが、例えが気持ち悪いですね。やっぱり死んでもらいます」
サーシャは道具の中からデッキブラシを手に取ると、くるくると回して構えた。
「メイド殺法、ブラシ棒術」
「おお……王家の使用人にのみ伝わるとされるメイド殺法でしたか。興味深い」
エスとサーシャが激戦を繰り広げる横で、アイは目を覚ました。
庭のほうで何かがけたたましい音を立てて、崩れ落ちたようだ。
「世界一安全が聞いて呆れる……」
アイはバスローブ姿のまま、ゆっくりと布団を抜け出した。
アイが庭に駆け付けると、サーシャが誰かと戦っていた。
アイは黒い服を着たその人物に見覚えがあった気がしたが、暗くてよく見えず、もう少し近づいてみることにした。
サーシャはデッキブラシで神業のような棒術を繰り出していた。
片側で叩きつけ、それをエスが防ぐと、その弾かれた力を利用するように、ブラシのもう反対側で攻撃が繰り出される。
くるくると自分を軸に、何度も回転させるように、デッキブラシがエスに打ち付けられた。
エスはナイフのリーチでは、サーシャを攻撃範囲に捉えられず、防戦一方になる。
速い……!
エスも何度も修羅場を超えてきた手練れだったが、その中でもトップクラスにサーシャは強かった。
「うまいですね。困りました……一刻も早くアイ様に会いたい……のにっ!」
エスはそう発しながら瞬時に距離を取り、懐から投げナイフを取り出すと、サーシャのほうへ素早く投げた。
サーシャはくるくると自分の前でデッキブラシを回すと、投げナイフを全て弾いた。
そのまま逃がさないとばかりに、エスのほうへと肉薄した。
「うぐっ?!」
エスのみぞおちに、デッキブラシの持ち手側の先端が突き出され、エスは勢いよく吹っ飛んだ。
そしてたまたまアイが庭へと出てきたすぐそばに、エスは吹っ飛ばされてきた。
「おわっ?!」
アイが突然飛んできた物体を避けると、後ろの壁に叩きつけられた物体がエスだったと気づいた。
「え、エス!?」
予想もしない人物に、予想もしない場所で出会うことになり、アイは驚愕した。
追撃しようと距離を詰めるサーシャの前に、アイは躍り出て、両手をいっぱいに広げてサーシャを制止した。
「待った待った待ったぁーっ!!」
「あら、お嬢様。起こしてしまいましたか。このサーシャ、一生の不覚」
「知り合いだから!この人」
「そうみたいですね」
「じゃあなぜ?」
「お嬢様の貞操を狙っていたようなので」
アイは、エスのほうを見た。
「お嬢様。やっと見つけました……」
「エス……探しに来てくれたの?」
「ええ。血眼になって探しました。ちょうど見つけられた時が夜だったので、そのまま夜這いをかけようとも思ったのですが……」
「よし、サーシャ、追撃」
「承知」
サーシャは再びデッキブラシを構え、エスへと迫った。
「なっ……!お嬢様?!」
アイはエスを無視して、あくびをしながら、自室へと戻った。
激戦を再開した二人を横目に見て、とはいえエスが来てくれたことが嬉しかったアイは、すこし口元が緩んだ。
庭はうるさいが、なんだか今日はよく眠れそうだ。
アイはそう思った。




