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石の心  作者: 若葉
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その二。その三。


灰色の空の下、数十メートル向こうに、いつもの駅が見える

小さな駅舎の真ん中に三つの自動改札。いつもなら、まるで小さな駅舎が歯を見せてにっこり笑っているように見える。

それなのに、今日は違う。冷たく、暗く酷く無機質だ。その様はまるで何処かの国の収容所をさえ思わせた。

駅舎だけではない。

道行く人々、鳥の声、何もかもが灰色の薄い紙に描いた絵のように頼り無く、無機質で、寒々しい。

いつもの出勤途中の筈だった。今迄に無い内側からの強い、唐突な寒気に狼狽えて彼はふっと立ち止まり、動けなくなる。彼女や上司や同僚の顔が浮かび、冷や汗と言い様の無い不安と吐き気を覚えた。涙が唐突にこぼれ、止まらない。ふっと心模様が薄闇に染まる。眼前に重い黄昏が広がる。誰もいない、枯れ木とざらざらした岩肌ばかりが無限に広がる荒れ野に自分だけが立ち尽くしている。心に音をたてて(おり)の様なものが沈殿していく。足が、鉛の様に重たい。ここは何処なんだ?ああ、楽になりたい。

はっと我に帰り、彼の脇を、少し不審そうにチラと見てはすり抜けてゆく、数え切れないサラリーマンと学生の男女の波。彼は動けなかった。薄い膜の向こうに見える人々の波が彼だけを取り残して去って行く、彼は立ち尽くしている。足が重く、そして唐突に体がすぅっと冷たくなり、少し震える。出来る事ならその場にうずくまり、膝を抱えたい。風邪の寒気ではない。それは解る。しかし、何が寒気を脱力を引き起こしているのか、考える気力もない。彼は人波の過ぎ去るまでの間、時間にすれば一分に満たないだろう、この中の誰にも共感されない、説明の仕様もない不安にただただ立ち尽くしていた。


何度荒々しい波が押し寄せ過ぎ去っていっただろう。彼は駅の入り口に吸い込まれ、また吐き出される人波の中で、一人呆然と屹立していた。

後から考えれば不可解だが、病院に行こうというごく一般的な考えは思い浮かばなかった。少しも。


気付けば携帯を手にしていた。会社にはもう間に合いそうにない。自分の意思など無かった。自分の手が勝手に動いていた。

発信音が鼓動と織り重なる。何かが今断ち切られようとしている。携帯を持つ手が微かに震えている。けれどもう足が動かないのだ。重たくて一歩も進めないのだ。戻る事も出来ないのだ。自分が自分でないみたいだ、操り人形みたいに誰かに制御されているみたいだ。或いは電池切れを起こした玩具の様だとも思った。



会社には何と言い訳したのか。彼には記憶がない。

急で申し訳ありません、何日か休ませていただきたいのですが。震える声でそう言った事だけは覚えている。上司は暫く嫌みを言っていたが、良いよ。好きなだけ休めよ、元々役に立たないのは知っているし、このまま戻ってこなくても良いよ、全く困らないからね、という様な言葉を並べて一方的に通話を打ち切られた。

元来彼は少しも必要とされていなかった。

いつでも辞めさせられてもおかしくない、他者にゴマばかりすって頭をペコペコ下げて生きてきた。今に始まった事じゃない、学生時代、小学校の頃から、バカにされ、笑われて、おどおど、それでもべんちゃらと目立たぬ様に、下手に下手、怒りを買わない様に。それだけで生きてきた。

一言で言えば誠に不甲斐なく、情けない人生であった。

今になって何かが壊れた。金属疲労で機械の部品が壊れる様に。

辞めさせられるのかも知れない。それも悪くない。

いや、今辞めたら今までの苦労の日々はどうなる?しかし、どうでも良い。何も考えられない。自分の中に自分を突き放す感情が蔓延していた。

何も考えたくない。

彼は一人、少し引いた場所で立ち止まり、流れ行く人々を見るともなく眺めていた。誰も此方を見ていない。携帯の電源も切った。重圧の種を少し切り取って、やっと少し安心と余裕も出来た。

人々の表情は笑顔でさえ何処か虚ろであった。暗い妄想かもしれぬ。しかし流れ行く人々は仕事だけでなく、友と語らう笑顔の裏にさえ、言葉にならぬ緊張と疲労感を滲ませて居る様にみえた。

心の重さが、彼の見るもの全ての色彩を喪失させていた。


電車が来る時、自身の危うさを感じた。ふいに吸い込まれそうになるのだ。まるで他人事の様に、危ないな、しっかりしろ、と言い聞かせて、滑り込んでくる電車のドアに体を捩じ込んだ。シートに腰掛けて、何も感じられない。考えられない。

さて、何処へ行く。下りの電車に乗って、上りの半分以下の乗車率に狼狽えつつ身を縮める事もなく座席を広々と占有して列車の流れに身を任せる。俺はもう何処へ行こうと自由だ。退廃的な安堵の故か、やがて緊張にも疲れたのか、緩やかな眠気が波のように押し寄せ引いて行く。深い闇に落ちていく。

途中で彼は何度かホームに降りた。酒を飲めばこの不安も幾らか落ち着くかも知れない。小さな売店でおにぎりと、紙パックの日本酒を買った。

懐かしくも侘しい景色が次の電車を待つ彼の瞳に写る。

緑と茶色と、山と樹木と古びた商店と民家と。

人の生活の密度が次第に希薄になり、抗い難い自然との比率が推移して行く。

遠くへ来たのだな。

阿呆の様に彼は、退屈なその景色を、次の電車が来る迄眺めていた。

幾度か同じ様に時を過ごした。

幾つかの駅でおにぎりを食べ、幾つかの駅で酒を飲み、やはり重たい気分と幽かな酔いの中で次の電車を待っていた。


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