エピローグ
「ねえ、ヴァルさん」
「ん? なんだよ」
ようやく掃除の終わった家の前に、二人は並んで立っている。ヴァルが前の仕事から足を洗って、この街に引っ越しすことになった。ヴァルは一緒に暮らしたがったが、「そこはちゃんと段階を踏んで」とランに言われ、渋々彼女とは別に構えることになった新居である。ヴァルはむすくれたが、それでも、二人が誰にもはばかることなく並んで立てるようになった、記念すべき日でもある。
「やっと、ですね」
「ああ、そうだなあ」
実際に共にいた時間はそれほど長くない二人だが、端から見たら、その様子は最初からそうあるべきだったというように、自然だった。
「…ラン」
「はい?」
「本当に、いいのか?」
「何がですか?」
「ああ、なんつーか、その…」
どうにも煮え切らない。
「その、俺なんかが、そばに…」
「またそれですか。良いって言ってるでしょうに」
どうにもヴァルは、まだ現実に戻れていない気分のようで、暇さえあればまとわりついてくる割りに、こうして何度も聞いてくる。鬱陶しいが、このガタイで捨てられた子犬のような目をされれば、ランも強くは言えない。どういうわけか髭も復活していて、少々むさ苦しい。
「ねえヴァルさん」
ランは、ヴァルの目を見据えた。
「ヴァルさんは、確かに悪いことをしてきたんだと思います。でも、私だって、地位に甘んじて、楽な道を選ぼうとしていた。子供みたいに甘えていた…」
お互いがお互いに悪いところがあったのだ。
「だからもう、忘れましょう。私も、ぬくぬく生きていた恥ずかしい過去の自分は忘れます。だからヴァルさんも、“鎌”の旦那なんていう似合わない名前、さっさと忘れちゃって良いんですから」
「ラン…」
「だから、もう、そんなこと言わないでください」
「…ああ、そうだな」
ランの優しさにヴァルは救われ、ヴァルの暖かさに、ランは安らぐ。
「錆び付いた名前なんか、さっさと忘れちまうにこしたこたあ無えか」
今はそんなものより、ずっと大切なものがある。
「だがな」
「はい?」
「自分がしてきたことを忘れるつもりは無えぞ」
それは、忘れてはいけないことだ。忘れずに生きねばならない。忘れたら、今度こそ自分が憎んだような人間と、同じになってしまうから。
「ええ。逃げちゃダメですよ」
「誰が逃げるかよ」
にこりと笑ったランに、まぶしそうに目を細めるヴァル。
「と言うかもう、ウォン隊長にも話をつけちゃったんですから」
「あー、そうだったな」
ランの伝で、ヴァルはこの街の警備隊に入ることが決まっている。
「あのおっさん、苦手なんだよな」
「ヴァルさんに似てますよね」
「全然似てねえよ」
「似てますよ。顔が怖いところとか」
「余計なお世話だ!」
ちなみに前の職場からどういう経路でか話が行っているらしく、ヴァルは早々に隊の一つを任されることになっていた。ヴァルが緊張の面持ちで前の上司に会いに行ったら、案外簡単に辞める事が出来たのだが、抜かりなく先回りしているところを見ると、要するに『必要になったら容赦なく駆り出す』ということらしかった。
それでも精一杯の譲歩なのだろう。そこは感謝するしかない。
ケタケタ笑うランは、今日もこの時間を満喫する。そんなランに、やがてヴァルも笑う。
二人とも話すこともやることもある。離れていた時間を埋め合わせたり、もう少し先に歩を進めたり、せっせと日々を生きたり。ともすれば生涯逢う事も無いはずだった二人は、こうして並んで立っている。
まだまだ始まったばかりだが、前のように、何かに迫られるような、終わりを予感する時間ではない。おずおずと、怯えて傷つけ合うようなことも無い。
二人には、まっさらな未来がある。
「いよいよ今日から、ですね」
新しい生活。新しい人生。
「覚悟は良いですか?」
ヴァルにとってこれからの日々、知らないことばかりなのは当然で、不安が無いといえばそれは嘘だろう。ランもそうだったように。
「望むところだ」
それでも、頼もしく堂々と胸を張っている。
「…今まで出来なかったこと、沢山しましょうね」
「…そうだな」
相変わらず強面のヴァルだったが、ランに向けた眼差しは、やはり優しい。
「お前の方こそ」
「何ですか」
ニヤリと笑う、その男。
「楽しみにしとけよ」
ともすれば震え上がりそうな迫力のある表情でも、ランには関係ない。ただ何となく、ずっとこの隣にこうして在るのも悪くないと、不思議なことを思うだけだ。
「当然です」
やること、やりたいことは沢山ある。でも、そう焦ることもない。ゆったり構えていればいい。何事もなければ、出来るときに出来ることをして、進めるときに前に進んで。
別に急ぐ必要も無いのだ。
「では、行きましょうか」
「おう」
何しろ時間は、これからいくらでも、山ほどあるのだから。
読了ありがとうございました。後書きは活動報告にて!




