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8.それから


 二人の沈黙は、時間とすればさほど長くはなかったのかもしれない。

 しかし重い雰囲気に潰されるように俯いてしまう二人の耳に、涼介の携帯電話の着信音が届いたことで、空気が変わる。


 涼介の携帯電話はキッチンカウンターの端にあり、突然鳴ったピロロッピロロッという機械的な音に二人はハッと顔を上げる。

 二人は見つめ合うが、どちらも動かないし何も言わない。

 真弓としてはすぐにでも涼介が携帯電話に向かうだろうと思っていたのに、涼介は椅子から立ち上がろうとしない。

 なぜ出ないのだろう、と真弓は一瞬疑問に思ったが、ああ涼介は里香からの電話だと思っているのか、とその理由に思い至った。

 涼介が里香の連絡先を消したのかは聞いていないが、もし今かかってきている電話が里香からのものだったら、今涼介が話したことは嘘に聞こえる。

 だから出られないのだろう。

 そう考えたら少しバカバカしく思えてきた真弓は、『出たら?』と冷静に涼介に言ってしまった。

 

 真弓のその言葉に、涼介は驚いたような顔をしたが、『あ、電話か。うん』とつぶやいて携帯電話を手にする。

 キッチンカウンターは真弓のすぐ後ろにあり、携帯電話に出た涼介はその場で話し始めた。

 真弓の耳に相手の声がボソボソと漏れ聞こえる。

 相手は男性。涼介の気安い言葉遣いからもしかすると湯上かもしれないと真弓は思った。

 

『······って······心配············遅く······』

「うん、うん。ありがとう。退院できてね。今は家でやっと······うん。そう。え?······ああ、ちょっと待って」


 携帯電話を口から離した涼介は、真弓に携帯電話を見せ、『湯上なんだけど、話したいって』と真弓に伺いを立ててきた。

 湯上が麻央を見に来た時に少しだけしか会話をした記憶がない真弓は、何の話があるのか疑問に思ったが、今の二人の会話を想像して自分の事故の見舞いの言葉かもしれないと思った。

 それならば断る理由もない。

 真弓は涼介から携帯電話を受け取ると、『もしもし?』と声を出した。


『あ、もしもし。以前お邪魔しました湯上です。奥さんが事故に遭ったと知らなくて、遅くなってすみません』

「いえいえ。こんな言い方は変かもしれませんけど、事故に遭ったのは私ですからね、涼介さんのご友人の湯上さんにご心配していただくのは恐縮です」

『いや、えっと、その······菅野からその時の状況を聞きまして······で、勝手とは思いましたが、奥さんが心配しているかと思って、その、涼介が浮気したのかどうか、と』

「え?」

『じつは先日菅野の見舞いに行った時に、あいつの口から事故の状況を聞いたんです。その時に奥さんが事故に遭われたと言うことと、あいつがその一因となったことも』


 真弓は湯上の言葉に、なぜ里香が湯上に話したのか疑問を感じた。

 三人は仲の良い友人関係で、たとえ里香が涼介に対して友人以上の感情を持っていても、湯上に対しては長く続くくらい大切な友人であるはずだ。

 その人に全て話したのだろうか。

 本当のことを?

 自分は悪くないと、味方を作りたかった? 

 いや、そもそも既婚者とホテルに行くというのは既に悪いとわかっていての行動だろう。

 ならば味方も何もないはず。

 いったいどういうつもりで湯上に何を話したのだろうか。

 真弓は湯上の言葉を聞きながら、疑問が頭を覆っていく。

 

 しかし湯上は真弓のそんな心情などわかるはずもなく、ゆっくりと話を進めていた。


『菅野は、奥さんが救急車で運ばれたところまでは見ていたみたいだけど、それ以降どんな状態なのかは聞けなかったから心配だったって言い出して。で、その口ぶりから何かあったなと思ったから、無理やり聞き出したんです。それで、あの、誤解のないように最後まで聞いてほしいんですが、たぶん、彼ら二人には何もなかったと思います。菅野も何もなかったと言っているのもありますが、涼介は奥さんのことが大好きなヤツですから。あ、それと、彼ら二人が何も無かったと口裏を合わせたということも無いと思います。菅野は実家に帰ってから、携帯電話は親に預けていたらしいし······。あ、預けっぱなしだったというのは、あいつの母親からも聞いているんで本当だと思います。俺も菅野の見舞いに行くって連絡したけど繋がらなくて、結局あいつの実家に電話して見舞いに行ったくらいだったんで』

 

 どうやら湯上は、真弓の安否確認と涼介と真弓の関係を心配して連絡してきたのだと言うことはわかった。

 そして里香自身は、涼介とはもちろん湯上とも連絡を絶とうとしていたのだということも。

 いや、もしかすると湯上とはそんな気はなかったかもしれない。

 しかし携帯電話をそばに置くことで、涼介に繋がる湯上や他の友人に連絡してしまうのを恐れたのかもしれない。

 全て真弓の想像だが、涼介と絶縁するために里香がとった行動だと思うと納得できてしまう。

 何も知らない湯上のように実家にまで電話をかけてきたら拒絶もし(づら)いだろうが、ホテルの入り口で引き返した涼介ならそこまでして里香と接点を持とうとはしないはず。



 真弓はなぜか令和までいって、また平成まで戻って来た。

 やり直しの人生を始めたわけだが、令和で聞いた真弓は記憶喪失を装っていたふしがある。

 あの時も里香が湯上を介して真弓の状況を聞いていたら、記憶喪失が嘘でも本当でも気に病んでしまっただろう。

 未だ電話口で涼介の潔白を伝えている湯上に、真弓は空返事をしてそんなことを考えていたが、里香の心情に思い至るとさっさとケリを付けてしまおうと腹をくくった。

 

 既にこの湯上という人間は巻き込まれている。ここまで涼介を信じてくれと言うのなら最後まで巻き込んでしまおう。

 

 

「湯上さん。ちょうど今、涼介さんとその話をしていたところだったんです。菅野さんに、私は無事に退院し、日常生活も戻ってきたとお伝え願えますか?涼介さんとも事故前のように戻ったと······ええ。涼介さんを信じますよ。だけど、やはり菅野さんからの謝罪は欲しいとも思っているんです。あの時、とてもショックだったので。ですが今はその時ではありません。まずは菅野さんが治療に専念して······そうですね、十年くらいしたら私の気持ちも落ち着くでしょうから、その時にでもしっかり謝罪をしてください、と、そうお伝え下さい」

 

 電話の向こうで湯上が、『わかりました。ちゃんと伝えますし、菅野と涼介が勝手に接点を持たないように俺も気にしていきますから』と言ったのを聞いて、真弓は携帯電話を涼介に渡した。

 携帯電話を受け取った涼介は、湯上から叱られたのか、『うん。うん。ごめん』と謝ってから通話を終了させていた。



 携帯電話をキッチンカウンターに置くと、涼介は再び真弓の正面に座った。

 その雰囲気は先ほどまでとは違い、少し明るく見えて、そんなところに真弓は苛ついた。

 

 湯上には涼介を信じると言ったが、その言葉で全て許されたと思われたら癪に障る。

 冗談じゃない。涼介から自分への愛情を疑っていなかったのにいきなりあんな場面を見せられたこっちの気持ちになってほしい。

 真弓は涼介とは反対に苛つく気持ちを隠そうともせず、これ見よがしに大きくため息を吐いた。

 そして令和では言ったが平成に戻ってきてからはまだ言っていなかった言葉を口にする。


「そもそもね、治療をする友人を応援するためにホテルに行くってありえないと思うの」

「うん、あ、はい。後悔しているし、反省しています」

「後悔も反省も、あの時見つからなかったら無かったわよね」

「いや、あ、うん。どうだろう━━」

「しなかったと思うわ」

「······すみません」

「もし私が男の友人から同じように言われて了承しても、涼介さんは流せるのかしら」

「いや、絶対に無理です」

「なら、わかるわよね」

「はい。すみません」


 真弓はそれから一時間、滾々と説教をし、最終的に元の夫婦生活に戻るかは真弓次第だと宣言した。

 


 


 その電話以降湯上は時々遊びに来る。

 普段は里香の話などしないのだが、ある日湯上が帰り際に、『月に一度は見舞いに行っている、里香はきちんと通院している』と一言言いおいて帰っていった。

 何気ない一言だったが、里香の“その後”を知っていた真弓は、まずは一山超えたのかとホッとした。

 令和で聞いた“里香が嘘をついて実家から出て行った”という頃を過ぎていたからだ。

 だからだろうか。真弓は珍しくお酒を飲みすぎた。

 湯上が帰った後、一緒に晩酌をしていた涼介ですら、『もうそろそろやめにしないと、明日に差し支えるよ』と心配したのを真弓は、『明日は休みだもーん』と一蹴し、『良かったぁ。これで大丈夫だぁ』と言いながら涼介をソファに押し倒した。

 涼介がそんな状態の真弓に狼狽えると、『大丈夫だよぉ、涼介さぁん、えへへ、良かったぁ』と言いながら抱きついてくる。

 真弓が甘えるように涼介の首筋に額をグリグリと押し付けてくるので、『何が大丈夫かよくわからないけど、このままだと抱いちゃうけど?』と涼介が確認すると、『良いよぉ、今日をもって解禁でーす』と真弓はえへえへと笑う。

 酔っ払いの真弓、という状態に涼介はほんの少し迷って、『明日、素面の真弓を抱きたい』と言うと、真弓からはあっさり了承をもらえた。

 その後真弓からは何度もキスをされたが、明日、素面でと言ったばかりの涼介は、グッと気持ちを強く持ちその夜は堪えきった。

 翌朝、顔を合わせるなりハッとした顔を見せた真弓に、涼介は真弓が約束を覚えているのだと確信する。

 そしてその夜、『約束した覚えはあるから』と恥ずかしそうに言った真弓と、夫婦生活は再開した。

 

 

 それから二年後、真弓は男の子を出産した。

 幼稚園に通う麻央は、いくつか用意した弟の名前候補の中から“秀汰”を選び、幼稚園で自慢しているらしい。

 出産前にはマンションも分譲に引っ越した。

 真弓が令和で一度行ったマンションと建物は同じだが、部屋は違って三LDKだ。

 出産祝いと引っ越し祝いに来た湯上は、麻央の幼稚園での話を楽しそうに聞いていたが、『じつは俺も報告がある』と居住まいを正した。

 

「じつは菅野里香と付き合って三年になる。それで近々結婚することになった。だからあいつはこっちに引っ越してくるけど、できれば、奥さん、当初の十年後に謝罪というのを少し早めてもらうことはできませんか」


 湯上がそう言って真弓を見つめる。

 ああ、そういえば里香が死んだら嫌だと思ってそんなことを言ったな、と今になって思い出した真弓は、ニコッと笑って了承した。


「おめでとうございます。もちろん、良いですよ。また今度菅野さんと一緒にいらしてください」




 なぜ令和から平成に戻って来たのかわからないが、きっとこれが正解だったのだろうと真弓は考える。

 子供は可愛いし、涼介からは愛されていると今でも思う。

 湯上と里香が結婚するのなら、もう過去に拘らなくても良いかなとも真弓は思ったが、涼介と里香の友情についてはまだ様子を見たい。

 何度も気持ちがぐらついたし、今でも時々若干気持ちがザワザワすることはあるけど、真弓は涼介を信じていこうと思っている。

 ただ、また同じ過ちを犯したらおぼえていなさいよ、という考えは、信じる気持ちと同じくらいある。

 

 ミルクを飲んでウトウトしている秀汰の口から大きなゲップが出たことを確認し、真弓は平和な日常生活に戻っていった。





 

 

 

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