君のすべてが愛しくて
「無事で良かった……」
耳元で囁かれるローランド様の掠れた声が、私の思考を停止させた。確かに抱きしめられているはずなのだけれど、まったく現実感が無い。
(これは、一体どういう……)
働こうとしない私の思考も、間近に感じるローランド様の香りに、ようやく動きを取り戻した。
現実感こそ無いけれど、これはどうやら現実らしい。
隣をちらりと見てみれば、ウブなリリアンが顔を真っ赤にしつつ、指の隙間からこちらを見ている。家族同然の彼女から見られていることが恥ずかしくて思わず身じろぎをしてみれば、ローランド様はさらにきつく抱きしめた。訳がわからない。
「ロ、ローランド様……なぜこちらに?」
「マルガレーテ様から、君が故郷に帰ってしまうと聞いて」
「マルガレーテ様から……?」
頭の片隅を、ニヤニヤと笑うマルガレーテ様が通り過ぎた。
少し、嫌な予感がする。
「……どうか辞めないでほしい」
「え?」
「君はもう王宮など嫌かもしれない。しかし俺は……」
どうやらローランド様のなかでは、なんと私が王宮勤めを辞めたことになっているらしい。
予感は的中した。彼がここまで来てしまったのは、きっとマルガレーテ様の仕業だ。
私としては単なる里帰りのはずだったのに、とんでもない。確かに辞め時を考えてはいるものの、マルガレーテ様にはきちんと『謹慎期間の間だけ帰らせて頂きます』と、そうお伝えしたはずなのに。辞める時期はこれから両親と相談して……そのつもりだった。
しかしマルガレーテ様がローランド様の不安を煽るようなことを吹き込んで、このように仕向けたのだろう。容易に想像がついてしまう。
「俺は、ソニアがそばに居てくれたら……」
絞り出すような彼の声に、胸が締め付けられるようだった。
きつく抱きしめる彼の腕は、弱まることがない。ここからどう言い訳をしようか、ローランド様の腕の中で、私は悩みに悩んだのだった。
◇◇◇
「――すまなかった。勘違いしていた」
「いえ、私がきちんとお話してから出発すればよかった話です。こちらこそすみませんでした」
お互いに頭を下げながら謝り合う私達は、とりあえず応接室へと通された。
あの後は結局、私の帰宅に気づいた両親が屋敷から現れて、大騒ぎする両親を前にやっとローランド様の腕から解放されたのだった。
そしてこれがただの里帰りであったことを説明すると、ローランド様は顔を青くし、平謝りを始めたのである。
「いや、急に押しかけたりして君のご両親を驚かせた。申し訳ない」
「そんなに謝らないで下さい。両親もローランド様のことを歓迎しておりますし……」
私のことを心配して飛び出てきた両親は、ローランド様に抱きしめられる娘の姿を目の当たりにし、顔を赤くして固まってしまった。おおよそリリアンと同じ反応だ。
そして応接室で根掘り葉掘り――私とローランド様の関係について問い質すと、これまた真っ赤になって席を外した。
『ソニアは、私にとって特別な女性です』
ローランド様がそのようなことを言うものだから。
「ご両親は、突然押しかけた俺なんかのためにとても良くして下さった。ここで一緒に帰りを待ちましょうと、部屋の用意まで」
「到着が遅くなってすみません。まさかローランド様がいらっしゃっていたなんて知らなかったのです」
「知らなくて当然だ、俺が勝手に後を追ったのだから」
私が「旅行気分」だなんて呑気にしている間にも、ローランド様は私の身を案じてくれていた。心配症の彼にとっては気が気ではなかっただろう。
「いえ、マルガレーテ様の言い方もいけません。ローランド様をけしかけるような事をおっしゃるなんて」
「――マルガレーテ王女には、『過保護』だと言われたな」
「過保護?」
「ああ。ソニアのことで部屋まで伺ったら『過保護過ぎる、落ち着け』と」
マルガレーテ様の歯に衣着せぬ物言いに、私は思わず笑ってしまった。ローランド様にこんなことが言えるなんて、さすがマルガレーテ様だ。
「しかし、ソニアの事となると落ち着けないんだ。俺は」
「でも私、今回も無事だったではないですか。まだ心配ですか? 何が心配ですか?」
「――すべてが」
ローランド様は、私を見つめて苦笑した。
「君のすべてが愛しくて、心配でたまらない」
どこか吹っ切れた彼が、私だけに向かって小さく呟く。その弱々しい声は、波紋のように優しく胸へ広がっていった。
「鬱陶しいだろう、こんな奴は」
「そ、そんなことはありません」
「君が辞めると勘違いして、連れ戻しに来た男だぞ」
伏し目がちなローランド様は、そう言って自嘲するけれど。
私はもう、我慢できそうになかった。ローランド様からこんなにも強く必要とされるなんて、嬉しくて仕方がなかった。
「それでは、連れ戻して下さいますか」
「……いいのか?」
「私、ローランド様のモデルでいたいのです。出来ることなら、ずっとお側に」
いつまでも侍女では居られない。
そろそろ辞める時が来た。
そう自分に言い聞かせて、納得しようとしたけれど。
そんなものは言い訳だった。
眩しすぎる人にどうしようも無い恋をして、特別な居場所の心地良さを知ってしまった。身の丈に合わない想いはどんどん膨れ上がってしまうから、むりやり蓋をしようとした。
でも本当は。
「私も、ローランド様が心配でたまらないのです。好きになってしまったから」
「……俺のことが?」
「そうです。ですから――」
私は心を決めて、顔を上げた。
「か、覚悟してくださいね」
「は?」
「私、嫌と言われるまで、ローランド様から離れません」
言ってしまった。もう後には引けない。
呆然としていたローランド様は、今にも爆発しそうな私の顔を見つめると、やがて蕩けるように微笑んだ。
「ああ。君も覚悟しろ」
ローランド様は、私の告白に受けて立つ。
そんな挑戦的な顔も、甘い瞳も、ローランド様のすべてが愛しくて。経験したことの無い喜びが、際限なく湧き上がる。
どうかローランド様も同じ気持ちなら嬉しい。
私は緩む頬を必死に抑えながら、切に願った。
次回で完結となります。
お付き合い下さった皆さま、本当にありがとうございました…!




