目覚め
目を覚ますと、草の上に寝転がっていた。
「……どこだ、ここ」
ゆっくりと体を起こす。
最初に目に入ったのは――木だった。
「……でか」
思わず声が漏れる。
大きい、なんて言葉では足りない。
幹だけで、ちょっとした建物どころではない。
見上げる。
首が痛くなるほど上を向いても、頂上が見えない。
無数の枝が空を覆い、その一本一本が普通の木と変わらないほど太い。
葉の隙間から光が差し込み、地面にいくつもの影を作っていた。
もし世界樹というものが本当に存在するなら、きっとこんな姿なのだろう。
巨大な根は地面の上までせり出し、壁のように草原へ伸びている。
幹の根元には、長い年月でできたのか、大きな裂け目のような隙間もあった。
人が一人入るには十分な広さがある。
その巨木の向こうには、見渡す限りの草原が広がっていた。
少し離れたところを一本の川が流れている。
水は透き通っていて、ここからでも川底が見えた。
ところどころには低い木も生えている。
赤や黄色の実をつけた木。
遠くでは、小さな動物が草の間を走っている。
空には鳥のような生き物も飛んでいた。
きれいな場所だった。
少なくとも、見える範囲に危険なものはいない。
だからこそ、意味が分からなかった。
「昨日……寝たよな」
そこまでは覚えている。
どこかで横になった。
そして眠った。
次に目を開けたら、ここにいた。
けれど、それ以上を思い出そうとすると、頭の中に霧がかかったようになる。
自分が何歳だったのか。
どんな仕事をしていたのか。
どんな家に住んでいたのか。
家族がいたのか。
友達がいたのか。
何一つ、はっきりしない。
それなのに、知識だけは残っている。
車を知っている。
電車も知っている。
電気も、テレビも、冷蔵庫も知っている。
コンビニという店があって、お金を払えば食べ物を買えることも分かる。
そういう場所で暮らしていた。
たぶん。
「……なのに、自分のことは分からないのか」
頭を抱えてみても、何も出てこない。
考え続けたところで仕方がない。
とりあえず、周囲を調べることにした。
◇
最初に向かったのは川だった。
近くで見ると、水はさらに澄んでいた。
底にある小石の模様まで見える。
流れもそれほど速くない。
しゃがみ込み、水へ手を伸ばす。
そして――止めた。
「いや……待てよ」
知らない場所の生水だ。
見た目がきれいだからといって、安全とは限らない。
腹を壊すだけならまだいい。
変な病気にでもなったらどうする。
この場所には病院どころか、人間すら見当たらない。
「やめとこう」
水から手を離す。
次に目についたのは、川の近くに生えている低い木だった。
赤い実がいくつもなっている。
見た目はうまそうだった。
「……これも怖いな」
毒があるかもしれない。
小さな動物が食べているからといって、自分が食べても平気とは限らない。
腹が減ったら、そのとき考えよう。
そう決めて、さらに周囲を歩いてみることにした。
◇
川に沿って進む。
何か人工物がないか探した。
道でもいい。
柵でもいい。
誰かが歩いた跡でもいい。
けれど、何も見つからない。
あるのは草と木と川。
そして動物だけ。
時々、後ろを振り返る。
遠く離れても、あの巨木だけははっきり見えた。
「……あれ、めちゃくちゃ便利だな」
どれだけ歩いても見失わない。
空へ突き刺さるように伸びているから、目印としてはこれ以上ない。
あの木を目指せば、少なくとも最初の場所へ戻れなくなることはなさそうだった。
さらに歩く。
景色はほとんど変わらない。
「……広すぎないか」
どれくらい歩いたのか分からない。
時計もない。
ただ、光の位置を見る限り、かなり時間は経っている。
そのとき。
「……あれ?」
足を止めた。
腹に手を当てる。
「腹、減ってないな」
目を覚ましてから、何も食べていない。
水も一滴も飲んでいない。
それなのに空腹を感じなかった。
喉も渇いていない。
「そんなことあるか?」
体調が悪い感じもしない。
むしろ、これだけ歩いたのに思ったほど疲れていなかった。
急に不安になってくる。
腹が減っていない。
だから食べなくていい。
本当にそう考えていいのだろうか。
感覚だけがおかしくなっていて、体は普通に水や栄養を必要としているのかもしれない。
「……一回、試したほうがいいな」
僕は巨木を目印に、川辺へ戻った。
◇
今度は覚悟を決めて水をすくう。
ほんの少しだけ口に含んだ。
「……普通だ」
冷たい。
変な匂いも味もしない。
少しだけ飲み込む。
しばらく待った。
何も起きない。
腹も痛くならない。
「大丈夫……そうか?」
次は木の実だ。
赤い実を一つ取る。
匂いを嗅ぐ。
少し甘い香りがする。
端をほんの少しだけかじった。
また待つ。
何も起きない。
もう一口。
「……うまい」
酸味はあるけれど、甘い。
普通に果物として食べられそうだった。
それでも全部は食べず、少しだけでやめる。
「次に腹が減ったら食べればいいか」
今はそれでいい。
水もある。
食べられそうなものもある。
少なくとも、すぐにどうにかなることはなさそうだ。
そうしているうちに、辺りが少しずつ暗くなってきた。
「夜か……」
草原の真ん中で寝る気にはならなかった。
昼間は小さな動物しか見ていない。
でも、夜になれば何が出てくるか分からない。
そこで視線を向けたのは、あの巨木だった。
根元まで戻る。
近くで見ると、やはり異常なくらい大きい。
壁のような幹。
地面を這う巨大な根。
そして、その間にできた裂け目。
「ここ……使えそうだな」
幹と幹のように分かれた部分の間に、奥まった隙間がある。
外から見ると影になっていて、中はほとんど見えない。
僕は体を滑り込ませた。
思ったより広かった。
二、三人くらいなら座れそうだ。
頭上は巨木の幹と根に囲まれている。
草原で寝るより、ずっと安心できる。
「今日からここにするか」
背中を幹へ預ける。
少し硬いけれど、悪くない。
外からは川の音が聞こえる。
葉が擦れる音。
遠くで鳴く動物の声。
知らない場所なのに、不思議と落ち着いた。
「明日は、もう少し遠くまで行ってみよう」
誰かいるかもしれない。
何か見つかるかもしれない。
そう考えながら目を閉じた。
◇
翌朝。
目を覚ます。
「……朝か」
巨木の隙間から外へ出る。
空は明るい。
川も昨日と変わらず流れている。
何となく顔を洗おうと川へ向かい――途中で止まった。
「…………」
昨日から、ほとんど何も口にしていない。
水は少し。
木の実も味見程度。
なのに。
「腹……減ってない」
喉も渇いていない。
昨日と同じだ。
いや。
昨日よりもおかしい。
丸一日近く経っているはずなのに、何も感じない。
腹に手を当てる。
気分は悪くない。
立ちくらみもしない。
普通に走れそうなくらい体は軽い。
「……僕、本当に人間なのか?」
口にした瞬間、自分で少し怖くなった。
手を見る。
指は五本。
腕もある。
足もある。
少なくとも、見た目は自分の知っている人間と変わらない。
「……考えても分からないか」
結局、そこへ戻ってくる。
腹が減ったら食べる。
喉が渇いたら飲む。
今は何ともない。
なら、探索を続けよう。
◇
二日目は、昨日とは違う方向へ歩いた。
巨木が見える範囲を意識しながら進む。
草原。
川。
木。
動物。
それだけだった。
三日目はさらに遠くへ行った。
途中で小さな丘を見つけた。
「高いところなら、何か見えるかもな」
少し期待して登る。
頂上から周囲を見渡す。
「…………」
草原だった。
どこまでも。
遠くまで。
その中で、あの巨木だけが圧倒的な存在感を放っている。
何キロ離れているのか分からない。
それでも、はっきり分かる。
「あれを見失うことはなさそうだな」
少し安心した。
日が傾き始める前に、巨木へ戻る。
四日目。
別の方向へ。
五日目。
さらに遠く。
六日目。
川の上流へ。
毎日少しずつ、探索範囲を広げていった。
それでも何も見つからなかった。
道もない。
建物もない。
畑もない。
煙すら上がっていない。
人間の生活した痕跡が、一つもない。
そして毎晩。
僕は巨木へ戻った。
壁のような幹に手を触れる。
根元の裂け目へ入る。
「ただいま」
いつの間にか、そんなことを言うようになっていた。
当然、返事はない。
それでも。
最初に目覚めた場所。
川がある。
果実がある。
安全に眠れそうな隙間がある。
何より、どこからでも見える。
気づけば、この巨木の根元が僕にとっての家になっていた。
◇
何日目だっただろう。
もう数えるのも少し面倒になっていた。
相変わらず、腹は減らない。
喉も渇かない。
それでも時々、水は飲んだ。
木の実も食べた。
必要だからではない。
美味しいからだ。
「今日は黄色いのにしてみるか」
そんなことを考えるくらいには、この場所での生活に慣れていた。
寝床にも手を加えた。
巨木の裂け目の中へ乾いた草や葉を運び込む。
地面に敷く。
その上に寝てみる。
「お、ちょっとマシ」
次の日には、雨が入り込みにくいよう入口に枝を立てかけた。
川辺には座りやすい石を運んだ。
巨木の根元にも、拾ったきれいな石をいくつか並べた。
特に意味はない。
ただ、その方が少しだけ自分の場所らしく思えた。
小さな動物が近くまで来ることも増えた。
「お前、また来たのか」
話しかける。
動物は耳を動かしただけだった。
「毎日暇そうだな」
言ってから、自分で笑う。
「……僕もか」
その笑い声が途切れる。
静かになった。
風が吹く。
巨木の遥か上で、無数の葉が揺れる。
川の音が聞こえる。
それだけだった。
「…………」
なんだろう。
急に胸の奥が重くなった。
「……寂しいな」
初めて、それを声にした。
今までもずっと一人だった。
けれど最初は、やることがあった。
ここがどこなのか調べる。
水を探す。
食べられるものを探す。
人を探す。
遠くまで歩く。
毎日、新しいことがあった。
でも、もう分かってきた。
少なくとも一日で行って戻れる範囲には、何もない。
もっと先へ行けば、何かあるかもしれない。
人がいるかもしれない。
街があるかもしれない。
けれど。
そこまで行くには、この場所を離れなければならない。
一日では帰れない距離まで進む必要がある。
何日も野外で過ごすことになるかもしれない。
振り返る。
巨大な幹。
自分が寝床にしている裂け目。
拾って並べた石。
川辺に置いた椅子代わりの岩。
ほんの少しだけ。
本当にほんの少しだけ。
ここは自分の家になっていた。
「……どうしようかな」
もっと遠くへ行くか。
それとも、もう少しここで暮らすか。
巨木の根元に座り込む。
しばらく考えて。
「まあ……急がなくてもいいか」
食べ物には困っていない。
水にも困らない。
そもそも、どちらもなくても平気なのかもしれない。
なら。
「もうちょっと、ここを住みやすくしてみよう」
今度はもっと柔らかい寝床を作ろう。
雨が降っても濡れないようにしたい。
暇なら何か道具を作ってみてもいい。
やることなら、まだある。
そう思った。
◇
その日の夜。
いつもの巨木の隙間。
草と葉を敷いた寝床に横になる。
入口の向こうには暗い草原が広がっていた。
川の音が聞こえる。
「今日さ」
ふと口を開く。
「川の向こうに変な動物がいてさ」
そこまで言って。
止まった。
「…………」
誰もいない。
当然だった。
ここには、自分しかいない。
僕はゆっくり目を閉じた。
家はできた。
安全な場所もある。
川もある。
食べ物もある。
眠る場所もある。
でも。
今日あったことを話す相手だけは。
どこにもいなかった。




