伊都淵貴之
伊都淵さんを追って階段を下り、重いドアを開けて足を踏み入れた先は、奥行が50mはあろうかという回廊だった。圧迫感を全く感じさせない高い天井はシェルターというより地下要塞といった物々しさだ。僕は圧倒されていた。
〝会議室〟と書かれたプレートの提がる一室に案内され古びたソファを進められる。トコログリアと成分構成の収められたメモリーカードを渡すと伊都淵さんは衝立の向こうに姿を消す。ほどなくしてコポコポという音が聞こえてくる。
「お待たせ、ブラックでいいだろう? 砂糖には色々用途があって貴重なんだ。我慢してくれ」
小学生の粘土細工のようなマグカップから芳醇な香りと湯気が立ちのぼる。エスプレッソでなければ砂糖はなくても構わない。「御馳走になります」と言ってカップを受け取った。
作り物である僕の腕は繊細な動きに慣れていない。カップを割らないよう両手でそっと包み込むようにしてコーヒーを口に運んだ。久々に味わうせいもあったろう。思わず「美味いっ!」と、声をあげたくなるような本格的な味だった。伊都淵さんは満足そうな笑みを浮かべて僕の正面に腰を下ろした。
氷のドーム建造が忙しいのか、カジさんもターちゃんも下りて来ていない。ドアの向こう側、シェルターの回廊はしんと静まり返っている。伊都淵さんがその静寂を破った。
「その手足――おつむもそうだな、所んちで作ってもらったのかい?」
僕は口に含んだコーヒーを噴き出しそうになった。慌てて呑み込んで意表を突かれた質問に質問で返す。
「わかるんですか?」
「梓の専門は網目SMA人工筋肉やネオボーンを駆使した形成外科手術だからな。それに言っちゃあ悪いが君は物事をじっくり考えて行動するタイプではなさそうだ。その君を一人で送り出したとなれば、それ相応の準備はしただろうさ」
その通りではあったが、遠路はるばるやってきた客人に対して些か配慮に欠けた発言ではある。僕は不愉快になった。すると伊都淵さんは何が楽しいのかニンマリとして続けてきた。
「それだよ、意にそぐわないことを言われただけで不機嫌になる。それでは生き残った人々のリーダーにはなれない」
「お言葉ですが、僕にそんな資質もなければ大望もありません」
農園跡に氷のドームを作って生存者を集め、事態の好転を待とうというのが僕の思いつく精一杯だった。誰がそんなだいそれた事など考えるものか。
≪外野フライを狙っていては、それすら打てないぞ。四番バッターならホームランでランナーを歩いて帰すぐらいの気概を持つんだ≫
≪何の話でしょう? 生憎、僕は野球オンチでして、そんな比喩を挙げられても――え?≫
僕達の間から言葉は消え去っていた。
≪これにも慣れてもらわないとな。これは脳の電位変化――つまり脳波を視覚で読み取って言葉やイメージに変換している。君が一歩やマリアと意思疎通を図れたのもこれのお陰だ。情報を過不足なく正確に伝達し、時には悪意を持った人間を排除するためにも使う。危険を未然に防ぐこともリーダーとしての大切な素養だ≫
≪ですから僕にリーダなんて――≫
その時、会議室のドアが開いて男性が飛び込んできた、遠くから走ってきたのか男性の息は荒い。唾を呑み込むようにしてようやく言葉を発した。
「……届いたそうですね、トコログリア」
「ああ、十分な数量がな。だがノックぐらいしろよ、来客中だぞ」
「すみません。あまりに嬉しかったもので」
「無理もないか、村山君の受け持っているシェルターには未接種の人が多かったもんな。早く届けてやるといい。カテーテルの取り扱いは慎重にな」
伊都淵さんが席を立ち、衝立の向こうからトコログリアの容器を運んできた。さっき話していた村山君という人のようだ。この生真面目そうな中年男性が、超有名なプロ野球選手だったということを僕は後に知らされた。彼等の話しぶりからすると、生存者のコミュニティはここだけではないらしい。危機管理が徹底していたのだろう、この杜都市より人工が多かったはずの井之口市がああだったというのに……僕は国家というものが如何に自然災害に無力であるかを思い知らされていた。
「はいっ、充分注意します」
トコログリアのはいった容器を手渡された村山さんが部屋を出てゆくと、僕達は再び意識の遣り取りを始める。
≪どこまで話したかな? そうそう、君にリーダーシップを頼みたいというところか、まあ聞きたまえ。9.02を生き残った人はおそらく地球全人口の数パーセントといったところだろう。トコログリアに相当するものが海外で開発されていれば話は別だが、そうでなければ全世界における生存者は3パーセントに満たないのではないかと考えている。舞いあげられた粉塵は思ったより早く収束しそうだが、それでもこの国が南極座標に位置していることに変わりはない。氷床は厚みを増している。このままではバイナリ地熱発電も早晩滞ってしまうだろう。幸い我々は氷の中にメタンハイグレードの鉱床を発見した。おそらくブラックスモーカーが凍結で閉じ込められたのだと思う。ガスタービン発電の設計も終わり建造を待つだけとなっている≫
≪ですが、それほど一気に地軸が動いたとすれば、この程度の被害では済まなかったのではないでしょうか≫
僕はこしゃくにも東北のカリスマに理論で立ち向かって行った。もっともすぐにペチャンと潰されてしまうのだが。
≪ポールシフトは知っているようだな。所達にもわかりやすいよう、ああいった表現を使ったが、私にわかっているのはここが南極座標だということだけだよ。少なくとも状況と磁石はそれを示している。南極点の大量発生も抗議ではポールシフトだと考えられる。私は自説にこだわるつもりはないよ。君の考えがあるなら聞かせてもらおう≫
≪それは……≫
反論のみで何も用意してなかった。
≪太陽活動がここ数ヶ月活発になっていたのは気づいていたかな? CME(コロナ質量放出)が磁気圏に裂け目を作り、その影響でカルデラに亀裂が生じて海底火山が噴火。その場合、地表はそのままで地殻が動いてしまうことがあるという説を唱えた学者がいた。地質学に反する者だとして多くの科学者は否定したがね。しかし、地殻に急激な変化が起きれば楕円形である地表に及ぼす影響は計り知れない。或いは本当に地球儀の支えが外れるように地軸が外れちまったのかもしれない。地表が剥がれないで済んだのは自転と反対方向にモーメントが働いて相殺されたとも考えられなくはない≫
≪はあ……≫
伊都淵さんの語る半分ほどしか僕には理解できなかった。理科の教師としては失格だ。
≪惑星X説もある。太陽系をとんでもない速度で回っている惑星の引力が甚大な被害を引き起こすというものだ。まあこれは終末論者の戯言みたいなもんだがね。何れの可能性に於いても科学者達は〝常識に照らし合わせて考えられない〟と否定し続けてきた。その結果がこれだ。常識なんて糞くらえ、だ。連中の危機管理の甘さが多くの人々の命を奪ったといっても過言ではない。地球がゴルデッロックスゾーン(生命居住可能領域)にあること自体が奇跡みたいなもんなんだ。絶滅の危機なんざ、いつきたって不思議はなかったんだよ。この星で何が起こったのかは人類が生き残っていればいつか解明してくれるだろうさ。とにかく、現状を受け入れ、次の災害に備えるしかない。地磁気の乱れは収まってないんだ≫
≪その可能性があるんですか?≫
物騒な仮定に僕は膝を乗り出した。
≪私にもそれはわからない。人は希望を失うと悪さに走る。だから我々は希望を生み出し続けて行かなければならない。通信手段と移動手段が構築されるまでは君が生存者達の希望になるんだ。大車輪の活躍をしてもらいたい。この先も口うるさい事を言うが、我慢してくれ≫
雄さんの代理で来ただけの僕に、急にそんな大役を押し付けられても……僕は完全に腰が引けていた。つい半月程前までは教師という食いっぱぐれのない職を定年まで勤め上げ、老後は年金で生活するか息子の世話になればいい、といったお粗末な人生設計を描いていたのだ。父さんならともかく、僕にリーダーの素養なんてこれっぽっちも備わってはいない。口を、いや、脳をついて出るのは言い訳ばかりになっていた。
≪しかし僕にリーダーなんて……≫
≪雄一郎君に救われた命だろう? 二度目の人生だと思って私にあずけてみないか。おそらく所も梓もそれを願って封印していたP300Aまで持ち出してきたんだと思う。君のバカみたいな生命力に賭けてみたくなったんだろうな、特例措置だったんだ。それほどの能力を手にしながら生かそうとしないのは彼等に対する冒涜ではないのかな≫
伊都淵さんの意識が熱を帯びる。所教授の気難しい顔と、眉間に皺を寄せて僕を見つめる梓先制の顔が浮かんだ。そして雄さんの顔が……逃げ道はどんどん狭められていった。
≪それに君は既に幾人かの人々を助けてきているじゃないか。難しく考える必要はない。それを続けていけばいいんだ≫
≪母や生徒を救うのは当然の責任でもあったし、途中で助けたご家族は行き掛かり上です。僕に他人のために働くなんてことが――≫
≪私は君のお父さんとは面識がないが、寝食を共にしていたカジさんから話を聞く度、小野木さんの言動に感心させられたもんだ。〝何故そうまでして一文にもならないボランティアにのめり込むのだ〟と訊ねた人に彼はこう答えたそうだ。「人の役に立とうなんて思っちゃいないし、そんな気持ちじゃ続くもんも続かない。いまわの際に後悔のない人生を送ることが出来たかと自問して、胸を張って〝あたぼうよ〟と答えたいがためにやっているだけだ」その言葉に私は痛く感動した ≫
僕の最後のあがきは、脳味噌を飛び越えて直接遺伝子に働きかけるような殺し文句で封じ込められた。
≪……何をすればいいのでしょう≫
≪その気になってくれたか、ありがとう。心配するな、人を変えるのは目的意識なんだ。君なら出来る≫
伊都淵さんは壮大な計画を語り始めた。
≪さっき言った通り、我々にどれだけの時間が残されているのかもわからない。効率を上げるために、先ず君は使いこなせていない自分の能力について学ぶ必要がある。例えば音響定位だ。電波望遠鏡並みの視野と併用することによって――」
僕の頭に大量のイメージが流れ込んできた。手にした能力の使い他人の脳波の見極め方に意識操作の方法、ダスタービン発電機の設計図にバイオ流体緩衝材の培養方法等々を大量に詰め込まれた僕の脳味噌は肥大してしまったかのように感じる。ぬるくなったコーヒーの残りをすすってみたが、大した効果はなかった。
≪ドーム建造のための建築家は、どこで探せばいいんです?≫
≪エスキモーに大工が居ると思うか? 彼等はそれぞれの住まいをそれぞれが作るんだ。鯨の骨を使ったり圧雪ブロックを使ったりして状況に合ったイグルーをな。今この国にふんだんにあるのは氷だ。ならばそれを使うのが正攻法というものさ。心配ない、漆喰もコンクリートも必要とせずに氷は固まる。ここで作業にあたっている者にも建築の専門家などはいないが、ちゃんと柱は建っていただろう?≫
理屈はそうかも知れないが、ただの小学校教員だった僕の脳味噌に、イメージだけ植え付けられても果たして同様のものが出来るものだろうか、そんな不安を抱く僕の脳裏に作業工程の鮮明なイメージが浮かび上がってくる。最初、伊都淵さんが言われた通り゛過不足なく正確に〟なるほど、こう言うことだったのか――
≪やって……みます≫
僕の考えることなど全て通暁し尽くしているといった感じで、伊都淵さんは話を締め括りにかかる。中部のカリスマ襲名は遠い未来のように思われた。
≪では、みんなの許へ戻ろう。君に農園まで運んでほしい物がある≫
え? 一晩ぐらい温かいベッドで休ませてもらえるのでは……僕の淡い期待はドアを開け、さっさと階段へと向かう伊都淵さんの背中に跳ね返された。
伊都淵さんとの会見はニ時間程度だったはずだ。戸外に出た途端、僕はその明るさに目を見張った。電子望遠鏡並みの視力を開放した訳ではない。明らかにたちこめていた暗雲が薄れつつあった。伊都淵さんが空を見上げて眩しそうに目を細める。僕はカジさんとターちゃんの姿を求めて周りを見回した。すると作業の手を休め輪を作っていた7~8人の人だかりの中心でターちゃんの声が上がった。
「繋がったぞ! 雄も誠もみんな無事だ。美代ちゃんも農園に合流したってさ」
めいめいの服装に身を包んだ作業員達は、私設ボランティア集団を前身にバイオ流体緩衝材の開発で起業した伊都淵さんの許に集まった人々だったそうだ。殆どが20代半ばから30代半ばまでと若く溌溂としている。その彼等がフェイスマスクや手袋を宙に放り投げて歓声で応えた。GPS電話が繋がったらしい。他の作業員達もわらわらと集まってくる。電話はカジさんに手渡された。時に口元を緩め、時に気難しい顔をして話し込んでいる。仲間達の無事に安堵し、今後の細かな指示を出しているようだった。
「君の行先は決まったな」
伊都淵さんが声に出して僕に言った。
歓びに沸く集団の向こうから、でっかいボートみたいな物を引っ張ったマリアと依子さんがやってくる。地面がら浮き上がっているように見えるのは、マリアの馬鹿力で引いているせいだけではなかった。
エウロパの旅人 地球凍結篇 完




