第30話 忘れないために
エマ・ルースの遺体は、鐘楼の崩落から2日後に発見された。
身元を証明する正式な記録は、学院には残っていなかった。
そのため、王宮は彼女を身元不明者として処理しようとした。
ネネが反対した。
「名前が分かっています」
学院の応接室で、彼女は調査官へ言った。
「エマ・ルース。王立魔法学院に在籍していた生徒です」
「学院の名簿には存在しない」
「記録が消されたんです」
「それを証明する資料は?」
ネネは答えられなかった。
エマが持っていた白塔原簿は、崩落のあと見つかっていない。
偽物は、グレゴールが持ち去った。
本物は、ユリウスの部屋にある。
リナは、鐘楼の崩落後に原簿が見つからなかったことしか知らない。ユリウスが時間を止めて持ち出したことは、誰にも話していなかった。
「白塔で一緒だった生徒が、彼女を知っています」
「証言だけでは不十分だ」
「では、記録が消された人は、死んでも名前を返してもらえないんですか」
調査官は顔をしかめた。
「感情的にならないでもらいたい」
「でもこれは事実なのです」
ネネは静かに答えた。
声は小さい。
だが、退こうとはしなかった。
「人の名前を消したのは学院です。証明できないことを理由に、そのままにするのはおかしいと思います」
ユリウスは部屋の隅で、ネネを見ていた。
調査官の態度が変わる可能性は低い。
学院の記録がない以上、手続き上は身元不明者として扱うほうが簡単だった。
それでもネネは、何度も同じ説明をした。
結局、学院長が介入し、エマの在籍歴を再調査することになった。
葬儀までには間に合わない。
それでも、墓標にはエマ・ルースの名を刻むことが許された。
*
葬儀の日は、朝から雨が降っていた。
アレンの墓と同じ、王都南部の共同墓地だった。
参列した者は少ない。
ユリウスたち4人。
マーサ。
白塔から救出されたアルマとミロ。
セドリックは、まだ治療棟から出られなかった。
棺が土の中へ下ろされる。
ネネは、白い花を1輪置いた。
「助けられなかった」
小さな声で言った。
ダリオが隣に立つ。
「俺たちも同じだ」
「私がもっと早く、外へ連れていっていたら」
「お前のせいじゃない」
「でも」
「ネネ」
ダリオは珍しく、穏やかな声を出した。
「あそこでエマを守ろうとしたのは、お前だ。責めるなら、襲ったやつを責めろ」
ネネは俯いた。
リナは少し離れた場所で、黙って泣いている。
ユリウスは棺を見た。
「ユリウス」
ネネに呼ばれた。
「何?」
「最後に、エマと話した?」
ユリウスは一瞬だけ考えた。
「話していないよ」
「そう」
「崩れたときには、もう声を出せなかった」
事実だった。
時間が止まっていたため、声は出なかった。
「怖かったかな」
「たぶん」
「1人で?」
「僕たちが近くにいた」
「でも、助けられなかった」
ネネの目から涙が落ちた。
ユリウスは、その涙を見た。
胸の内側に、わずかな不快感があった。
エマが死んだことに対してではない。
ネネが泣いていることに対してだった。
「忘れないよ」
ユリウスは言った。
ネネが顔を上げる。
「エマのこと?」
「うん」
「会ったばかりだったのに」
「名前も、顔も、話したことも覚えている」
ユリウスの記憶から情報が失われることは、ほとんどない。
エマの瞳も。
助けを求める表情も。
見捨てた瞬間も。
忘れることはない。
「ありがとう」
ネネは涙を拭った。
「私も忘れない」
ユリウスは微笑んだ。
ネネが望む意味とは違う。
それでも、嘘ではなかった。
雲間から射し込んだ日の光がネネの灰色の瞳に触れ、翡翠色に輝いたように見えた。
*
葬儀の帰り道、リナがユリウスを呼び止めた。
ダリオとネネは、少し先を歩いている。
「鐘楼のこと、聞いてもいい?」
「何?」
「どうして、私を助けたの?」
「ごめんね。僕はなにもできなかったよ」
ユリウスは足を止めた。
リナの顔は青白い。
「私、大怪我をしたはずだったの」
リナは自分の肩へ触れた。
石が当たったはずの場所だった。
傷はほとんど残っていない。
「ネネが叫んだとき、ユリウスは、エマさんが助からないって、すでに分かっていたみたいだった」
「怪我を見れば分かるよ」
「でも、助けようともしなかった」
「崩落が迫っていた」
「私なら、助けた?」
「助けたよ」
ユリウスは即答した。
リナの目が揺れた。
「どうして?」
「友達だから」
適切な答えだった。
リナは喜ぶはずだった。
だが、彼女は笑わなかった。
「それ、喜んでいいのかな」
「なぜ?」
「なんでもないわ。」
リナはユリウスを見た。
以前よりも長く。
「ユリウスは、私のこと、好き?」
ユリウスは答えなかった。
ここで好きだと言えば、リナは安心する。
今後も自分を信じるだろう。
だが、それは不必要な約束を生む。
「大切な友達として好きだよ」
嘘にならない範囲で答えた。
リナは目を伏せた。
「分かった」
リナは、それ以上は尋ねなかった。
*
夜、自室で白塔原簿を開いた。
白塔に関わった者の名前が、何頁にもわたって記されている。
学院評議会。
王宮結界局。
軍の魔術部門。
慈善院を管理する聖堂関係者。
グレゴール1人を捕らえて終わる問題ではなかった。
白塔原簿の最後には、白塔で抽出した魔力の送付先が記されている。
王宮北棟。
王家の居住区に近い場所だった。
ユリウスは、グレゴールへつけた印を探った。
王都の中心へ向かっている。
王宮の方向だった。
予想どおりである。
窓の外では、雨が雪へ変わり始めていた。
ユリウスは白塔原簿を閉じた。
エマを助けなかったことに、後悔はない。
あの場では、最も安全な判断だった。
ネネが泣いていたことだけが、思考に残っている。
エマが生きていれば、ネネは泣かなかった。
だが、エマが生きれば、ユリウスの秘密が危険にさらされた。
もし、もう1度同じ状況になれば。
ユリウスは考えた。
おそらく、またエマを見捨てる。
それでも次は、ネネに知られない場所で死なせようと思った。




